2 微熱反応
少し冷えた風を全身に受けるのが好きだった。
去年まではほとんど享受できなかったのだが、国政が落ち着いた今では、一日のうちに何とか時間を見つけることができた。この風と上空から臨むクリミアの大地が、心と体に溜まった鬱積を晴らしてくれるのだ。
王家の敷地の一角の、青々とした大地めがけて、エリンシアの天馬は降下した。
マーシャの天馬もそれに続く。名残惜しいが、至福のひと時は終わりを告げようとしていた。だが、もう一つの至福―――このまま城下町へ下りて、カリル自慢の焼き菓子が二人を待っている。
マーシャの天馬の蹄が草を踏む音をさせると同時に、少女騎士は軽々と鞍から滑り降りる。
二人は次にまみえる菓子を思い描いたのか、顔を見合わせて微笑み合う。王宮へ行けばクリミア一の菓子職人はもちろんいるのだが、彼とは違う、どこか安心した味がカリルの腕にはあった。
ところが、エリンシアの天馬は主の意とは別にせわしなく首を振ったり足を踏み鳴らしたりしている。
エリンシアより早く、マーシャの手が手綱を取ろうとした。だが、いつもなら主同様に体を預けるマーシャに、天馬は激しく嘶いた。マーシャは驚いて身を固くするも、彼女もベグニオンの聖天馬騎士団の出。易々と手を離すことはしなかった。だが、それがかえって馬を興奮させ、陽光に滑らかな体を光らせながら激しく嘶く。
エリンシアは不思議がりながらも愛馬の首を抑えるようにして抱き締め、たてがみを撫でる。
それが功を成したようで、次第に天馬は落ち着きを取り戻した。
「どうしたのでしょう?」
エリンシアの問いに、マーシャも苦い顔で首を振るだけだった。
思い返せば、遠乗りの時から少し落ち着きがなかったように感じる。
「……今日はもう休ませた方がいいかもしれませんね」
ばつの悪そうにマーシャはそう言った。エリンシアは素直にうなずく。繊細な天馬には、充分な心の安寧を常々必要とする。食ませる餌も馬のそれとは違い気を使うほどだ。
天馬を専用の厩舎に繋げると、エリンシアの天馬はぶるぶると鼻を鳴らして、まるでさっさと行け、と威嚇しているようだった。
不可解さは消えなくとも、エリンシアは愛馬の鼻を撫で、王宮へと戻る。
兵がエリンシアの歩く小道の至る所に立ち、王宮への入り口では内政を預かる貴族も出迎えていた。
「陛下、お帰りなさいませ」
家臣は深々と頭を下げる。だが、その顔は苦々しく、彼女の対する不信ではないが、何か含んでいるのは見て取れた。
それは今に始まったことではなく、かと言って彼女が王位に就いた直後にあった表面ばかりの忠誠の体とはまた違う。この不可思議な家臣たちの態度に、エリンシアはただ眉をひそめるばかりだった。なぜならば、彼らの献言がすべて、
「また、天馬にお乗りになっていたのですか……」
と皆口を揃えてこう言う。
「ええ。会議までまだ時間がありますので。それに、今日中にわたくしの承認が必要なものは署名してあります」
だが、それでも家臣の曇った顔は晴れる気配はなかった。
今まで、エリンシアが天馬での遠乗りを咎められたことなど、それこそ継承直後にもなかったと言うのに。
おかしな話だ。
天馬が危険だと言うなら、エリンシアが離宮の姫だった頃から習わされた乗馬も、落馬の危険がある。
それに、今まで戦場へも何度も天馬で駆けたのだが、身を案じてはくれたが誰も馬や輿で行けとは言わなかったではないか。
とにかく、エリンシアは家臣の言葉には常に耳を傾けようと努めているが、この類の言葉はすべて無視している。明確な理由もなく、幸せなひと時を奪われたくはない。
一方。
やはり、直接進言した方がいいのではないか、と家臣たちは額を突き合わせていた。
宮廷中でひっそり流れ出した噂。それが家臣たちの関心を今惹き付けている。
とある貴族の令嬢が、ふとした縁で聖天馬騎士団に属するベグニオン貴族の令嬢と知り合ったのがきっかけだった。
天馬に興味を示したクリミアの令嬢が、友の天馬に近付いた時、激しく拒否を示す反応をしたのだ。先述のエリンシアの愛馬のように。
驚くクリミアの令嬢に、ベグニオンの令嬢は苦笑いを浮かべながら言った。あなた、殿方とお付き合いしているのね、と。
クリミアの令嬢は、帰った際に母親や侍女たちにその話をした。天馬は男は乗ることを嫌うが、乙女でない女も嫌がる天馬もいるのだと。だから帝国の聖天馬騎士団は未婚の女子に限り、時代によっては異性との交際も禁じられていたのだとも。
初めは淑女の茶会での話の種だけだったのだが、子弟の耳に入り、やがて地位のある貴族にも聞こえると、皆血色を欠えた。皆すぐに己の主君に思考がたどり着いた為である。
思えば、女王陛下の曾祖母にあたるお方も天馬騎士ではあったが、お輿入れの際には天馬をお降りになったではないか―――
それは次代の王族を産むという大役の為、命を大切にした為であったのではないかと、皆考えていた。
天馬は誇り高く、だが、一度心を許せばその身を捧げる。男自身は勿論、男の匂いや気配を嫌う天馬も中にはいると言われる。だから扱いも細心の注意を払わなければならない。
そして、エリンシア女王も天馬のその特性を知っているのではないか。天馬をこよなく愛す陛下は、天馬に乗れぬことを恐れ、浮名どころか結婚すら遠ざけているのではないか。貴族たちは挙ってそう囁き合った。
貴族だけの会議で、今一番紛糾している議題はクリミア王家の存続についてであった。
国は滅び、再興したのもつかぬ間に反乱、他国との戦争の飛び火、と近年だけでクリミアは何度も大嵐に飲み込まれた。だからこそ、先王のように次世代の誕生を風の気まぐれに任せてはならないと痛感している。
クリミア王家最後の二人は、王家の最重要課題に最もやる気がないように家臣たちには見え、歯痒さは日に日に増しているのだ。
「……今日もまた、釘を刺されてしまったのです」
幕を下ろしたように、空は闇が広がっていた。新月の夜は動き易いのだと彼は言う。
「妙なものだな」
広々とした寝台に横たわり、エリンシアの横顔を見上げていたが、そう言いながら逞しい身体をゆっくりと起こした。
「そうでしょう。ここ最近、彼らがわたしが天馬に乗るのをなぜか面白くないようで」
首に回された腕に手を添え、頬を預ける。天馬に乗る時間も、カリルの焼き菓子も大切だが、こうしているひと時も同じくらい愛おしい。
「もし天馬から落ちてしまえば、命はいくらあっても足りはしないだろう。貴族たちも、あんたの身を案じてのことじゃないのか」
「天馬は主を振り落とすようなことは絶対にしません。それに、馬から落ちたって軽い怪我では済まされないでしょう」
しばらく、隣で彼は黙った。だが、考え込んでいる訳ではないのは、手の動きでわかる。くすぐったさが甘い刺激に変わる前に、エリンシアは大きな手のひらを取った。
しかし、アイクは別の手を強く蠢かした。緩やかで穏やかなエリンシアのひと時がすぐに心臓の跳ね上がる場面となる。そうなることは分かっていたのだが。
「確か、天馬は男の匂いすらも嫌がるとか言ってたな。乗り手が男の匂いを纏わりつかせると、乗せるのを拒否するとか」
「あの子は今までにわたしを拒否したことはないのに……あ」
最後の声は、昼間のマーシャを思い出しての声なのか、アイクの手のひらによるものなのかは分からない。
寝台に身を埋められてはどうしようもなかった。今どんなにアイクの手を退けようと、身も心すらも、既に彼の掌(たなごころ)の中なのだ。