3 熱源に手を伸ばす
 さらりとした感触が、思い描いたものとは違った。
 眉間に深くしわを寄せ、まぶたを開いた。やはり、寝台をすっぽりと包む天蓋の中に、自分はいた。
 薄い紗に透けて見える天井。傭兵団の砦や、ましてや旅先の宿では絶対に味わえない柔らかな寝台と枕。自分の部屋ではないのだが、すっかり身体に馴染んでいた。
 
 その広い寝台に手が触れたのだが、滑らかな感触は敷布であって、寝台の主の肌ではなかった。
 だが温かさは残っていた。けだるそうに、ゆらりと身体をずらしてみる。体温と残り香があるとは言え、本物彼女の感触とはほど遠い。わさわさと音を立てて指が敷布にしわを作るも残った体温が本人へと具現化する訳でもない。それはわかっているとの反面、未だ霧のかかった意識がそうさせていた。

 薄く開けた目には、自分の手のひらが映った。愛用のグローブも手甲もなく、手入れとは無縁の、無数の傷が走る無骨な手が投げ出されていた。
 数刻前まで、確かこの手にあったものは剣ではなかった。この手より一回り、いや二回りも小さな手のひらだった。回数はアイクと比較にはならないが、剣を握り手綱を持っていたであろう手ではあったが、アイクのそれよりもずっと華奢で柔らかい。だが、決して「何も知らない」手ではなかった。その手に触れ、絡め取り、空をさまよえば強く握り返し、長く離れる事はなかった。

 窓からは明るい光が差し、脳裏にかかった霞を払い始めた。
 寝台の主は、すでに公務に出てしまったのだろうか。
 窓の外はなだらかな風が吹き、小鳥が木々を飛び交う音がした。この間は女王の私室でも最奥にあるゆえに、城内の音はほとんど届かない。別の部屋へ続く扉がひとつあるだけだ。
 
 寝返りを打ち、大きな枕に被さるように半身を乗せる。顔の半分を枕に埋め、じっと寝台の木目を睨んだ。
 いくら外の世界が一日の始まりを告げても、アイクは起き上がる気にはなれなかった。こんな事で気だるさを感じるほど軟な身体ではない。ただ、普段と違う光景なのはわかっていた。幾夜もここで過ごして来たが、いつもなら、目覚めても一人ではなかった。安らかな寝息を立てる姿を見てから、そっと城を抜けて行く。この部屋で一人なのは、いつもは彼女の方だった。心中の霞が晴れないのは、そのせいかもしれない。
 
 こうまで眠り込んでしまったのならば、そして自分より相手の方が先に動けてしまっているならば、彼女の身体を慮るべきではなかった。
 後悔までも生まれるが、ゆっくりと身体を起こすと、遠慮したつもりだが昨夜の名残は充分にあったと気付く。

「お起きになられたのですね」
 扉が開くと、エリンシアは盆を持っていた。
 その声は別段驚いた訳でもなく。温かい茶の湯気とパンの匂いと共に部屋に満ちた。女王であるはずの彼女は、当然見慣れた夜着姿でも、執務用のドレスでもなく、膨らみもひだもレースも少ない簡素なドレス姿だった。
「ああ」
 公務はどうしたと訊くのも妙な気がして、アイクは襟首を掻きながら身を動かした。目の前の小卓に、エリンシアは盆を置く。手際良く茶を淹れている腕は、昨晩この首に巻き付いていたな、とぼんやり思い返していた。
 
 襟首にあった指がぴたりと止む。
「アイク様。軽い食事を持って来ましたが、他に何かいる物はありますか?」
 丁度エリンシアがそう尋ねた。アイクは正直に言葉に出す。
「ライブを」
 エリンシアはアイクの返答に目を丸くした。
「背中がひりひりする」
 そして、ポットを傾けた手を止めた。カップから茶が溢れてもそのままに。当の本人は、もったいないな、と呑気な口調で身を乗り出し、陶器の取っ手に指をかけた。
10/11/25   Back