4 愛につき盲目

 治療する手つきは、ずいぶんと手慣れたものだった。
 天馬に跨り、戦場で傷ついた仲間を癒して来たが、その時のようにライブの杖を用いてではない。薬草をすり潰した傷薬を傷口に塗り、清潔な布を当てる。薬が染みたのか、アイクの眉がわずかに動いた。
 
 
 手当する者は患者の微細な反応に気付いているも、淡々と作業をこなす。鍛えられた半身にいくつもの傷はあるものの、それらはみな浅く、簡単な治療すら必要ないものもある。傷の痛みよりも、些少な傷一つ一つに黙々と薬を塗る手付きに、アイクは奇妙さを感じずにはいられない。普段の彼女ならば、大丈夫かとしきりに気遣うと言うのに。
 そんな気遣いの細やかな彼女が口を閉ざしているのは、わざとであろう。とアイクはそう感じている。そしてその原因が何かも、知っている。
 しかし、謝ったり取り繕ったりする理由はない。アイクも口を真横に結び、治療者に裸の背を向け、ただ傷の手当てを甘受していた。

「何故、この様なことに―――」
 



 にぎわいの中心を、茫然と見ていたひとりの将軍の髭の下が蠢いた。その呟きを聞いていた隣の男がちらと同僚を見る。

 青空の下、クリミア宮廷騎士団は、いつもとは違う活気さが沸いていた。訓練の張りつめた空気はなく、どちらかと言えば祭りのさなかのように兵らは隊長格から末端までわいわいと訓練場を囲んでいる。ただ、気が気でないのは名のある貴族や将軍の地位の者と言った面々で、額に冷や汗を浮かばせて行く末を見守っていた。

「殿下ご自身が筆をしたためたそうだ」

 殿下、と呼ばれる身はクリミアには現在ただ一人しかいない。
 クリミア宮廷騎士団前団長にして、エリンシア女王の叔父であるレニング大公。先のデインとの戦争にて戦死したかと思われたが、思わぬ形で帰還を果たした。祖国に戻ってより、宮廷の役をすべて断り、女王に王家所有の保養地のひとつを請い、下賜された郊外の館で静かに暮らしていた。中央にいてはいらぬ権力争いの火種を産むと、姪を案じてのことだった。

 若いとは言えないが少壮の身にて隠居してしまったレニングが、およそ四月ぶりに、しかも自らの意思で城に上がるのは珍しいことだった。人望厚く、宮廷騎士は元より文官たちの信頼を一手に集めていたレニングだった。兵士らは諸手を上げて来訪を喜び、元団長を出迎える兵らで訓練場はごった返した。湧き立つ兵士たちだったが、レニングが引き連れて来た男に皆息を飲む。だが、

「只今より、大公レニング殿下とグレイル傭兵団団長であるアイク殿との剣の勝負を行う」

 ざわめく兵を前に、ユリシーズが朗々と報じた。
 宰相の言葉どおり、二人の英傑が剣を携えていると兵らが知った瞬間、どよめきと歓声が混ざり合う。訓練場は決闘場へと瞬時に変わった。

 

 この部屋に来て、ようやく耳にしたエリンシアの言葉は、独り言に近かった。
 だが、アイクはエリンシアに背を向けたまま、堅く口を閉じたままだった。

 なぜ、このような見せ物じみた決闘が行われたのか。それは申し込んだ本人しかわからない。呼び出された方も、ただ剣での手合わせを申し込まれて参じただけだ。

 
 ユリシーズの合図で一気に静まり返るも、二振りの長剣は陽光を孕んだまま動かずにいる。
 アイクとレニングの対峙はこれが初めてではない。レニング自身、敵将だった記憶は朧なものだが、それでも武人として、"クリミアの英雄"の剣の腕は身体が覚えていた。そうとは知らずにいるアイクは、レニングの様子を窺いながら、柄を何度も握り直す。
 切っ先が触れる音で、充分に取っていた間合いを詰められていることに、アイクは気が付いた。もう一度かちんと金属の軽い音がしたかと思うと、今度は刃の中心部に強い衝撃が走る。とっさに身を引かなければ、剣を弾き飛ばされる所であった。五十も差しかかろうという少壮で、さらには"あの薬"のせいで三年程床に苦しんでいたとは思えない腕力だった。

 
 その時の衝撃は、今でも手に残っていた。
 レニング大公がクリミア騎士を率いていたのは王家の血筋だけではないということだけは、はっきりと言える。
 
 しかし、剣豪との試合のひと時は、肩に走った小さな痛みに遮られた。だが、その傷も先刻レニングに与えられたものだと振り返る。
 強硬なだけではなく、長剣の捌きも素早く、防ぐのに精一杯だった。疲れを待ち、反撃に出るつもりであったが、受ける一撃一撃も重く、体勢を整える暇もない。次第にアイク自身に乱れが現れ、肩を擦ってしまった。

「刃が大分丸くなっていたのが幸いでしたね」
「訓練用だからな。使い古した剣をわざと手入れせずにいる」

 それを示すように、肩の傷は切り傷と言うより打撲によるものに見えた。赤紫の痣にうっすらと赤い筋が走っている。
 エリンシアは、そこをなぞるように湿った布で血を拭う。

「ただの手合わせだ。大怪我などさせるつもりもするつもりもなったし、してもいない。レニング公などは、おれよりもずっと軽かった。そうだろう?」
 傷を手当する所作という所作が、余りにもゆっくりとしていた。肩に触れた布がぴたりと止まり、ため息のような、息が漏れる音が聞こえた。

「小さな傷でも、剣で、しかもこんなにこさえてしまえば大変です」
「自然に治る傷もある」
「……それでも、傷付いてしまった人を見れば放ってはおけません」
「それは、悪かった」

 謝ったものの、どうにも腑に落ちずにいた。
 何度も戦場に出、怪我どころか命の危機に晒されたことも少なくはない。その度にエリンシアは心配してくれたことはあったが、剣の鍛錬においては彼女は案ずることなどなかった。例え鍛錬で怪我をしても、これほどまでに怒ったり呆れたりしていた記憶はない。やはり、正気を戻して幾月も経たない叔父を相手にしたからであろうか。

 そうこう考えている内に、突然アイクの光景が闇に変わった。
 驚いて身をよじろうとするも、生傷に指先が触れられた途端、びくりとして身体を強張らせる。水を含んだ布を扱っていたせいか、エリンシアの指先はひどく冷たく感じた。
「エリンシア、何を……」
 目の部分に手を当ててみる。指に触れた感触で、自分の視界を遮っている物は愛用しているバンダナと悟った。
 冷たい視線に加え、冷たい指先が触れ、背中に嫌な汗が滲み出る。身体自体は自由なのだから、不可解な悪ふざけなど、振り払ってしまえばいい。だが、なぜかアイクはそうはしなかった。できなかった。大小の傷に触れる度、逞しい身体は小さく跳ねた。視界もなく、薄ら寒い部屋。その環境が余計に張りつめた皮膚を刺激する。触れているのは指なのか洗浄綿なのか、わからない時もあった。

 エリンシアは己に罰を与えているのだ。
 アイクはそう辿り着いた。自分は悪くないと、今でも揺るぎない。だが、彼はその"罰"を甘んじて受け入れている。

 
 
 アイクもただ押され続けている訳ではなかった。
 槌のような一撃は、数合目には弾き返し、次第にアイクが押す形勢と変わって行った。元来腕力には自信がある。それに慣れが加わった所以だ。
 静観していた兵士たちから驚きの声が漏れる。レニングが後方によろめいたからだ。アイクはその隙を逃さず剣を薙ぐ。だがレニングの脇腹で、金属のぶつかる激しい音が響いた。すかさず逆から剣を振るが、すぐに阻まれてしまう。やはり簡単にはいかない。

「卿、隠居するには早かったんじゃないか?」
 互いに鍔を重ね、重心はそこに傾けられている。数十合の激しい剣のぶつかり合いの後も、レニングは真正面からアイクの剣を受け止めていた。まだそこまでの力があることに、アイクは驚きを隠せない。斜めに重なった剣の向こうで、レニングは瞳を細めた。
「若い芽が伸びているのに、古い枝がいつまでも張っておれば樹にも良くないだろう」
 おまけに回りくどい口上までできる余裕だ。
「だが、だからと言って放っておきはしない。我が愛しき芽に、クリミアの未来に悪い虫が巣食っては困るからな」
 アイクは反射的に剣を前に押し出そうとした。力任せなのは得策ではないとわかっていながら。
 案の定、無策な力は簡単に受け流され、アイクは前にのめり込みそうになる。今度はアイクが頭上に対戦相手を見上げる番だった。一瞬だけだが、亡き父との鍛錬を思い出した。



 傷に触れる冷たい手に、堅い手のひらが覆う。意外にあっさりと、エリンシアの手はその中に委ねられた。
「レニング卿は、強い騎士だ」
「それはわかっています」
 叔父への賛辞は、却って不快にさせたらしく、硬い声の返答で言葉を遮られた。
「だが、彼は剣を自ら納めた」
 それでも続けた言葉を聞くと、エリンシアは押し黙る。認めたくないのだろうか。温かかった離宮を彩っていた一人が、己の許を去ろうとしていることに。
 冷たい感触が肌を離れ、アイクの視界を遮っていたバンダナが取り払われる。元より光の細い部屋だが、見えるのならば充分だった。
「叔父様は―――何と?」
「虫も病気も耐性もない樹では、良い樹にはなれぬ、と」
 呆れたようにアイクは吐き捨てる。アイクに決闘を申し込みながらも、結局レニングはそのつもりのようであったのだ。
 温かい息が漏れた気配がし、アイクは振り向いた。この日初めて見たエリンシアの笑みだった。
「それともう一つ、レニング卿から言われていてな」
「はい」
 アイクは椅子から腰を上げた。
「巣食ったからには虫は責任を持て、だと」
 エリンシアの眉間が寄った。だが、勝者の命だから仕方がないとアイクの指は細い顎を捕えた。エリンシアのそれとは違い、先刻まで剣を握っていた指は熱を帯びていた。

11/12/27   Back