5 境界線のない二人  おまけ

 離れた途端、夜風に現実に意識を引き戻され、息が詰まりそうになった。そう言えば、すぐ傍は見回り兵士の詰め所。いつ衛兵がやって来てもおかしくはなかった。
 アイクも同様のことを考えていたようで、エリンシアから目を逸らしながら頭を掻いている。外に設けられた灯りの下、変化のあまりない顔も赤く照らされていた。エリンシアもうつ向いてしまう。だが、アイクの胸元の服は握ったままだった。
「部屋まで送ろう」
「はい……」
 アイクは足下に置いたマントを羽織り、銀製の留め金を着け、銀の剣を佩いた。エリンシアが女王の冠を抱いた直後に彼に与えた物だ。これらを身に着けている彼に感慨などはない。だが、もう行ってしまうのか、自分から手放してしまったのかという後悔が生まれ、無理矢理に胸の奥に押し込めた。

 中庭から小城へ続く通路を抜け、次第に磨かれた床や毛足の長い絨毯、高価な調度品が並ぶ廊下へ出る。いつも見慣れているが、どこかおかしな空気が流れていることにエリンシアは気付く。城内にいる護衛兵士を始め、侍女や使用人たちの影すら見当たらない。
「もしかして」
 エリンシアは眉を寄せた。
 この城の主であるエリンシアが突如いなくなり、城詰めの者は探し回っているのではないだろうか。
 エリンシアは彼らに申し訳なさを感じつつ、アイクと一緒に私室を目指した。
 アイクも、王家の小城を護る兵の任という口実はある。それでも、城内を見回る兵に出会えば、彼にエリンシアを託し戻るつもりであった。だが、不思議なことに、誰ひとり出会うことはなく、遂には女王の奥の間の扉へ辿り着く。扉の前で、二人は顔を見合わせた。
「どうしたんだろうか……」
 呟くような問いだが、当然エリンシアにも答えられるはずもない。
 ゆっくりと扉を開け、中に入り、侍女を呼ぶも誰も出ては来なかった。使用人専用の隠れ間も覗くも、鼠の影すら見当たらない。
「どうしたものか」
 背後でアイクの声がし、エリンシアは小さな悲鳴を上げる。
「……すまん。驚かしてしまったか」
 思わず謝るも、アイクはエリンシアの反応にも不思議でしょうがないらしい。傭兵上がりの将軍と、上流育ちでは小さなところで"ずれ"が生じる。
 確かに、外で待っていろ、とは言わなかった。だが、一国の君主の、しかも女の寝所へ抵抗もなく足を踏み入れるものなのか。心配で付いて来てくれたのはわかるが。やはりこういう所はアイクだった。そう言った貴族の価値観とは無縁なのだ。
 そう結論に辿り着いても、気恥ずかしさは消えることはなかった。小さな獣脂の炎が、天井から紗の天蓋が垂れ下がった寝台と自分を照らす。私的な場所に想い人を連れて来るには、心の準備は足りなかった。それに、夜着ではないが、上着の下は動き易さを重視したドレス。そして、誰もいない。
「あの、アイク様……」
「どうする?おれは去るべきか?」
 エリンシアはすぐに答えられなかった。図らずとも寝室へ入れてしまったが、居続けることを許したのはエリンシアだ。しばらく考えながら、ゆっくりと息を吸い込む。恥ずかしさは無論あるが、その先への期待も同時に生まれていた。
 ここで帰してしまえば。それとも、共にいてもらえば。
「エリンシア……済まなかった」
 アイクはばつの悪そうに頭を掻いた。
「その、できれば……」 
 口数も多い方ではないが、こうやって口籠るのも珍しい。
「誰かが戻るまででいい。傍にいてもいいだろうか?」
 息が止まるかと思った。頭にも血が昇っているだろう。エリンシアはそう自覚しつつ、ぎこちなく笑み、頷いた。アイクも同じ想いを胸に抱いていたことが、何より嬉しかった。
「あなたの、望むままに……」
「いつもと反対だな」
 珍しく笑みを見せたかと思うと、アイクはエリンシアに多い被さった。ばさりとマントが鳴り、それはすんなり足下に投げ捨てられる。
 二回目は舐めるようで、アイクの温かい舌がよくわかる。エリンシアも一度離れてはその舌を受け止める。時々前髪が触れ合った。
 絡み合ったままの体勢で、寝台へと勢いよく沈んだ。天蓋がふわりと捲れ上がる。乱暴に座ったのだが、さすがは女王の寝台で、エリンシアの体重を柔らかく受け止めた。唇が離れると、エリンシアの深緑の頭はアイクの胸に埋もれる。アイクの唇が額や耳に触れる度、エリンシアの手指はアイクの服に深い皺を作った。しがみつしかできない。

 その状態でも構わずに、アイクはゆっくりとエリンシアが羽織っていた上着を取る。上着を剥ぎ取られた際に服越しだが体に触れられ、また体が熱くなる。夜着から一人で手早く着替えた為、ドレスの下も薄い絹の下着しかない。アイクもそれを悟ったようで、ゆっくりと膨らみを撫でて行った。
「あ……」
 ついに、しがみついて耐えるだけでは済まされなくなった。堅い皮膚に覆われた指が、服からでも分る程に硬い部分に辿り着く。いや、この指が硬くさせたのだ。アイクはそれを知ってか知らずか、更にゆっくりと動く。先端を探しているようにも思えた。
 エリンシアの全身が崩れ落ちるように寝台に沈むと、エリンシアの身体を支える必要のなくなったもう片方の腕が同じ動きをするようになった。エリンシアは首を振るが、止まることはない。むしろ、撫でる所作から強く掴むようになった。やはりそれだけでは物足りないらしく、アイクの両手はもどかしとばかりに背中に回った。自然と密着した体勢となり、アイクの体温や息遣いを耳朶に感じ、エリンシアはうっとりと眼を細めた。
 
 だが、アイクの手はぴたりと止まる。
 エリンシアはも体をびくりとさせ、寝台から起き上がろうとした。物音は、夢心地から無理矢理現実に引きずり出す。
 背中の釦はまだ外れていないことに、エリンシアは安堵し、手早く上着を来た。ちらと見たアイクからは、何の感情も読み取れずにいた。だが、そんなことを気にかける暇はない。
 寝台から隣の間へ続く扉へ行く足取りは、つい今まで男の手に溺れていたとは思えない程、毅然としていた。
「陛下、どちらへ行ってらしたのですか……!」
 灯りの届かない部屋の奥で、切羽詰まった女の声がした。アイクはできるだけ息を殺し、上掛けの下に身を潜めて様子を伺う。
「夜風に当たりたくて外へ出ていたのです。心配かけてごめんさない」
「とにかく、何もなくて良かったですわ……」
「ええ、中庭の見回りの兵には、声をかけてあったので。本当にごめんなさい。あなたも、今日はお休みなさい」
 穏やかに侍女に言い、エリンシアは扉を閉めた。
 同時に、アイクも胸を撫で下ろしながら起き上る。もうしばらく潜んでいれば、城から抜け出し易くなろう。
 だが、寝台を降りることは叶わなかった。エリンシアが寝台に近付きながら上着を脱ぎ捨て、アイクを抑えるようにしなだれかかる。
「エリンシア……?」
「ご迷惑でなければ……その……」
 よくよく見れば、エリンシアの面は灯りの色ではない赤に染まっている。扉を閉めてから、エリンシアは再び女王でなくなっていたのだ。
 三度目は、エリンシアから触れて来た。誰かが戻るまで。そんな約束は最初からなかったのだ。
 アイクは背中の釦に手をかけた。

11/06/20   Back