bump aggainst to you!
クリミア女王エリンシアの剣の腕は、三年前、初陣の頃に比べれば目を見張るほどの腕前となっていた。
クリミア貴族の社交辞令にも、剣に腕のある名士の世辞にも一様に「師に恵まれたので」とした答えなかった。
デインとの戦いは苛烈さを極め、彼女が天馬にまたがる頃には、アシュナード自身が手塩にかけた精鋭中の精鋭がクリミア軍を待ち構えていた。そんな中に、実戦経験のない王女が戦場に出るなど、命を投げ出すようなものだと言われていたが、その環境がかえってエリンシアと周囲の生に対する神経を研ぎ澄まさせ、今に至ったと言っても間違いではない。
最近の―――"女神の裁きが降りてより―――のエリンシアは、奇妙な行動、いや鍛錬がよく見られた。
隊を共にし、王女であった頃からエリンシアを知っていたライは元より、長年仕えているルキノですら首をかしげる。
「正の気に充てられておかしくなったんじゃねえのか?」
仮にも一国の王に対して無礼極まりないのだが、エリンシアの様子を見ていればティバーンを咎める気にもなれない。ちなみに、"それ"を鍛錬だと知ることができたのは、鷹王の忌憚のない質問が本人に直接投げかけられたからだ。他の者は遠目で見ることしかできなかった。
エリンシアの行動、いや、"鍛錬"は、ベオクの目からも、ラグズの目からも、鍛錬とは評し難いものだった。
敵に見立てたのか、一本の立木にただ自らの身体をぶつけているだけのもので、剣も使ってはいない。ラグズならば、己の爪や牙を立て、向かっていくであろうが、エリンシアはただ、肩からぶつかって行くだけだった。ルキノはエリンシアの肩を心配し、白鷺王子リュシオンは、木が傷付くのに眉をひそめていた。だが、それでも彼女は一心不乱にぶつかって行く。
奇妙なのは、それを実践に投入しない所だった。
正の使徒と称するアスタルテの兵らが襲って来た際は、エリンシアは一も二もなく天馬にまたがり、腰のアミーテを抜く。仲間たちはそれが不思議で仕方がないと言わんばかりにクリミア女王を見ている。
「今使うものではないので」
また、遠慮というものを知らぬ鷹の王が訊けば、クリミア女王はそう答える。どこか照れているように見え、恥ずかしいものなのかと、ティバーンはさすがに不思議がる。だが、戦いに支障がない為("鍛錬"の時も、肩を護る鎧は身に着けている為、身体への負担は少ないようだ)、隊長であるティバーンも、誰も止めることはなかった。
いや、乳兄弟たちや家臣は止めたのだが、エリンシアは頑として聞き入れずにいたため、諦めたと言った方が正しい。
やがてティバーン率いる一行は、目的であるベグニオン帝都シエネの中枢部へと辿り着く。
正の使徒の襲来は、常に突然のもので、アスタルテが座する導きの塔の入り口でも、それは変わらなかった。
奇妙な空気の"ぶれ"を感じたかと思うと、地面に次々と光の紋が描かれ、そこから金の鎧を着た兵士が現れる。見慣れた光景だが、皆違わず緊張を走らせ、各々得物を取った。エリンシアも仲間同様、剣を手にして天馬に跨る。
神秘的な塔の許、土埃を舞わせて双軍はぶつかり合った。
道を行く者と、護る物、普段にも増して苛烈な戦いが繰り広げられる。女神の膝元だからであろか、使徒たちの戦力が、今までよりも強くなっているようで、ティバーン達はいつも以上に苦戦していた。空への攻撃もいつにも増して激しくなり、敵に攻撃を繰り出せば、風魔法や弓矢の応酬が降って来る。
土埃ごと、軍隊を吹き飛ばさんとばかりに風が吹く。それが魔道によるものだと、更に、その風精が自分達を攻撃している訳ではないとすぐに悟る。風精が誰によるものなのかはすぐにわかった。胸が熱くなる。援軍だ。しかも、あの人の隊が。
後から駆け付けて来た仲間の隊は、見慣れた顔ぶれで揃っており、長旅の疲れを感じさせぬ程の俊敏な動きで戦っていた。
思わぬ援軍の加勢もあり、敵の数は徐々にだが、減らしているのがわかった。
ユンヌの言では、アスタルテも覚醒の不完全な力では、石になった兵士を使徒へと蘇らせるのには時間がかかるらしい。それでも質量ともに最高の軍隊ベグニオン帝国軍相手に戦うのは骨が折れる。
エリンシアは立ち上る土煙と黒煙の間を縫うようにして天馬を繰り、地上に降りた。
敵は少なくあるが、アスタルテの加護を得た戦士個人は強敵だ。仲間も歴戦の勇士ではあるが、無傷では済まされない。しかも、援軍の面々も、長旅の間に、多くの生の使徒と戦って来ただろう。
杖使いは近くにはエリンシアしかおらず、刀傷を負った勇士に癒しの杖を向ける。続いて、彼の傍にいた仲間にも同様にライブの杖をかざした。
礼を言われ、エリンシアは小さく頷くと、鈍く風を切る音が前方で聞こえた。
はっと顔を上げると、想像通り、大振りの剣で敵を薙ぎ伏せている剣士の背中がある。エリンシアは息が詰まる感覚を覚えた。
しかも、今しがた彼が斬った戦士を最後に、周囲の敵は粗方斃したようで、遠くで鉄のぶつかる音や雷鳴の轟きが聞こえるだけだ。格好の状況ではないか。
今だ。
とっさにそう思い、エリンシアは驚く仲間を余所に一心に駆けて行く。天馬ではなく、自らの足で。
「アイク様!」
懐かしい背中に、エリンシアの声は届いたようだ。赤いマントをゆっくりと揺らし、剣士は振り返ろうとした。返ろうとした、と言うのは、完全にそうできなかったからだ。
「……っ……!」
白い鎧が突進してくる―――ましてや、彼にとっても馴染み深い声が自分の名を呼べば―――など、予測できるはずはない。鎧が白ではなく金ならば、とっさに手にした剣が動いたであろうが。
鍛え上げられた肢体は突然の衝突に何もできず、そのまま後方に吹き飛ぶ。一部始終見ていた仲間も、状況が飲み込めずにただ目を丸くしてるしかなかった。
だが、さすがに身体を土で汚すまでにはいかずに済んだ。よろめきながらもラグネルを支えに体勢を立て直すと、驚いた顔でエリンシアを見る。
一方、不可解な行動を取ったエリンシアは、至極満足そうに頬に紅を差していた。驚くアイクに目もくれずに。
悪意はない。誰の目にもそれだけはわかる。だが、なぜいきなりこのような行為に走ったのか。それはアイクも、見ていた誰もわからなかった。
「……もしかして」
だが、一人だけ気付いた者がいた。
戦の中、主を探して駆け廻っていたルキノは、ようやく見つけたエリンシアの行動を見て愕然とした。
今までのあの"鍛錬は"この為であったのか。
主が未だあの剣士に想いを寄せているのは知っていた。その想いが戦場にて伝わる方法のひとつではある。だが、色恋に有効な方法だとは限らず、しかも、それもあくまで歩兵間のことで、天馬騎士である主にはそもそも条件には入っていない。
どこで知ったのかは知らない。いや、問題はそこではなく、主にはっきりと伝えるべきなのかとルキノは悩み続けた。唖然としている仲間に気付かず、嬉しそうにほほ笑む主君を見ていると、罪悪感が湧いてくる。
だが、恐らく誰も諌めなければ、その後もエリンシアは続けるだろう。そうなると、偉丈夫と評されるような身体ではあるが、訳のわからないままぶつかられるアイクも不憫でならない。この先も、恐らく女神との戦いも、それは続けられるであろう。