昼の月

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 わずかに漂う冷気と、崩れそうな雪が中庭に冬の足跡を残していた。しかし、それも収まる事のない人々の歓喜と体温により、いよいよ冬の幕を引こうとしている。
 喜ばしいはずの春の訪れ。しかし、その次に待っているであろう次の舞台は、ひどく恐ろしいものだと、エリンシアは椅子の上で動けずにいた。窓越しに自分と国の名を叫ぶ熱のうねりが聞こえる。窓ガラスまで揺らすそれが、クリミアの新たな幕に、エリンシアを引きずり込もうとしていた。
 
 この控えの間には、エリンシアひとり。一人にして欲しいと、再会を果たせたクリミアの忠臣たちを、乳兄弟をも下がらせていた。彼らの傍では、隠しきれぬ期待で自分の体が塗り固められ、その頑健な鎧を着て人々に姿に表す事になろう。それを思うと抵抗を感じ、かく言うも、自らの意思で椅子から立ち上がる事ができなかった。

 長い間俯いていた頬に光が当たり、エリンシアから真正面に位置する扉が開く音がした。呼ぶまで入るなと言ったのに。不快と不安を攪拌させながらエリンシアは顔を上げた。だが、顔を上げた瞬間、廊下の窓から漏れる陽が差し込んだ。部屋中を満たしていた空気が暖められ、エリンシアの中で凝固していた感情が溶け始めた。腹の奥がじわりと暖かくなるのも感じながら。
 磨かれた床に靴音が響く。エリンシアの不安に曇る顔を見たのか、愛用のマントがひと揺れし、彼は立ち止まった。彼の身体は少年と呼べる年なのに逞しく映り、この一年で降りかかったものを全て支えて来た事を物語っている。その一つが、エリンシアだった。いや、エリンシアが彼に多くを呼び寄せ、背負わせたと言ってもいいだろう。

「恐ろしいのです」
 雪溶け水が野に流れ出すように、エリンシアの口から、胸を支配していた感情が自然と漏れ出す。それは本人ですら、堰き止める術を知らない。
 最後の王族として国を取り戻す悲願は叶った。しかし、存在を隠されて育った自分に、クリミアの手綱を持つ資格があるのだろうか。今は祖国奪還に震え立つ国民が、その疑問を自分に向ける日がきっと来るだろう。

 エリンシアの頭上で影が揺れた。俯いていた顔を再び上げると、彼の目線が随分と下になっていた。数ヶ月前、テリウスが冬に入ろうとしている頃を思い出したエリンシアは、不安な中にほんの少し口角を上げる。神使サナキに勧められるままに彼に爵位を授けたが、それをすっかり忘れていたのだ。本人も今我が身が貴族であるなど、意識していないだろう。 
 まっすぐに見据えられていた。それは彼の内にある意志の強さ、迷いのなさを表すもの。それはどこから生まれるのだろう。
 彼の唇がゆっくりと動く。普段口数が少ない彼がこんなにも語ってくれたのは珍しい。だが、ひとつひとつ彼の言葉が繰り出されるたび、不安や恐怖は初春の空に吸い込まれて行く。
 傭兵として、彼を初めとする彼の仲間たちに助けを請い、ここまで来た。本来ならば、彼らの役目は終わっているのだ。だが、それでもなお傍にいてくれると言うのか。こんなにも過酷な使命を課して来たと言うのに。


「おれがいる」
 そう言って手を差し出された時、自然と腰が椅子から離れた。手が触れ合った瞬間、二人は同時に立ち上がる。差し出された手を包むように両手を重ね、エリンシアの口元にようやく笑みが戻った。彼もそれにつられるように顔を緩める。
 一度深く息を吸い、もう一度微笑んだ。あれほど恐ろしかった期待の叫びの中へ。バルコニーへ続く窓へ手をかける。まっすぐに背を伸ばして。
 不安は完全に消えたわけではない。それでも、向き合えるはずだ。この期待に。

 繋がった手を通して誓いが聞こえたのだろうか。エリンシアの指を包む手に力が込められた。
 




 目覚めは穏やかなもので、それがかえってエリンシアを驚かせていた。
 明日など来なければいい。毎晩、心のどこかでそう思っていた。しかし、今日はすっきりとした意識が存在し、身体も軽やかに寝台に別れを告げられる。
 侍女が運んできた水を喉に流し込むと、着替えを持った別の侍女が畏まって入室してくる。いつもの光景。普段の重々しい所作とは違う今日のエリンシアを彼女たちは気付いていない。
 これほどまでに心が澄んだ気持ちになったのは、何日、いや何ヶ月ぶりだろうか。それもあの夢のせいなのか。
 エリンシアははっきりと脳裏に残る夢に思いを馳せながら、寝台横の小卓に乗せられた朝食にナイフを入れる。皿の上の料理は離宮にいた頃と変わりないものだった。それが、クリミアの復興の一面を表している。
 
「遅れて申し訳ありません。エリンシア様」
 いつもは共に朝食を摂るルキノが、少し慌てた様子で入ってきた。困惑した顔色にその理由を問う。また内務官たちが難癖をつけに来たのかもしれない。今日はリヴェル候か。それともエニードン卿か。彼らは最早女王の粗を探す事が仕事みたいなものだと内心で呆れている。
 しかしそんな彼らの趣味に、朝早くからルキノが相手をするはずなどない事などエリンシアは知っていた。彼女の口から出たのは、意外な人名だった。思わず銀のナイフを取り落としそうになる。

「アイク将軍から面会の申し入れが」



 
 食事もそこそこに、身支度を整えてエリンシアは執務室に向かった。
 こんな朝早くから、しかも王を呼びつけるなど。他の家臣に知れれば顔をしかめるに違いなかった。ルキノもそれを直接アイクに注進したが、ただ「なら待たせてもらう」との一言で、控えの間にどっかりと座り込んだと呆れ顔で報告した。
 彼らしいではないか。
 アイクには、将軍位を与えてからほとんど顔を合わせていない。クリミア奪還から二年と半年、宮廷生活の中でも彼らしさを見つけて、少しだけ口元が緩む。

「お久しぶりです、アイク様」
 国王であるにも関わらず、エリンシアは椅子から立ち上がって家臣を出迎えた。初めてその現場を見た他の文官が諌めていたが、最近はその声は低くなっていた。アイクが「クリミア女王」の前へ姿を見せる回数が片手で余るほどだったのも、理由の一つだった。
 二年半。アイクと対面して、クリミアを狂王の手から取り戻してからの月日の長さを感じた。傭兵だった彼がこうしてクリミアに仕えてくれているはずなのに。傍にいてくれているはずなのに。いつまで経っても慣れないと言いながらも彼はクリミアの将軍だった。それでも彼は近くで見れば、グレイル傭兵団にいた頃のアイクのであり、エリンシアと出会い、思慕を寄せていた頃と何も変わってはいなかった。

 アイクはああ、と短く返事をしただけで、これ以上二人の間に会話は展開しなかった。彼の顔を見られただけでエリンシアは充分だった。
 アイクの手には、傭兵の時と変わらない革のグローブが覆っている。それが傭兵の時にはなかった銀製のマントの留め金を外す。将軍位を示すそれは、ベグニオン皇帝サナキから提案された物だった。「品性の欠片もない若造がいきなり将軍だと言っても誰も信用せんだろう」と本人を目の前にして言った言葉を実践したのだ。エリンシアは、将軍位と同時に与えた伯爵位の家名を決めていない事も思い出す。しかし、それはもう必要のない案件となった。
 亡父も愛用していたこげ茶の机の上に、重たい金属の音がした。続いて、同じく銀で出来た馬の首が施してある剣も同様にされる。柄は曇ってはいる。恐らく使っても、手入れもされていないだろう。それを承知の上で彼に与えた物だった。

 机と銀の章と剣を挟み、沈黙が続いた。
 あの夢は、もしかしたらこれを告げるために見たのかもしれない。いつも遠目に彼の姿を見続けて心の隅で感じていたものを現実とする時なのだと。彼を解放してあげなければ。彼の望む姿に戻してやらなければ。自分はもう、一人で歩ける。その思いを固めるために、あの夢が顕れたのだ。
 机上の銀器にエリンシアの手が添えられた。だが、視線はまっすぐに向かいの男に向けられている。

「今までありがとう。アイク様。あなたに出会えて本当に良かった」
 紛れもない本心を再び告げた。アイクは何も言わずに力強く頷いた。
 あの時、あの夢と同じだった。ただ、彼の横には自分はいない。愛用のマントを揺らす背中を見送る身に変わっただけなのだ。それは、彼ではなく、自分の旅立ちを意味するのだと。





「たかだか傭兵の癖に」
 アイクを目の前にしても吐き捨てられていたが、それでも彼はクリミアの英雄で、乳兄弟やユリシーズと同様、エリンシアを守る盾となってくれていた。それもかなり強力な。それを実感したのは、彼が去った後だった。
 アイクへの民衆の支持は、流れの速い河のようにエリンシアを守っていた。しかし河の流れが穏やかになれば、クリミアの貴族たちは向こう岸への矛先を遠慮なく向けてきた。エリンシアの後見役であり、政を補佐してきたフェール伯ユリシーズが宮廷を発つと、その勢いは増すばかりだった。いや、フェール伯がメリオルの宮殿を発った事ですら、彼らの反発と非難の種となった。

「わが女王陛下は、いつになれば、国を治めるという事の重みをわかっていただけるのか」
「この状況をラモン陛下やレニング殿下がご覧になられたら、どれほどお嘆きになられるか」

 年若い主君を諌めるはずの声は、無遠慮で攻撃的なものへと変わる。次第に先の戦役で命を落とした父と叔父の名の数が増えていく。非難の矢は覚悟の上だった。しかし、その矢じりに二人の名が刻まれれば、エリンシアの心中も穏やかではいられない。
 公人であった父母と叔父を、エリンシアははっきりと目の当たりにした事がなかった。離宮の窓から見えるのは、切り取られた絵画のような世界。大勢の民衆に手を振る王と王妃、宮廷騎士団の先頭に馬を進める宮廷騎士団長。エリンシアの目には、現実とはかけ離れた世界のようで、大好きな彼らも別人のように映っていた。
 そもそも、エリンシアはクリミアの後継者として育てられてきたのではない。だが、それを執政の未熟さの免罪符にするつもりもなかった。時折父母と叔父の姿をを思い出し、私人であった時の彼らから、そしてユリシーズの話から、父と叔父の政を学び取ろうと腐心する事もあった。だがそれは出口のない迷路に近かった。
   
 そんな暗い迷路を手探りで歩いている中だった。フェリーレ公爵ルベドックに不穏な動きありとの知らせがエリンシアに舞い込んだ。
 不信、不義が渦巻く宮中から、謀反の種が飛ばされる事もある程度は予想がついていた。今でも、謀反とまでにはいかないが、エリンシアに反発する貴族が徒党を組んで異議を叫んでいる。それが武力という形に変わってしまった。それでも、それが嘘ならば。エリンシアは不審な影を見せてもフェリーレ公爵を糾弾するのを思い止まっていた。
 しかし、エリンシアの願いも叶わず、ルキノが差し出したのは疑いようのない謀反の計画書だった。嘘だと笑っても許されるような物でもない。端が焦げた羊皮紙を持つ手がわずかに震えていた。
「お命じください」
 ジョフレの声に、エリンシアは両の目を閉じた。
「陛下、どうか」
 玉座の間に硬く響く。それは悲鳴のように聞こえた。今ここでフェリーレ公爵を討たねば、悲劇は再び幕を開ける。クリミアの地がまた戦場となる。それを、少しの血を流す事で収めよと言うのか。
 心中の波が激しく波打ち、喉へ押し寄せ、エリンシアの口から声となった。
「クリミア騎士団、フェリーレ領へ。反乱を速やかに鎮圧してください……速やかに、です」
「御意」
 跪き、深く頭を下げるとジョフレは王の間を去る。
 宮廷騎士団長となって久しいジョフレの背中をエリンシアはぼんやりと見ていた。もしあの背中が叔父だったら。この玉座に腰を落としていたのが父だったら。家臣たちが頻繁に出すせいか、エリンシアまでもが故人たちを甘い記憶から現実の世界へ引きり出す回数も増えてしまった。そもそも、父と叔父の治世であったら反乱など起こりようがないのに。

「これで、良かったのかしら」
 誰に言うでもなく呟いた声は、広い王の間に響き渡った。傍にいた乳兄弟の耳にも届いただろう。だが、ルキノはそれに返答しなかった。


 
 フェリーレ領内にて反乱軍を鎮圧したとの報を、エリンシアはメリオルの外れにあるアルピ砦にて聞いていた。だが、その朗報は胸中の波紋を完全に収める力はなかった。一晩経とうとも、いや、一晩経ったからこそ、それは激しさを増した。
 領内にて不穏な動きを見せていた火を消したものの、火付け役のルベドックとフェリーレ公爵家の正規軍が領内には見られず、その行方は未だ不明だった。それだけではない。今までエリンシアの側を離れなかったルキノまでもが忽然と姿を消した。
 ほとんど眠れずに夜を明かし、充血気味の瞳で軍議用の部屋の窓から外を見渡す。眼下には、兵士の出入りすら認められない。

「ここにいたか、クリミア女王」
 低い声を背中で受け、エリンシアは振り返った。旧知の顔に気を少し緩ませる。ハールとは先日、領空を侵犯したベグニオンの竜騎士との小競り合いで再会した。奇妙な縁ではあったが、それが気を許せる者が極端に減った今では、小競り合いの元となった聖竜騎士団に感謝するほどだった。
 ハールも感情が豊かな方ではない。しかし、エリンシアの目には、普段の気だるそうな顔が硬いように映った。確か、彼を雇う形で傍にいてもらう事を進言したのはルキノだった。
 
 せめて王らしとく気丈に振舞おうとしたが、黒い手袋の中で際立つ明るい髪が目に飛び込むと、急に体が錆びたように停止した。思考までも。
「しっかりしろ」
 淡々とした声で、重い体を動かす事ができた。ようやく青い髪を手に取る。ルキノの髪に互するように青ざめていくエリンシアに、ハールははっきりと告げた。まるで、「雇い主」からの命に従っているように。
「昨日、あんたの乳兄弟から、一刻ほど待っても戻らければ、ある場所へ行ってくれと言われていた。その隠れ家に、男の死体とこれが落ちていた」
 これ、とはこの髪なのだろう。エリンシアは手中の髪を軽く握った。ルキノ自身は見つかっていない。そうハールは付け加えた。
「本人の死体は見当たらなかったんだ、希望はまだある」
 希望。エリンシアは双眸を一度ハールに向けた。それを戻すように頷く。壁を通してでも慌てていると聞き取れる足音が耳に飛び込んだ。

「陛下、申し上げます!フェリーレ公爵軍が、こちらへ向かって来ます!」
 恐れていた事がいよいよ間近に迫って来た。大きく息を吸い込むと、伝令の兵に出撃準備を命じた。その様子をハールの一つしかない瞳が追っていた。
「こいつは予想の範疇だったって訳か」
「ルキノがここへわたしを連れて来た事と、砦を守る兵士たちの数で何となく予期できていました」
 そう、予想はついていた。だが、内乱が起こらない事をひたすら祈続けただけで、その芽を摘み取る事から逃げていた。全てをルキノに負わせて。
「あんたの家臣はただひたすらに『女王の為に』と言っていた。一人でもそんな事言ってくれる人間がいれば立派なもんだ」
 睫を伏せるエリンシアを諭すためか、ハールはそう付け加えた。首を真横に振る。どのような状況になろうとも、ルキノはエリンシアの治めるクリミアにとって最善の道を選ぶ。例え我が身がどうなろうとも。
「しっかりしろ。大変なのはこれからだ。おれもとことん付き合ってやるよ。伝令でも何でもいい」
「ありがとうございます。ハール様」
 その言葉にエリンシアは小さくも、しっかりとうなずく。自分が王として足り得ないとしても、それでも、戦での訴えなど許されるはずはない。しかし、エリンシアもまたそれを止めるために武力を持ち出す事に矛盾を感じていた。それでも、戦いは避けられない。



 未だ姿は見えぬが、フェリーレ軍の足音が脳裏に響いている気がしていた。胸は破裂しそうなほど高鳴っているが、頭と身体は先刻とは打って変わって働く。自分でも驚くほどに。常に傍で、憂いを払ってくれた二人は、今はいない。だが、ルキノが戦う術を作り上げてくれたのだ。これに応えなければならないという気概が、エリンシアをそうさせていた。
 フェリーレ公爵軍に対して、アルピを守るクリミア軍はおよそ半数。砦を守る兵士らにより、国内の領主たちへ出兵を命じるよう進言されたが、エリンシアは首を縦に振らなかった。領主はもとより、宮廷の文官、武官たちには各自領内の平定だけを命じてある。それに反して女王を守るために自ら私兵を差し出す領主たちもいなかった。そして、フェリーレに加担する者も。どちらに付けば利があるか、どこかで話し合っているのだろうとエリンシアは踏んでいた。今はフェリーレに肩入れしていないだけましだ、と憤慨する兵をよそに胸を撫で下ろしていた。
  

 王の部屋と言うには手狭な部屋へ戻る。簡素な、漆も塗られていない机にルキノの髪をそっと置く。死体は見つかっていない。ハールの言葉は、一握の希望となってエリンシアの胸に残っていた。一束の髪の傍で佇むエリンシアを、一振りの剣が待っていた。エリンシアはそれを手に取る。
 この鞘をまた抜く事になろうとは。
 深く溜息をついた。刀身は短く、柄や鞘の彫りの豪奢さを見れば、剣に深い者でなくとも祭事用の宝剣と思うだろう。しかし、これは確かに三年前のエリンシアの手中にあり、この剣と天馬で戦場を駆け巡った。クリミア復興の際、もう二度と抜く事はしないと願い、宝物庫へと再び眠らせた。しかし、ルキノによりアルピ砦へ身を移すように言われた際に、持ち出さなくてはならないと直感した。

「お父様、お母様、レニング叔父様。エリンシアは約束を違えます」
 お叱りは内乱が終結した後に、ゆっくりと受けます。そう胸中でつぶやき、一度短い刃を鞘から覗かせた。デインとの戦以来だった。
 よく磨かれた白銀の刃は、陽光を受ける。その眩しさに目を細めた。日はいよいよ高くなりつつあるのだと仰ぐと、意外な物を見つける。
「月……」
 西の空に、うっすらと月が浮かんでいた。偶然にも目に飛び込んだが、よく目を凝らさなければわからないだろう。それほどその存在は儚く、透きとおった空に半ば溶け込んでいた。夜空では美しく輝く月も、太陽の前には存在が翳ってしまう。
 太陽。それはクリミアの家臣たちには父であり、叔父であった。民にとってはアイクであった。
 彼が助けに来てくれたのなら。あの時のようにともに戦ってくれたのなら。そう脳裏をよぎると、エリンシアは急いで首を横に振る。宝剣を鞘に収め腰のベルトの留め金に繋いだ。それと頼りなく浮かぶ白い月をもう一度視線を送ると、早足で天馬の待つ屋上へと向かった。同時に見張り台の方角から鐘が鳴り響く。
 
 ルベドック率いるフェリーレ軍の旗が目前に迫っていた。エリンシアが砦から姿を見せると、反逆者らは彼女へ怒号と嘲笑を浴びせる。しかし、それはエリンシアの耳には届いていなかった。
 指揮台から一歩進み、太陽を背に、号令を出した。
 魔法の轟き、弦の鳴る音、吶喊の声がアルピ砦を包む。即位した時とは明らかに違うクリミア人の声。期待ではなく、誰もがエリンシアの首を取らんとし、エリンシアの命を守らんと殺気をみなぎらせていた。その渦の中、確かにエリンシアは立っていた。傍で支えてくれる者など、今はいない。


10/02/04TOP

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