本音と本能と肉

 差し込む陽光が弱くなった城の廊下を、鉄の音が歩みに合わせて派手に鳴った。わざとそうしている、エリンシアはがしゃがしゃと揺れる鎧にちらと視線を遣った。

「あの……」
 憮然とした顔はそのまま。元々無愛想な方ではあるが、今その顔は怒りを湛えている事は明白だった。口は開かれず、向けられた視線は鋭い刃のようだ。
「あの……」
 臆せずに呼びかけ続ける。彼の横顔、と言うよりも傷だらけの肩当てに呼びかけているような格好だ。声は届いているはずだが、一向に止まる事も、声の主に応える様子すらない。
「今日は、こちらでお休みください。食事は後ほど運んで参りますので」
 観念して、本題に入る。一国一城の主が、一介の傭兵を労い、それだけではなく、侍女のように客人を案内している。彼女より遥かに身分の低い傭兵に。エリンシアは身分を気にするような性分でもなく、この傭兵もまた、身分を気にするような性分でもない。

「あの……」
 重ねてもう一度呼びかける。しかし、傭兵はまだ足を止めずにいた。エリンシアが指した部屋はとうに通り過ぎている。彼は一体どこを目指しているのか。
 傭兵の大股の歩みは遂にエリンシアを置いて行き、幅広の背中を覆うマントを翻している。エリンシアにも馴染みの赤いマントは埃と泥に染まっていた。マントだけではない。身に纏う鎧も泥と血を浴びている。彼自身も無傷ではないはずだ。その治療も行いたいのに、彼は一行に硬い表情のまま歩いている。

「アイク様!」
 強く名を呼び、ようやく汚れたマントはぴたりと止まった。
 振り返った顔は、一層険しいものになっていた。きっと余計に怒らせてしまったのだろう。エリンシアは、アイクの心中が波立つ原因に気付いていた。それが自分にある事も。だが、謝るつもりは毛頭ない。
「部屋はあちらです。アイク様」
 負けじと、後方の扉を指す。彼は一向に表情を和らげる事もなく、指された部屋とエリンシアを交互に見た。

「何の真似だ、とは訊かん」
「はい?」
「だがな、」
 ようやく聞けた声は、唸り声のようで、エリンシアは仰いで思わず聞き返した。唸り声のような言葉は赤い光が差し込み始めた廊下に消え、アイクは首を振る。
「いや―――もう、あんな事はしてくれるな。そう言いたかっただけだ」
 吐き捨てるように彼は言った。今度はエリンシアの眉が寄る。返答に困った。
 一色即発の大軍の間に、戦いを止めるよう、丸腰で割って入った事。エリンシアの行動に、両軍の将は感服し軍を引いたが、ベグニオン軍の一部はそうはいかなかった。司令官の命を無視し、エリンシアを攻撃しようとしたベグニオン貴族の一隊を退けたのは、アイク達グレイル傭兵団だった。
「助けてくださった事には、感謝致しておりま……」
 マントが翻る音がしたかと思うと、エリンシアの背中に衝撃が走った。両腕は彼の片手に纏め上げられ、壁に縫い付けられたように動かない。動かす事は叶わぬと知った瞬間、驚きはしたが、言葉まで封じられる訳にはいかなかった。
「ですが」
 手だけではなく、視線まで杭のように、エリンシアを壁に縫い付ける。
 それに負けじと、エリンシアはじっとアイクの目を見た。
「ですが、あれは紛れもない、わたしの意思なのです」
 大軍に挟まれ、恐ろしくはなかったと言えば嘘になる。だが、後悔はしていない。命を賭しても己の意思を示す必要があった。そうでもしなければ、両軍ともに簡単に剣を収めはしなかっただろう。折角手にした平穏が崩れ、友と剣を交える事はどうしても避けたかったのだ。
「わかっている。だがな」
 率直に答えても、彼の心が鎮まらないのは予想がついていた。
 一度、ため息が大きく吐かれる。諦めなのか、心を整えるのか、これは解らずにいた。
「おれの労はどうなんだ」
「要らぬ戦いを強いてしまった事、本当に申し訳なく」
「そうじゃない」
 先刻のため息よりも、遥かに大きな声が吐かれた。
「あんたはただ一人のクリミアの王族だ。そのあんたが死ねば、クリミアはどうなる?」
 それは重々に解っていた。
 クリミアただ一つの希望。復興の旗印であった。エリンシアが王族の生き残りが存在したからこそ、クリミアが国として再興するきっかけができた。貴族の不満もあるのだが、彼女が王族であるという意味は大きい。その最後の王族すらいなくなれば、クリミアは再び大混乱になるだろう。
「アイク様、それについては―――」
「いや、違う。おれが、おれがあんたをデインから助けた。あんたを喪えば、このおれの、いや、違う。そうじゃなくて―――クリミアが―――」
 突然口籠り出した。ああだこうだ、いや違う。これの繰り返しで結論が出ない。口数は少ないが、言葉を濁す事などなかったのに。
 気が付けば、今まで彼の周りに張りつめていたものが緩んでいるような気がした。いや、違う。エリンシアの気が緩みつつあるのだ。
「アイク様―――」
「……すまん」
 視線が合うと、アイクはばつの悪そうに手を離した。急に自由になった身体が持て余して揺れ、西日を受けて長い影を作っていた。もうひとつ、エリンシアよりも一回りも二回りも大きな影が隣で伸びている。
 その影がエリンシアから離れようとしたが、それは叶わなかった。今度は、エリンシアの手がアイクを縛っていた。
「部屋は、あちらですよ」
 指された客室の一つにアイクは視線を遣ると、頷いてマントを翻した。彼女の許を離れようとする一心で、宛がわれた部屋があった事をすっかり忘れていた。
 ますますばつが悪くなり、アイクは早足で扉を目指す。
 取っ手を引いた瞬間、赤い陽と香ばしい香りに目を細めた。
「食事まで時間がありますから、お腹が空くと思いまして。お口に合うかどうかわかりませんが、どうぞ召し上がって下さい」
 背後で、エリンシアがバターの焦げる良い匂いの説明をする。確かに、"一仕事"終えた身体は空腹を訴えていた。口にするどころか、滅多に嗅げぬ香りに胃は鳴る一方だ。だが、
「肉がいい」
 彼はこの手の欲と本能には正直だった。例え振り返った先に、難しい顔をした女がいようとも。
「後で食事が来ますから、これで我慢なさって下さい」
 エリンシアも子供を諭す母親のような口調になっていた。客間に足を踏み入れ、小さな円卓に置かれた油紙の包みを解く。程良い焼き色と先刻よりも強い芳香がアイクの鼻と胃をくすぐった。
「その前に、傷の手当てをしなければなりませんね」
「傷は大した事ない」
 寝台に座ったかと思うと、半身を伸ばして菓子を取ろうとする。鎧やマントすら外す間も惜しい程に腹を空かしている。手に届く寸での所で、それは油紙ごと宙に浮き、アイクの指は虚しく空を掴んだ。
「駄目です。まずは傷の手当てを」
 菓子を手にするエリンシアの口調は、やはり母親のようだった。お互い頑固な所があるようで、傷の手当てをしたいエリンシアと、一刻も早く腹を満たしたいアイクの主張は一歩も引かない。
 意思はともかく、腕力は比べるまでもない。エリンシアの手首をぐいと己に近付けた。エリンシアの身体の均衡は簡単に崩れる。
 上がる悲鳴をものともせず、細い手首までかぶりつかんとばかりに菓子に食いついた。
「アイク様……っ!」
「うまいな」
 肉は及ばんが。
 などという失敬な言葉は、程良い甘味と共に飲み込んだ。
 食欲というものは、誠に都合が良い。  
12/02/17   Back