初春の呼吸



 かたん、と音がしてカーテンが風にふわりと舞った。その音と急に襲いかかった肌寒さで、エリンシアは反射的に振り返る。具体的な来訪日など、彼は言わない。だから、こうして密やかに私室の窓の鍵をひとつだけ、開けて待っている。政務に追われての疲労の影も、その姿を見れば消し飛んでしまう。
 クリミア王家の居住区の最上階。本来ならば警備も厳重なはずだが、今のアイクには辿り着くのは難ではない。彼は王の私室までの道のりを知り尽くしていた。それに、定期的な"侵入者"の存在が、城中に知れ渡っているからだろうか。

「寒かったでしょう」
 そんな室外の事情は知らずにいる部屋の主は、すぐにアイクの身体を暖炉の前へ促した。
「ああ、すまんな」
 病気知らずの偉丈夫も、風が吹き荒ぶ初春の夜はさすがに堪えていたようだ。すっかり冷えた愛用のマントを脱ぎ、直に暖炉の熱気に当たろうとする。エリンシアはすかさず脱いだマントを取ると、埃を手早く払った。この光景だけ見れば、どちらが部屋の主かわからない。

「それと、これなんだが」
 マントを掛けようとする背中に、淡々とした声と包みが投げかけられた。
「まあ」 
 とっさに受け取ったそれは、夜風ですっかり冷えているが、油紙の隙間から香ばしいバターの香りが漏れてエリンシアの鼻腔を刺激する。彼女にも馴染みの、好きな匂いだ。
「ありがとうございます。アイクさま」
「あんたの口に合えばいいが」
 深く礼を言うも、エリンシアの方を向かず、暖炉の火に顔を照らしたまま言う。
 エリンシアはその横顔に微笑むと、茶を淹れにアイクに背中を向けた。



「本当に美味しそう……ありがとうございます」
 並べられた紅茶と焼き菓子を前に、エリンシアは感嘆の声を上げた。
 部屋付きの侍女も下がらせている時刻。当然夕食も済んでいる。こんな夜半に飲食など行儀も身体にも悪いのだが、この夜は特別だった。アイクも腹を空かせているかもしれない。だが、テーブルを挟んで向かい合って座るアイクは、いつもの無愛想な面に、どこかばつの悪そうな影を落としていた。
「どうしたのですか」
 それが気になって、思わず覗きこむように尋ねる。
「いや、こんな安物ですまないと思ってな。何せおれの時は……」
 おれの時。
 それを思い出してまた笑みが漏れる。彼に焼き菓子を渡した時、よほど空腹だったのか「肉がいい」と真顔で言ったのだ。他の者が聞けば面食らうだろう。現に、ルキノに話したら心底呆れていた。そして律儀に肉料理を用意するエリンシアにも。
 それに、あの時のお返しだった事も嬉しかった。いや、アイクからの贈り物であれば、理由はどうだっていい。
「お気になさらないで下さい。それに、あの時だってわたしが作ったものですから」
 大した物では。そう付け加え、エリンシアはフォークを取った。
 ふわりと柔らかくフォークが沈む。簡素な菓子ではあるが、砂糖とバターの風味がよく効いている。カリルの手製とは違うが、彼女にも引けを取らない味だった。
「おいしい」
「そうか、良かった」
 素直に感想を述べるエリンシアに安堵したのか、アイクもフォークを取る。ただ、エリンシアのように切り分けるような事はせず、豪快に刺して口に運んだ。侍女が目にしたら眉をひそめそうだが、エリンシアには傭兵団に助けてもらった時分から見慣れている光景だった。

「本当はミストに選んでもらおうと思ったんだが、断られてな」
 その姿は容易に想像できる。彼女が兄の無精を嘆くのは、一度や二度ではないのだ。
「だからおれ一人で選ぶと……どうしても食い物になってしまう」
 「ごめんさないね、お兄ちゃんたら本当にわかってなくて」と、呆れ声の挨拶も逢う度にあるのをきっと彼は知らない。
「いいのです。これとても美味しいですよ」
 心からの言葉に、アイクもああ、と小さく頷いてカップに口を付けた。
「ミストはな、こんな事言うのは反則だと言うんだが……あんた、他に欲しい物はないか?」
「え?」
 突然の言葉に目を丸くする。アイクはその反応を前に、やはり妹の言う通り無粋だったと言いたげに、頭を掻いた。
「済まんな。あんたの喜びそうな物がどうしても思いつかなくて……それに、おれが買えるような物なんてたかが知れている」
 そこでようやく、アイクの顔の翳りの意味が分かった。贅に溺れてはいないと自負しているが、それでも王族は王族。城下に暮らす民よりかは良い暮らしを送り、身の回りの物はそれなりの品々だった。野に在る者の安価な贈り物など、どれも不釣り合いだと、彼は思っているらしい。
 そこまで気遅れする事はないのに―――その遠慮の方が無粋だと、心中でひっそりと眉をひそめたが、アイクの考えも一理ある。
「では、遠慮なく言っていいですか?わたしの欲しい物を」
 それに、彼が己の為に宝飾品などを選ぶのは想像できない。
 エリンシアは、軽く半身をテーブルに乗り出した。ああ、とアイクは怪訝な顔でエリンシアの顔を見る。何を言うか想像がつかないでいるようだ。
「あのマントを」
 そう言って、エリンシアは後方に掛けてある赤いマントを指差した。
「な、に―――?」
 怪訝な顔は、更に歪められた。無理もない。エリンシアは彼に出会った時からずっと、このマントを身に着けていない日は見た事がない。
「くれと言っている訳ではありません。一時だけ貸して欲しいのです」
「いや、でも、かなり汚いぞ」
「構いません」
 エリンシアは椅子から立ち上がった。木製の上着掛けからマントを取ると、その肩に羽織る。その瞬間、アイクの匂いに包まれた。何度も洗ってはいるだろうが、毎日身に着けていれば消えぬものなのだろう。胸元でマントを握りしめた。
「どうです?似合ってますか?」
「う、ん……まあな」
 珍しく歯切れの悪い返事だった。
「それをどうするつもりだ」
「眠るんです」
 はっきりと答えると、先刻よりより怪訝な顔になった。理解できない。そう言っているのは明らかだ。
「前に仰っていたではありませんか。このマントがあればどこでも眠れると」
「確かにそうだが……」
「だから、前からわたしも眠ってみたかったのです」
「だからと言ってな」
 アイクの言葉も最後まで聞かず、エリンシアはマントを身に巻きつけるよう手繰り寄せると、その場で横になった。この部屋は磨かれた石床の上に、毛足の長い絨毯が敷かれている。傭兵団の砦の彼の寝台よりも、安宿の寝台よりもずっと柔らかそうな絨毯だ。だが、少なくとも高貴な身分の女が寝そべる場所ではない。
「エリンシア」
 呆れた声が低く部屋に響くも、丸まった赤いマントは動く事はなかった。アイクが口を閉じると、じりじりと獣脂の溶ける音がいやに響く。
「エリンシア」
 もう一度声をかけ、アイクは膝を折った。覗いたエリンシアの瞳は閉じられ、ゆっくりと呼吸している。
 本当に眠ったのか。
 唖然とするも、包まったマントごとエリンシアを抱きかかえた。そしてゆっくりと寝台のある奥の間へと歩く。こうするのもこれは初めてではないし、寝台の場所も我が家のように馴染みがある。歩き出すと、寝息が早まり、不規則になったのをアイクは気付いていた。確かに野宿ではこのマントが頼りだが、持ち主のアイクですらこんなにもすぐ眠りに就ける事はなかった。
「まあいいさ。あんたの望むように、一時だけ貸してやる。一時だけ、な」
 
12/03/21   Back