心まで眠らない旅



 霧が立ち込める真っ白な風景が広がっていた。その光景は、すぐに夢だとわかった。
 なぜならば、霧の中、目の前にいるのは、いるなずのない父親だったからだ。
 それでもアイクは込み上げるものを抑えきれずに、一歩力強く踏み出した。
 逢えた嬉しさと、数多の言葉がどっと溢れ、口を開けたものの喉につかえて声が出ない。情けなくも開いたままの唇は乾きつつあった。
 その様を、グレイルは目じりに皺を寄せて見ていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「親、父……」
 ようやく絞り出せた言葉だった。
 だが、それと同時に周囲の霧に溶け込むように、父の姿は消えて行った。
 アイクはそれをじっと見ていた。なぜか、父を引き止める気は起こらなかった。無論、話したいこと、もう一度剣を交えたいこと、グレイルとの望みはたくさんあった。それでもだ。

 霧が晴れたかと思うと、アイクの視界にあったのは見慣れた部屋の天井だった。
 寝台から半身を起し、軽く頭を振る。夢の中とは言え、父と「出会えた」のはあの雨の日以来だった。グレイルが弟子の剣に斃れてより、ぷつりと途絶えた親子ではあった。だが、父はずっと息子を見守っていたのだろうか。グレイルは、アイクが求めていた、いや、彼が心の底に澱んでいたものを引き出してくれたのだ。
 起き上がり、すぐに上着を羽織る。立て続けに仕事を請け負っているが、団員を養っていくのが精一杯で、団長の部屋にさえ暖炉を置くことは叶わない。
 外套替わりの使い慣れたマントを羽織ると、剣を手に取った。これだけは、何があっても手放すことはしない。父の幻影を思い浮かべながら、愛剣を腰に佩いた。
 
 空は白み始めたばかりで、砦も、外も静かだった。その静けさが余計に寒さを感じさせる。廊下に出れば、口元から白いもやが生まれた。仲間に気付かれないよう、隙間だらけの床板をゆっくりと踏みしめる。
 しかし、食堂を通りかかれば、そこに人の気配を感じた。いつもは朝の鍛錬を欠かさぬアイクだが、この出で立ちでは鍛錬に行くようには見えない。別の出入り口から外に出ようかと考えたが、先にゆらりと影がアイクの前に音もなく出た。
 アイクは複雑な表情を隠せない。目の前の影―――セネリオも、小さな嚢を背負い、厚手の外套を羽織っていたからだ。
「行きましょう」
 彼らしい落ち着いた声がアイクの耳にだけ届く。
 観念したようにアイクは頷くと、セネリオは勝ち誇ったような笑みを一瞬だけ見せ、颯爽と出口へ向かった。
「当てのない旅だ。いいのか」
「いいも何も、ぼくが決めたことです」
 話せば、彼はきっと着いて行く。だからアイクはひっそり発とうとしていたのだ。だが、こうもあっさりと勘付かれようとは。
 
 馬も買う財もなく、偉丈夫と少年のような魔道士は雪原に足跡を作って行く。
 空は鈍い色が広がっているが、東の山々から明るい光が差し込んでいる。この陽光は女神のお慈悲。アスタルテを祀る教会は、信徒にそう訓えていた。
 だが、正の女神アスタルテは、いがみ合い、戦乱に明けくれる我が子を悲観して太陽よりも強い光を地上に放った。滅ぼさんがために。そして、全てを滅そうとしたアスタルテに剣を打ち立てたのは、自分だった。
 旅立ちは、それを後悔してのことでも、何かに失望したり悲観してのことでもない。ほんの小さな、他人に話せば一笑に付せられてしまうような、小さな不安のようなものだった。導きの塔より戻った諸国の王は、皆融和の道を歩み始めている。あのゴルドアですら、門戸を開こうとしているのだ。それは喜ばしいことだが、その風潮が乱れ始めたら。そう思い描き、心が冷えたような感覚を覚え始めたのだ。

「ぼくこそ、いいのですかと訊きたかった所です」
 しばらく歩き、体も温まった頃に、セネリオがそう言った。寒さは幾分か和らいではいるが、彼の口から白いもやは出続けている。
「ああ。親父も許してくれるだろう」
 夢の中の父は、そんな日々を送る息子の都合の良い解釈かもしれない。だが、このまま黒いものを肚に抱えたまま生きて行くより、この方がましだとアイクは答えを出したのだ。
「セネリオは、どう思う―――?このまま世界は平和へと向かうだろうか」
 意外な、とでも言いたげに、セネリオの赤い瞳はちらりと隣のアイクを見た。
「……変か?おれがそんなことを気にするなんて」
「まあ、意外だとは思います」
 陽は高くなるつつあるが、積もった雪は溶けずに二人に踏まれて行く。街道も埋もれ、所どころに生える木々はその数が次第に多くなっていた。アイクとセネリオはその間をすり抜けて進むだけだった。
「平和が永久に続くなど、お伽話もいいところです」
 昇りかけた太陽が、疎木の梢にかかっていた。その様を見て、セネリオは立ち止まる。
「人の成せる平穏など、たかが知れています。自分が生きているせいぜい内、いや、生きていても叶わない時もあるでしょう」
 思えば、戦いを生業としている傭兵が、世界の平和を心配するなど奇妙なものだ。
 だが、その傭兵という肩書き、アイクに至っては団長の立場まで棄て、遠く名も届かぬ地を目指そうとしているのだ。
「少し、考えていたことですけどね……」
 含むような口調で話ながら、セネリオはまた歩き出した。
「ほら、この林。覚えていませんか?ここから始まった」
 林と言っても木々は雪原にまばらに立っていた。だが、セネリオの言で思い出す。この三年あまりでかなり伐られてしまったらしい。確かに、ここで初めて戦った。亡国の王女を追って来たデインの軍隊と。
 三年前はエリンシアを保護し、砦へ引き返したが、今度は足を進める。
 セネリオの言う通り、ここから始まったのだ。ここへ来なければ、アイクはただの傭兵で生涯を終えていたかもしれない。慣れない道だが、進む度、奔馬のように記憶が駆け巡る。父の死、ラグズとの出会い、そして幾度もの戦闘、猛者との戦い―――背中に冷気ではない寒気が襲う。アイクはマントの胸元を無意識に握り締めていた。
「セネリオ」
 冷え切った空気にさらされていた喉が鈍い音を立てた。噛みしめるように、彼は相方の名を呼ぶ。
「親父がフォルカに頼んだことを、お前に頼めるか?」
 ざくざくと雪を踏む音だけが響く。
「ぼくがあなたに敵うとでも?」
 彼も考え込んでいたようだ、しばらくして、そう返事がした。
「魔道なら何とかなるかもしれない。それに、お前を前にしてなら、おれの剣も鈍るだろう」
「ならまだ正気じゃないですか」
 鼻で笑うセネリオだが、アイクは冗談で言ってる訳ではない。
 戦争などない方がいい。だがその一方で戦い、いや、強き者を求めて止まない自分がいるのだ。
 導きの塔での漆黒の騎士との戦いは、最早仇討ちではなく、純粋な剣の勝負だった。アイクはその間女神も、塔の外の現状も、後ろで戦っている仲間のことも皆忘れていた。頭も精神も、全てあの男に挑むことに染まっていたのだ。

「クリミア城が見えますね」
 急に話題を変えるように、セネリオが空を仰いだ。
 林を抜けると、なだらかな丘陵地が広がっていた。一段と高い丘にそびえる城も、雪と同化しているように見える。
「せっかく近くまで来たのですし、挨拶して行ってはどうですか?」
「ばかな」
 アイクは眉を寄せた。
 家族同然の仲間にすら一言も告げていないのに。それに、クリミア女王に告げても、彼女を悲しませるだけだ。
「一人くらい理由を知ってる人間がいても問題ないとは思いますけどね。むしろ、一国の王がそれを知ったら感動して武力沙汰は極力控えてくれるかもしれませんよ」
 セネリオらしくもない、いやに冗談めかした言葉がますます怪訝な顔にさせる。
「さあ、陽の高いうちに。温かいお茶くらいは出してくれるでしょう。もう一人、あなたの剣を鈍らせるお方が」
 そしてやたらと強引にアイクの背中を押してくる。
 そんな彼の腕を押し返す訳にもいかず、魔道士の細腕で、皮の長靴がクリミア王城の方角へ足跡を点々と付けて行った。




「―――と、いう訳でな」
 一国の女王を前にして淡々とアイクは旅発つことを告げる。
 クリミアの門兵は、"クリミアの英雄"の姿を見ると、即座に王城への門を開いた。更には大して改めもせず、女王のいる執務室にあっさりと通してしまった。セネリオは同行せず、そのまま控えの間で温かい茶と焼き菓子を愉しんでいた。

「そうですか」
 アイクの話に真摯に耳を傾けていたエリンシアだったが、話が終わると、溜息を吐き出すようにそう言った。
「あなたがいないとわかると寂しくなりますね。どうかお体にはお気をつけて。何か入用の物はありますか?」
「ああ、すまんな。最後の最後まであんたに気を遣わせてしまったようだ」
「いいえ。最後にお声をかけて頂いて嬉しいのです」 
 エリンシアは白磁の顔に笑みを湛えていた。その笑顔にはうっすらと悲しみが翳っていたが、心からアイクを送り出しているようだった。
 それから少し世間話に花を咲かせた。煌々と燃える暖炉の温もりがアイクを引きとめる一因でもあったが。
「では、な。あんたも息災で」
 ようやく暖炉との別れの決心が付くと、そう短く言い放ち背中を向ける。だが、ぴたりと足を止めて振り返った。
「なあ、エリンシア」
「はい」
 神妙な顔つきになったアイクに、エリンシアは目を瞬かせる。
 いや、とアイクは首を振った。
 深窓の姫君だった身が心ならずとも王位を継ぎ、それ以来かなりの苦労と責務を背負って来たエリンシアだ。今も一国の手綱を握っている。これ以上彼女に余計な重荷を背負わせたくないのが本音だ。だが。
 もう一人、あなたの剣を鈍らせるお方が。
 セネリオの言葉が蘇る。彼女を目の当たりにして、どうやらそれは本当のようだとアイクは確信してしまった。首だけ向けた姿勢を改めて向き直り、エリンシアの許へ一歩近付いた。
 セネリオのように、彼女は連れては行けない。いや、例え自分が手を差し伸べても、彼女はクリミアを選ぶだろう。
「すまん。一つだけ、聞いてはくれまいか」
「は、はい……」
 だからせめて、各国との友好を掲げる彼女のために、英雄と名の付いた人間は去るのだ。戦が始まれば英雄は誰もがその力と名を求め、栄光も欲しいままだろう。だが、平和な時世の英雄は、狂人に過ぎない。アシュナードがそのいい例だ。そして、己に忍びよる同じ影を自覚しつつあった。
 ゆっくりと絨毯を踏みしめるようにエリンシアへ近付いて行く。女王はアイクの様子に驚き、思わず後ずさりした。執務室の重厚な机に腰が辺り、体を強張らせる。
「エリンシア」
 アイクは背に入れていた右手を出す。太い指は短剣を握っていた。アイクは皮の鞘を放り投げた。武器もないエリンシアは身構えることしかできない。
 不意にエリンシアの強張っていた手が掬われ、短剣の柄を握らされる。剣の先はアイクの胸当てに当たっていた。
「おれが刺せるか?」
「……え?」
 エリンシアは剣の先とアイクを何度も見遣った。
「もし、おれがクリミアの脅威になった時、おれに迷わず剣を向けられるだろうか」
 その言葉で、エリンシアはようやく意味を理解した。呆気に取られて目を丸くしていたが、たおやかな笑みを見せた。
「……わかりました。向けましょう。多少は迷うとは思いますが」
 そう答えると、二人は同時に噴き出した。
「ありがとう。そう答えてくれると信じてた」
「試したのですか?ひどい人」
 悪い、とアイクは笑ったまま放り投げた短剣の鞘を拾う。それに抜き身の剣を納めると、再びエリンシアの手に押しやった。
「だが、今言ったことは本気だ。その証にこの剣を」
 研がれてはいるが、一目で安物とわかる短剣だった。エリンシアはそれを大事そうに両手で受け取ると、鞘から抜いた。きらりと陽光が剣に跳ね返ったかと思うと、深緑の短い束がぷっつりと切れた。
「お守りに、なりますでしょうか。あなたの無事を祈って」
「あ、ああ……そうだな」
 アイクは受け取ったそれをそっと握った。
「行ってらっしゃい。アイク様」
 "お守り"の主は寂しさの影もすっかり取り払われ、満面の笑みで手を振った。
「ああ。行って来る」
 今度はするりと踵を返し、セネリオの待つ控えの間へ向かう。温かい部屋に、もう未練はなかった。
 また会おう、などと世辞すら口にする気もなく。ただ、互いに面影だけを抱えて生きて行くことが最善なのだと。




11/02/02   Back