鋼鉄と鯨の骨

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 豪奢を誇るクリミア王城。その国王の私室の周囲は静かに、ただならぬ空気を醸し出していた。傷は多かれど丁寧に磨き上げられた大理石の床と、その上の覆う長い毛足の赤絨毯を、幾つもの靴が通る。しかし、そんな様子にも構わず城の主の扉は開かれる事はなく。
「グレイル傭兵団の方々が、かなりしびれを切らしてるご様子です」
 衛兵の一人が苦渋の様子で報告する。彼自信、なぜこの様な事態になったのか理解できていないのだ。
それ故に詰め寄るグレイル傭兵団への対応に窮していた。しかし、事情を知っている者はなぜかそれを語ろうとはしない。ただ「陛下のご命令である」とだけ部下に告げていた。
   
 掃除の行き届いた階段を別の衛兵が駆け上がって来た。先ほどの者より遥かに濃い焦りの色を浮かべている。
「申し上げます。傭兵団が門を破壊すると言っています。フェール伯、いかがいたしましょうか!?」
溜まっていたものを吐き出すかのようにそう告げられ、フェール伯ユリシーズは顎に手を当てた。先刻から件の室内では、女王の姉代わりであるルキノが説得している。だが、分厚い胡桃材の扉を通しても、それが難航している事は明白だった。
女王の意志も理解できないものではない。確かに、祖国奪還の最功労者であるグレイル傭兵団の面々をこのままただの傭兵へ戻してしまうのはクリミアとしても惜しいものだった。だが、それも彼らが強く望んでの事である。しかし、ユリシーズの主君は予想もつかぬ程の強情さを見せ、本人達の希望に構わず自らの意志を通そうとしていた。ユリシーズはこげ茶の扉の前で、ふぅ、と息を吐く。
「陛下。我が麗しの女王陛下。グレイル傭兵団の方々が、門を壊してまでも野に下ると仰っています。これ以上彼らを縛り付けておくのはお止めになられてはいかがでしょうか」

 詩の朗読会で慣らされた声をユリシーズは廊下に響かせる。扉の向こうからは何の反応もないのは予想通りなのだが。
文字通り、城の門扉を閉ざして閉じ込めてしまおうとはどういうつもりなのだろうか。あの傭兵団ならば、簡単に城門を破壊してこの場を突破する事もできよう。だが、後に残るのはクリミアと傭兵団の間にできた門の残骸のような関係なのだ。それは双方にとって一番不幸な事になる。それも女王はわかっているはずなのに。それでも、彼らの自由、心すら無理矢理縛り付けようと言うのか。
 

 窓を覗けば、遠くに見える城門に傭兵団が門番と対峙しているのが見える。実際に破壊はなされていないようだ。だが、この状態も時間の問題であろう。
顎の皮膚をつねりながら新たな策を練っていると、ユリシーズの耳に荒々しい足音と悲鳴のような声が飛び込んで来た。
「ア、アイク殿……許可なく立ち入られては……!」
「こちらの要求を無視して足止めしているのはどっちだ」
「アイク?」
ユリシーズは視線を赤い絨毯から、階段を昇って来る人物の方に向ける。思い出した。グレイル傭兵団の若き団長は、筋の通らない事は我慢できない性格であった。例えそれが、ベグニオン帝国の皇帝であろうと構わずに噛み付いてしまうのだ。この状態に痺れを切らして女王の所へやって来るのも不思議ではない。
「これはアイク殿」
「ここか」
ユリシーズの大仰な礼に目もくれず、アイクは胡桃材の扉を仰ぐ。こういう人物なのだ、とユリシーズ本人もさして気にしてはいない。

「はい。今お呼び致しますので。陛ーーー」

「エリンシア!おれだ!」

その声にユリシーズは目を見張るも、彼があれだけ労を重ねても無反応だった扉の向こうから、絨毯を通した鈍い足音がするのが聞こえた。鍵が開けられる音がし、分厚い扉がゆっくりと動く。しかし、女王自ら扉を開けた訳ではなく、そこには彼女を説得していたルキノがいた。

「陛下が、お入りになる事を許された。くれぐれも失礼のないように」

その言に、返事をする訳でもなく頷くでもなく、アイクはルキノの横を素通りするように部屋へ入る。彼に続くようにして扉を閉めようとしたルキノの肩に、ユリシーズの右手が置かれた。訝げな顔をする女王の乳兄弟に、ユリシーズは首を振る。

「ここは二人で」

「だけど……」

この部屋はクリミア女王エリンシアの私室なのだ。いくらアイクが女王の恩人であり、気を許せる仲間であるとは言え、おいそれと入る事は許されない。ましてや、男の身一人で入るなんて。

それでも、とユリシーズは髭を動かす。ルキノは臆せずに部屋の奥へと進むアイクの背中とユリシーズを交互に見た。確かに自分の説得でも事態は進展しなかったのだ。ここからは、件の当事者同士に任せるしかない。願わくば、事が穏便であるように。そう祈りながら、ルキノは扉を閉じた

 
 一国の王の部屋だけあり、そこは広く、造りも質素ではあるが丁寧で気品を感じさせる。部屋を彩る調度品はほとんど飾られていない。絵画や宝石などはデインに侵略された折に、破壊されたかまたは略奪されて存在していないのだ。ましてや、復興途中のクリミアにはそこまで気が回る余裕もない。

 そんな部屋の様子にはさして興味も示さずに、アイクは無遠慮に進む。最奥の部屋の紗の天蓋が目に入ると真直ぐにそこへ足を向けた。

 案の定、天蓋に人陰が透けていた。その人陰はアイクの姿を捕らえると顔を渋らせて、アイクと、その背後を交互に見た。

「ルキノは……?」

「おれ一人だ」

「女性の部屋へ殿方一人で来るなんて、無礼ではありませんか」

 細い肩を震わせてエリンシアは言い放つ。その口調、表情はどれも普段のエリンシアとは言い難い。まるで無理にそう言っているような、そんな風にアイクには聞こえた。

「もう一度ちゃんと話しておきたい。二人で」

アイクが寝台へ一歩近付くと、エリンシアの体が強張る。

「おれは貴族やら将軍やらなんて地位はいらない。ただの傭兵に戻りたい。それだけなんだ」

エリンシアはその言葉に長い睫を伏せているだけだった。アイクと言えども、エリンシアが自分に向けていた視線がどういう意味を持っていたのかはわかっていた。だが、それを手放しで受け入れる訳にはいかないのだ。ここで自分の胸の内もわかってもらわなければならない。クリミア奪還を成し遂げる事はできた。けれど、この先の二人の役目は別の場所にあるのだ。それを何としても認めてもらわなければならない。
 アイクは固く握られている白い手を取った。握り返されもしなかったが、解かれる事もなかった。

「エリンシア。おれは国を立て直すとか、人を導くとかそういう小難しい事はできない。将軍だった時だって、細かい事はティアマトとセネリオに任せっきりだった。多分それは自覚もなく、おれが望む事じゃなかったからだ。嫌な言い方かもしれないが、あんたの為にやった事だ。全ては、雇い主だったあんたの為に」

柔らかいその手は、長い間重ねられているが反応はない。ただ、触れ合っている部分の体温だけが高まっていく。

「だけど、あんたの為と思ったから、おれはここまで来れたのだと思う。だから、また何か困った事があればおれを頼ればいい。おれは傭兵として、いつだってあんたに味方する。例え、周りがどうなろうと」

俯いているエリンシアの白い頬は赤く染まっていた。震える肩にそっと手を添え、アイクは膝を折って潤んだ瞳を覗き込む。固く結ばれていた唇が、わずかに動いた。

「信じて、いいんですね……」

かき消えそうな声に強く頷いたアイクの首に、細い腕が絡み付いた。


「あー、ルキノ殿」
こほん、とユリシーズは大袈裟な身ぶりで、咳をした。その大仰さは、まるで三文芝居かのようだと自負してしまう程に。それでも、扉の向こうの寝台が軋む音が聞こえないようにするのが先決であった。

「長い時間の説得でお疲れではないかな。ここはアイク殿に任せておいてですな、我々は一休みといきませんか」

「こんな時に何を・・・」

案の定、ルキノは眉間に皺を寄せた顔でユリシーズに振り向く。「まあまあ、アイク殿の説得も恐らく時間がかかると思われるので。それに、丁度良い茶葉が手に入ったのでいずれご一緒にとも思っていたのですよ」

 そんな彼女の様子に構わず、一息で捲し立てるとユリシーズはルキノを腕を取った。不自然なのは重々承知の上だった。だが、今はこの場を離れる事が先決だと判断したのだ。目の前の扉を隔ててどういう事態になっているか、この今まで女王を第一に考えて来た、頭の堅い乳兄弟に悟られては色々と面倒な事になる。下手をすると同様の思考を持つ弟と共に傭兵団に剣を向けかねないのだ。

 


 息を付くように唇を放すと、再びどちらからともなくまた重ねた。また離れて、また一度。始めは遠慮がちだったものが次第に無遠慮になっていく。啄むように、舐めるように。がちん、と音がした時は二人とも、思わず吹き出してしまった。しかし目が合うと、照れくさそうにしながらもまた重ねる。今度は、深く。

おずおずと差し出すだけの舌を乱暴に絡め取られると、細い肩が強張った。大きな手のひらが、それを宥めるようにゆっくりと撫でる。撫でながら、細い身体を覆っているドレスの留め金を探した。首からぴったりとしている衣装は、ほとんど装飾品がなく、一目で執務用だとわかる。わずかに覗くうなじを指でなぞると、塞がった唇からくぐもった声が漏れた。

見つけた留め金は主を守らんとばかりに数をなして並んでいた。だが、それらはいとも簡単に離れ、するりと大きな手が背中に滑り込んだ。ひやりとした空気が露になった肌に触れて、次に、むき出しの肩に暖かい舌が触れる。その度に、背中がぞくぞくする。衣擦れの音がして、それが腰の辺りで止まる感覚がした。思わず固く目を閉じてしまう。自分の肌が、この男の目にさらされているのだ。そう考えると、羞恥で目眩を覚えて、視界の隅の青い髪すらまともに見る事ができない。「……何だ、これは……?」

 そんな熱に浮かされたようなひと時は、アイクの怪訝そうな一言で現に戻ってしまった。熱くなっていた瞳をニ三度瞬きさせて、エリンシアはゆっくりと背中を起こした。アイクの視線を追うと、そこには自分の胸から腰を締め付けるように覆う下着が。鉄の骨組を厚手の布に縫い込んだそれを、彼はずっと不可思議そうに眺めている。

「これは、あの、コルセットと言いまして……」

言い淀みながらアイクに背中を向ける形で半身を捻る。だが、羞恥の為に無意識に出たその行動に後悔の念が湧き上がった。例え言葉でコルセットを閉める紐の場所を伝えても、それは直接脱がして下さいと言っているようなものなのだ。しかし、こうして自らその場所を晒してしまったのだ。それとて同じようなものだと背中を向けてから気付いた。熱い顔を俯かせて、すっかり皺になったドレスを握りしめる。

しばらく無言の空気が流れた後、背中の紐に手をかけている感触を知った。エリンシアの肩はぴくりと跳ねる。いよいよ、解かれるのだ。アイクの眼前に裸の胸を晒し、触れられて、それから……歓喜なのか、羞恥なのか、考えれば考える程震えが止まらない。

自分の身体の熱さと震えと、男の指の感触を背中に受けて、それが長い時間のようにエリンシアは感じた。上手くできない呼吸を懸命に整えようと吐いた息は、溜め息に近かった。だが、戻りかかっていた甘い時間も、またぷつりと切れてしまったのだ。この男の一言で。

「解けん。切るぞ」

「止めっ……それだけはっ!」

その言葉に咄嗟に半身を翻してそれを阻止しようとする。だが、それが叶ったものの、エリンシアは深緑の髪をアイクの胸に預けたまま、黙り込んでしまっていた。現在己に付いている侍女の事を思い出したのだ。彼女は地方貴族の出自で、他の名家上がりの侍女よりも貞淑観念は強かった。「やり過ぎぐらいが丁度良いのです。体型を維持する為、自身の貞淑を示す為に」を口癖に、女とは思えないような力で紐を締め上げる。普段から着脱は彼女任せだったせいで気付かなかったが、結び目も同様らしい。そんな彼女にコルセットの紐が切れたと知られては、卒倒しかねない。

 それに、一国の女王だとは思えない事だが、エリンシアの手持ちのコルセットはこの一着ーーーデインに襲撃された時、逃亡中に身に付けていた物ーーーしかなかった。紐を切れば修理に出さなければならない。新しい物を誂えようとも、現在のクリミア王家は、それに注ぎ込む資金すら惜しい状況だった。それに、例え仕立てても寸法取りや縫製で仕上がりに日数がかかってしまう。新調よりも修理の選択が、より少ない日数で済むのだが、それでも「クリミア女王」が、それを着用せずに人前に出る事など考えられなかった。

 
 重い空気がまとわりついていた。エリンシアの頬をアイクの胸にうずめる体勢が続いているものの、気まずい事には変わりない。

「す、すみません。アイク様……」

「……仕方、ないんじゃないか」

さすがに「続行不能」だとアイクも気付く。背後の窓ちらりと視線を向けると、室内を照らす陽光の位置が少し変わっているのがわかった。薄い空の下で自分を待つ仲間達の姿が脳裏を掠める。

「行かないと。傭兵団の連中を随分と待たせてしまっている」

望んでいた事を壊してしまったのだーーー自責の念に駆られるエリンシアの白い肩に、アイクは皺だらけのドレスを引き上げようとしたが、その手をぴたりと止める。この状態を見れば、例えコルセットの紐が不自然に切られていようがいまいが「何かあった」のは明白ではないかーーーだから、とばかりにエリンシアの未だ露になっている肩に唇を落とす。突然の刺激に驚いたのだろう。アイクの耳朶で、声にならなかった息がかかり、細い指先はアイクの袖を固く握っていた。

長く口付けられたそこには、赤い跡が残っていた。同じものを柔らかな部分にもつけて、すぐさまそれを隠すようにドレスを引き上げる。「もう行くから。続きは、次に会った時にでも」

これでもかという程にかぶりを振る赤い顔を見届けて、アイクは寝台から降りた。


「待たせたな」

 ユリシーズと共に仲間達の元へ行けば、今まさに扉を破壊せんとばかりにボーレとガトリーがそれぞれの得物を手にしていた。

エリンシアを説得し、穏便に傭兵団の砦へ戻る事ができたはずだった。だが、ガトリーとボーレは事あるごとに嫌な笑みを浮かべて「説得の様子」を聞き出そうとし、セネリオはしばらくの間はメダリオンに触れたアシュナードを彷佛とさせる形相をさせていた。ミストにいたっては一週間程口をきいてもくれずにいた。そんな家族や仲間の様子にアイクを辟易してしまう。しかし、余計な誤解を招くのを防ぐ為か、それとも面倒なだけなのか、その時の事についてはただ「エリンシアもわかってくれた」だけしか言わなかった。


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