忠義を黙秘に代えて


「お目通り叶いまして、光栄でございます」
「ヘザーさんと仰いますのね。どうか、顔を上げてください。わたくしも会えて嬉しく思っています。クリミアの為に、ありがとう」
 勝ち戦の浮き立った熱とは明らかに違う空気が、そこにはあった。


 つい数刻前までの、狂気じみた熱気の渦巻く空気はすっかり取り払われ、代わりに戦勝の熱に酔いながらも、皆慌ただしく砦内を往来していた。
 ネフェニーはその空気を背に、今は別の熱意を前に困惑した顔を、軽くはない後悔と共に兜で隠していた。
 
 傭兵団の連中、行ったみたいよ。ねえ、だから―――
 
 先日知り合ったばかりの女盗賊は、負傷兵に包帯を巻くネフェニーの腕を引っ張り、耳元で囁いた。
 諜報など秘密裏の活動は嬉々として請け負っていたがヘザーだが、戦となると即座に身を引こうとした。埃っぽい仕事は厭だと。そんな彼女に、女王さまの力になってくれ、とネフェニーは頭を下げたのだ。

 そうねぇ、じゃあ、お願いがあるのよね―――
 あ、あたしにできる事があるんなら―――!
 
 つい数刻前―――叛乱軍との決戦―――まで、女王をその勢力を守っていたアルピ砦の、軍議兼女王の間となっていた一室。農民の娘が、三年前のデイン=クリミア戦役からの誼みという理由だけで、女王や国の重鎮が出入りする部屋に身を置き、さらに自国の君主の御前に立っている。彼女は、三年前とは違い、成り行きで女王側へ加わっただけの、言わば民兵だった。そんな農民の娘が気安く女王に目通りが叶っているのは、戦への功績のみならず、女王エリンシアの性格にもよる。
 エリンシアは離宮で育ち、地方領の令嬢、いや、どこかの裕福な平民としか思えないほど、親しみやすい空気を纏っていた。それは玉座に座っても変わる事なく、それに甘えてしまった事には変わりない。行動に移した直後に後悔が生まれるも、約束を平気で反故にできる性格でもなかった。


 感動なのか、潤んだ瞳が女王を映していた。エリンシアも、それに応えるかのように満面の笑みを浮かべる。だが、ネフェニーは察知していた。ヘザーが向けている視線がどのような類なのか。
 失礼な事はせんといてな。ネフェニーは女王の許へ行く間、何度もヘザーにそう釘を刺した。浮かれ立った足取りのヘザーは大丈夫よ、失礼な事は絶対にしないから。と口の端を上げていた。その艶やかな笑みは、ネフェニーも、充分に惹きつける。異性の気も、その気になれば引けるであろうに。しかし彼女は、男などただの財布だと言い放つのだ。

「先刻の戦闘だけではなく、ルキノの諜報役も勤めてくださったそうですね。本当に、本当にありがとうございます。ヘザーさん」
「そんな……どうかヘザーとお呼びください。女王陛下」
「では、わたくしの事もエリンシアと」
「はい!エリンシアさま……!」
 双方の違う種類の感動が交差する。
 次の瞬間、ヘザーの手がすらりと流れるように動き、事もあろうか女王の手を取ったのだ。
「ヘザーさん!」
 ネフェニーは女王の御前にも関わらず大声を上げ、一歩前に踏み出した。
 ネフェニーの声に一番驚いたのは、衛兵のようだった。開け放たれたままだった(衛兵とルキノがその条件で謁見を許したのだ)扉の影から躍り出る。
 ヘザーは構わずに高貴な肌に、その感触を愉しむかのように触れ続ける。エリンシアは目を丸くしてヘザーの手中に己のそれを納めたままだった。
「貴様、陛下に無礼を……!」
「そうじゃよ、早く放さんと」
 女盗賊は諌める兵とネフェニーには意にも介さず、まっすぐに女王に微笑む。
「エリンシアさま、僭越ながら戦の褒美を頂きたく存じます」
 ヘザーは返事も待たずに膝を折り、女王の手の甲―――その手は薄い手袋と長い袖に守られていたが―――に唇を落とした。
 盗みを生業とする卑しい女であるはずなのに、その動作は洗練され、まるで数多の淑女に経験を重ねてきた貴族のようで、畏れも知らぬ行為を前にネフェニーも、女王を護るはずの兵士も呆気に取られていた。それはエリンシアも同様で、数瞬おいてようやく「ゆ、許しましょう」と遅い返事を口に出した。

 女盗賊は女王を仰ぎ、満足そうに微笑むと立ち上がって踵を返した。それすらも優美で、あまりにも堂々としており、誰もが無礼な行為だという事を忘れてしまうほどだった。
 いち早く我に返った衛兵の「貴様、無礼だぞ!」という声で、ネフェニーはばね人形のようにエリンシアに重たい兜を下げると、ヘザーを追って行った。その行為も充分に無礼であるとは、彼女の頭から消え去っていた。それを気にするような女王ではないのだが。



 
 女王のいる部屋から続いていた廊下を、二人は早足に歩いていた。白い鎧を着た兵士らと何度かすれ違うも、戦後処理に追われる彼らは、妙に浮かれた女と、神妙な顔つきをしている娘など気に留める暇もない。
「ああ、素敵だったわ。エリンシアさま……!」
 うっとりと熱を帯びた声に、ネフェニーは歩みを止めた。
「もう、ヘザーさん、失礼な事せんといてって言ったのに」
 ヘザーとは正反対の、不満たっぷりの声を背中で聞いた女盗賊は、悪びれた様子もなく振り返る。
「あら、高貴な女性に対しての相応の挨拶じゃないの?」
「身分を考ええよ!あたしら民兵なんよ。本当ならお会いする事も許されんのに―――」
 それに、女王さまには、ちゃんとした人がいるんよ。
 後に続く言葉をネフェニーは飲み込んだ。
 

 慌ただしく動く正規兵の中、自分にできる仕事はないかと砦を彷徨っていた時だった。戦闘前は、言われるままに隊列に配属されていた。砦内を自由に動き回るのはこれが初めてで、実のところ、できる事を探すと言うよりも迷っていたと表現する方が正しかったのだが。
 喧騒と勝鬨の中、聞き慣れた声が胸に安堵を広がらせる。しかし、それがクリミアの君主のものだとわかると、その前に出る事をためらった。
 女王は誰かと話しているようだ。戦に勝利したが、その後も大仕事なのだ。きっと誰かに勅命を出しているに違いないと思ったが、女王の声に呼応する男の声で状況を知った。

 絞首台に上がったルキノを助けにグレイル傭兵団が現れ、瞬く間にフェリーレ軍を撃破したのはネフェニーの目にも鮮烈に焼き付いている。
 窓から見える姿は、正しくそのグレイル傭兵団の団長の姿であり、ネフェニーの想像通りに女王と向かい合っていた。他の団員の影はなく、どうやらアイクひとりが部屋に残っているようだった。
 二人が醸し出している空気で、何を意味するのかすぐに感じ取った。ネフェニーは極力気配と音を消してその場を立ち去ろうとした。アイクとエリンシアの仲は、公然としているものではなかったが、同じ年頃娘の目には、エリンシアがどれだけ若き傭兵に想いを寄せているか理解できる。
 早く立ち去らなければ、という考えで満ちていたネフェニーには、二人の会話まで聞き取れはしなかった。だが、去り際に目深に被った兜の下からちらりと見えた窓の向こうには、女王と将軍の間柄以上の影が映り、純朴な村娘の頬を赤く染め上げた。今思い出しただけでもそうなってしまう。


「ははあん」
 ヘザーは意地の悪さを感じさせる笑みを作った。
「もしかして、妬いてる?」
「はあ?何言うてんの!」
 先刻のエリンシアとアイクの様子を思い出していたせいと、思いもよらぬヘザーの言葉に、ネフェニーは反射的に素っ頓狂な声を張り上げた。兜の下からでも少女の顔は真っ赤なのがわかり、ヘザーは腹を抱えて笑いだした。
「安心して。わたしにはネフェニーだけよ」
「だから、違うよって」
 歩みは緩くだが、再開された。笑い続けるヘザーの後ろで、懸命に否定するネフェニーの図式ではあったが。
 軽やかな足取りに追いつき、眉根を寄せた顔で女盗賊をちらと見遣る。
 先刻のアイクと同じ行為を、女王に対し彼女はやってのけたのだ。無論、それは無意識の事であろうが。アイクの姿を一目見ただけで渋面を隠さなかったヘザーである。アイクと女王がそんな関係だと知れたら衝撃を受けるに違いない。
 ヘザーは右手に。だが、アイクは確か左手だったなとネフェニーはぼんやり思い出していた。そして天上人の左手からは手袋が外され、白く滑らかな手の甲が白日にさらされていたと。

 嬉しそうやったな。女王さま。
 ほんの一瞬だけ見た窓越しの女王は、白皙の頬を染めていた。幸せそうな女王の顔は、ネフェニーの胸も熱く灯す。しかし、兜より上からの暗い影が、それを瞬時に消し去った。記憶の中で、女王に幸せを与えていた相手が目の前にいたからだ。

「ここにいたか」
 アイクは廊下にそう響かせる。隣にいた女盗賊があからさまに嫌な顔を見せても、アイクは顔色ひとつ変えない。
「ど、どうしたん、ですか。アイクさん」
 女王と二人きりでいた所を見てしまった事は、知られていないはずだ。だが、歴戦の傭兵はたかだか戦場に出て三年あまりの娘の気配など、簡単に察知しているかもしれない。
 それを咎めに来たのかと緊張する。しかし、若い傭兵の口から放たれたのは、次の戦争への誘いだった。
「ベグニオンと事を構える。報酬はラグズ連合軍が弾むそうだ。もちろん、無理にとは言わないが―――」
「わかりました。行きます」
「ええっ」
 即答にヘザーは驚きの声を上げる。
「何でわざわざ血生臭いところに行くのよっ。しかもこんなむさい男に付いて行くなんて」
「悪かったなむさくて」
 低くぼやくアイクには、女盗賊は冷たい一瞥をくれるだけだった。
「ヘザーさんは無理に付いてかんでええよ。あたしだけで行くけえ」
「あんただけじゃない、チャップも来てくれると言っていた」
「チャップさんも?ほんまに?」
「ああ……最悪だわ。男むさい傭兵団の上、あのおじさんも一緒だなんて……」
 女盗賊は大げさなまでに金の頭を抱える。グレイル傭兵団には可愛い女の子も綺麗なお姉さんもおるよ、と慰めの言葉をかけようとしたが、喉元で止めた。彼女は参戦する義理などないのだ。
 しかし、ヘザーは急にかぶりを振り上げ、ネフェニーへきっと顔を向けた。
「わかったわ。行く、わたしも付いて行く!」
「行くって、ヘザーさん、さっき血生臭いとか何とか……」
 今度はネフェニーが目を丸くする番だった。今回の叛乱軍との衝突も、嫌々参加していたのに。
「だって、か細い女の子が行くって言うのよ?ネフェニー一人汗臭い中へ放り込む訳にはいかないじゃない!」
 事実を肯定しているのか忍耐強いのか、そもそも気にしていないのか。言われたい放題の傭兵団の団長は、普段通りの仏頂面で口を開いた。
「―――何にせよ、力になってくれるならありがたい。明朝発つから、準備はしておいてくれ。それから、エリンシアがあんた達には本当に感謝していると―――」
 そう告げてアイクは踵を返す。ネフェニーとヘザーがエリンシアに謁見していた事は知らないらしい。
「エリンシアって、何あの男、馴れ馴れしい!」
 自分の事を棚に上げて怒り出すヘザーの横で、ネフェニーは兜を被り直した。うつむきながら、苦笑いを隠すためだ。
「ヘザーさん、"あの男"じゃなかけん。アイクさんよ。あたしらの上官になるんやから。それに、あの人の力になったら女王さまもお喜びになるよ」
「……?何で?」
 その問いには、ヘザーのいつもするように口の端を上げて答えた。"あの男"が女王陛下を呼び捨てにしている理由など、彼女には告げない方が良いのだとネフェニーは心に決めていた。


 
10/09/07   Back