In the Rain




 蒸し暑いかと思えば、急に空気が冷え、水の臭が満ちた。
 皆、今の季節がどういうものなのかは分かっていたが、行軍中の雨季の到来は流石に心身共に堪えてしまう。長い隊列を成しての行軍も、野営地の設置も一苦労だ。

 エリンシアは野営用に拵えた厩舎にいた。水が屋根代わりの帆布をしきりに打って、鈍い音を立てていた。その騒がしさに加え、エリンシアの相棒は、羽根を大量の雨に打たれ、ひどく機嫌を悪くしている。まだ天馬に跨るようになって日も浅く、マーシャの手ほどきを受けて世話をしているが、天馬はしきりに首を振り、飛び散る水滴がエリンシアにまともにかかる。天馬は、未だに新しい主に心許してはいないようだった。

 マーシャも思わず手を出そうとするも、タニスより手出し無用と厳しい言い付けと表情が脳裏に浮かんで、己の愛馬の世話へと戻る。聖天馬騎士団では、天馬との心通わせ方をまず最初に叩き込まれる。ここでマーシャが手助けしても、エリンシアが後々苦労するだけなのだ。鬼と呼ばれた上官の教育は、そう簡単に消えるものではない。
 タニスの厳しさは、一国の王女相手にも容赦がなかったが、エリンシアには有難いものだった。だからマーシャの助けが手放しではないのも理解している。二人の教えを思い出しながら、四苦八苦しつつも、丁寧に馬体と羽根の水滴を拭き取る。

 全てを終え、片付けまで済むと、けたたましい雨音が耳を打つようになった。また後で来るから、と愛馬の鼻を撫で、エリンシアは厩舎を出た。
 外からの風が吹くと、急に寒さを覚える。天馬からの水飛沫で、鎧下まで濡れていた。
 雨は一向に止む気配はなく、風と冷えた空気は、遠慮など知らない。この地に駐留すると決定してよりすぐさま厩舎を建てたので、羽織っていた外套も水を含んでじっとりと重たくなっていた。厩舎は兵らが休息する天幕から離れた場所にある。

 今更濡れても変わらないだろう、と思うも、どうにも足が踏み出せないでいる。
 靴や服が汚れるのが嫌な訳ではない。この大雨の中に、エリンシアただひとり居る光景に、既視感を覚えて思わず立ち止まってしまった。
 忘れていた訳ではない。身に降りかかった惨劇は、昨日の事のように脳裏に焼きついている。不意に思い出しては苦しんだのは一度や二度ではない。しかし、嘆き悲しむだけでは国は戻らないと、助けてくれた者たちが教えてくれたから、エリンシアは戦うまでに至った。だが、この雨が、縮こまって震え上がっていた亡国の王女を、突然蘇らせてしまったのだ。

 樹海を抜けた頃、ガリアの空は雨季の最後を飾ろうと、盛大に雨を降らせる準備をしていた。
 雨が本降りになる前に、エリンシアは何とかガリア城へ辿り着いた。ひとまずエリンシアの身は安全となったものの、手放しで安堵出来ずにいた。受け入れてくれたガリア王は、クリミアの滅亡に心から胸を痛め、ガリア城に居る間は、エリンシアが何不自由なく過ごせるよう気を遣ってくれてはいたのだが。
 
 身が休まると、今までは生き延びる事に頭が一杯で、極限まで張り詰めていた精神が、急激に不安と悲しみでか細くなるのを覚えた。話せる者、心許せる者は傍には誰もいない。身の回りの世話は、当然獣牙族の侍女で、表面上は丁寧ではあるが、ベオクに対して敵愾心を抱いているのはありありと分かる。
 両親も、叔父も、乳兄弟たちもいない。助けてくれた傭兵団も、エリンシアとは別の道を回ってガリア城へ向かっている。
 日が傾くに連れ、雨足は止まるどころか次第に大きくなっていた。夜になれば、一層けたたましい水音と雷鳴が異国の空に響き渡る。止む気配のないそれらと、闇に包まれ、不安と恐怖でエリンシアの身体は染め上げられる。いない者の影を脳裏に描いては追い縋るしかなかった―――ガリアの雨季の雨に比べれば、それほど酷い雨ではないのに、エリンシアの気を弱めるには充分であったようだ。


 エリンシアは首を振ると、濡れそぼった外套を脇に抱える。
 含んだ雨水はじっとりと不快さと共に染み渡るが、エリンシアの意識を戻す為には必要だった。今はそれどころではない。大切な人を多く喪ってしまったが、それでも多くの兵たちが集まっている。彼らに応えなければなんとするか。この雨と、天馬との関係がまだ上手くいかない事もあって、気弱になっていたようだ。
 エリンシアの意志は、先刻とはがらりと変わって固いものになっていた。しかし、滝のように降り注ぐ雨をきっと睨んで、一歩前に出ようとしたが、エリンシアの靴先はぴたりと止まってしまった。





 

 あの時も夜だった。確かこんな雨が突然降り出していた。

 ―――親父、親父、しっかりしてくれ。

 父の重みは、今も肩に残っている。父親の身体を抱えたのは、その時が初めてだった。二度目は、埋葬の時。老年の域にさしかかろうとも、鍛え上げられた父の体はずっしりと重く、父が重傷を負ったという衝撃も手伝って、アイクの足は思うように動かなかった。加えて、足場の悪い樹海と地面をぬかるませる雨が、アイクの足に枷を掛けていた。
 ふらつきながらも樹海を進んでいると、弱々しい息が不規則に耳元に聞こえた。父が剣で負けるのも、こんなに衰弱した姿を見たのも、父の命が消えつつあるのも、今ある状況が何一つ信じられなかった。砦には、アイク同様、父を手放しで信頼している仲間がいる。彼らの許に帰れば、いつもの父に戻るだろう。不確かな思い込みだけを頼りに、アイクの足は動いていたようなものだ。

 ―――もうすぐだから。もうすぐ着くぞ。みんなの所に―――

 息も絶え絶えながらもそう告げると、耳元でかすれた息がアイクの耳にかかった。雨粒が木の葉を叩く音で、かき消されたが、確かにグレイルは何かを言っていた。聞き返す前に、仮宿としていた古い砦が見えた。窓から二人が見えたのだろう。仲間たちが一斉に入口から飛び出す。グレイルは首を上げて彼らの顔を見たかと思うと、がっくりと項垂れた。結局、父が何を言わんとしていたかは、知らずじまいだった。

 
 
 なぜ、今更そんな事を思い出したのだろうか。雨がしきりに降る空を見上げながら、その謎が胸で渦巻いていた。
 父の死の翌朝、デインの大軍に囲まれ、ガリアからの手助けもあり逃げ延びた。それ以降、文字通り大陸を奔走して来た。気が付けばアイクは、一国の軍の将と爵位を与えられ、デインやベグニオンには劣るが、大軍を率いる身となっていた。だが、アイク当人も望んで手にした訳ではない立身出世を、グレイルが喜んだであろうか。

 らしくない、と思いつつも、アイクの首は雨空を仰いだままだった。
 いつもなら思い詰めた時は剣を振っていた。考える暇はない訳ではなかったのだ。ただ、迷いや苦しみが身体の中に感じると、剣を振り、振り切っていただけなのだ。それが己にとって一番の方法だと信じてやまなかった。けれども、今ばかりはそんな気も起きはしない。剣を振るのは諦め、ただぼうっと心の求めるままに応じようとした。こうなってしまったのも、将軍となって、傭兵団の時分よりも遥かに多くの兵を率いる身となったからか。望んで手にした訳ではないとは言え、その責は、この手に抱えきれない程のものなのだろうか。

 アイクは勢い良く首を振った。水を被った犬のように、周囲に水滴が飛び散る。もっとも、とめどなく降り注ぐ雨で、それも分かりはしないが。
 らしくない自分に、収まりの悪さを感じていた。グレイルだったら、かつてはデインの将だった父ならば、どのように軍を率いていたのか。こんな自分に、どんな言葉をくれただろうか。そんな事に逡巡する方がおかしい。アイクは無理矢理そう結論付けた。

 気が付けば、髪から靴の中まで、雨をじっとりと含んで重たくなっていた。長く居たつもりはなかったのだが。
 剣の鍛錬も全て諦め、戻ろうかと雑木林を出ようとした。この雨が、余りにも"あの時"に似ていた為に、遠い記憶を起こしてしまったのだ。そう無理矢理結論づける。
 雑木林から野営地へ向かう出口へ身体を向けた時、自分がかなり迂闊であった事に愕然とする。人の気配に全く気付いていなかったのだ。敵は勿論だが、仲間であろうと隙だらけの姿など、見られたくはない。ましてや、今まで自分を手放しで頼り、ベグニオンの庇護を受けても雇ってくれている相手には。

 なぜ、エリンシアがここに。
 その答えは、彼女の後方にある。あるのだが、アイク同様、全身を雨に晒している理由までは達せなかった。エリンシアもアイクと同じ事を思っているのか、目を丸くさせていた。

 妙な気分だった。いや、今までの胸の裡がおかしかったのだろう。どう足掻いても消え去りはしなかったものが、エリンシアの顔を見た瞬間に、すっかり元の自分に戻った気がした。雇い主に、これ以上醜態を晒したくないと思ったからだろうか。

 今更濡れるのを心配しなくても良いのだろうが、ずっとそこに居るのは、さすがに体には悪かろう。アイクとは違い、彼女は身体も細く、絶対に臥してはならない存在だ。
 エリンシアの脇に抱えた外套は、恐らく用を成さないのだろう。アイクのマントと同じく。数十歩歩めば傍に寄れる距離だった。この大雨でも、声は聞こえるだろう。観念して一歩踏み出すと、エリンシアも、驚いていた顔を和らげて、アイクに同調するように足を繰り出した。
13/06/22   Back