潮騒は遠く

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 潮風が新緑の髪を撫でている。
 澄んだ青と深い青に抱かれて、小さな舟がいくつも浮かんでいた。こうして海を眺めるのもいつぶりだろうか。ゆっくりと波に揺られる舟と鳥を眺めていたいのだが、それも叶わぬ身分であった。
「女王様にお越しいただき光栄です」
 漁村の長が、女王エリンシアの前に平伏さんばかりに頭を下げる。即位し始めた頃は、彼のように、父ほどの者たちに謙った態度を取られては狼狽えたものだが、今では柔らかな笑みでそれに応えるようになった。それでも内心はエリンシアの方が恐縮しているのだが。

 この日は小さな漁村への視察だった。
 こうした人口もまばらな村の視察は、初めての公務だった。即位直後に見て回ったのはデイン侵略の傷痕の激しい場所ばかりしかない。それ以外の地方へは家臣に任せきりであった。内乱の影もすっかり潜め、国情もひとまず安定したとエリンシア自身も感じた頃、「地方の現状も直接お目にかけてみては」とユリシーズの進言により、小さな漁村へ赴く事となったのだ。きっと宰相が気を利かせてのものだろうとエリンシアは考えている。


 メリオルから遠く離れた辺境ゆえに、アシュナードの狂刃から逃れた集落だった。それでもデイン軍の影に怯えて皆肩を寄せ合って震えていたのだという。
 デイン占領下でも、復興後でも村の生活に変わりはなかったが、やはりクリミア人の治世が安心するのだと、皆エリンシアの存在を心から喜んでいた。
 のどかな風の下、子供たちに囲まれ、村の沿岸で獲れた魚が振舞われる。ユリシーズの思惑通り、日ごろの重圧から少しでも開放されたような晴れやかな顔となっていた。

 
 潮風から一番遠い場所と教えられたが、それでも海を思わせる風が木々を騒がせていた。
 若者のほとんどはメリオルや大きな街へ出稼ぎに出て行っているため、幼子の数も数えるほどだ。昼食時、その子供たちから強く懇願され、天馬に乗せる事を約束したのだ。
 護衛として着いてきたマーシャの手伝いもあって子供たちの要求は苦もなく受け入れられた。曾祖母が遺した天馬は決して若馬のようには空を駆ける事はないが、純粋な子供たちを背に乗せて悠々と空にはばたく。上空から海を眺める視点に子供たちから歓声が上がった。
「女王さまありがとう!」
 子供たちの満面の笑みに、エリンシアも同じ笑顔になる。最後の子を乗せた天馬が降り立てば、太陽が水平線に近付いて時刻を知らせていた。名残惜しいが、子供たちとのひと時もここまでだった。
「わたしも楽しかったわ。ありがとう」
「女王さま明日ものせてね。女王さま、ここにとまってくんでしょ」
 一番小さな子の言葉に、エリンシアは困惑を隠した。正直に告げるのも、嘘をつく事も心苦しい。メリオルまで遠くにある事と地方への親善も兼ねて、この一帯を治める貴族の館へ行く手はずとなっているのだ。
「あのね」
 エリンシアは心中の痛みを抑えながらも、腰をかがめようとした。
「だってアイクおにいちゃんがいってたもん」
 その言葉にエリンシアの体が硬直する。アイク。少女は確かにそう言った。
「アイ、ク……?」
「うん!きのうこの村にきたんだよ!」
「でも大人にはないしょにしてほしいって。だからおれ、その代わりに剣教えてもらうんだ」
 幼子の代わりに、少し上の子供たちが口々に説明する。その興奮ぶりは、クリミアの英雄の存在と活躍が中枢から遠く離れた村にまで届いている事を示している。
 エリンシアは子供たちの輪から視線を外した。その先には遠くで二頭の天馬の手綱を引いているマーシャの姿があった。



 逸る心を抑え、手綱を握る。
 月も高く、誰にも告げずに屋敷を抜け出す心苦しさもあったが、それよりも強く心臓は跳ね打っていた。潮風は昼間よりも冷たくエリンシアの新緑の髪を撫で、それに乗ったわずかな煙が村の場所を知らせていた。
 船の影もない岩礁に、彼はひとり剣を背負って座っていた。子供の言葉の通りに。
 風に乗った大きな翼の音を、彼の耳にも届いたのか暗い空を仰ぐ。
「アイク様」
 夜半の声は響く。静かな村に届きそうな気がして、エリンシアは恐る恐る口を開いた。それが合図かのように、アイクは立ち上がる。天馬を限界まで降下させ、エリンシアは身を乗り出した。アイクの無愛想な面もさすがに驚きへと変わるが、歴戦の偉丈夫はさほど苦もせずにエリンシアの身体を抱き止めた。
 ばさりと愛馬の翼を頭の上で聞いたのと、アイクの体温を感じたのは同時だった。不安定な足場に戸惑いながらも、アイクの頑丈な腕に支えられて立つ事ができた。いきなり何を、と眉をひそめる顔にばつの悪い顔で返した。
「わたしがここへ視察へ来る事がよくわかりましたね、アイク『将軍』」
 子供たちの思い違いか、それとも宮廷内の事情までは通っていないのか、村の子供たちの中では、アイクはクリミアの英雄であると同時にまだクリミアの将軍だった。
「それは偶然だ」
 だから、アイクが村へ来た時も、エリンシアがいる視察団の本隊より先行しての事だと思われていたようだ。
「もう将軍じゃないと言っても聞かないんだ。それに、あんたたちに見つかっても何かと面倒が起こりそうな気がしてな」
「特にわたしにですか」
 その言葉にアイクの肩眉がぴくりと動いた。冗談じみた響きがあるが、そうでないように伝わったのだろうか。
 大きな手を支えに岩場から雑木林へと渡り歩く。
 アイクが傭兵団を去った。その知らせをエリンシアはアイク以外の人間から聞いたのだ。せめて旅立つ前に一言あってもいいのではないか。最初は恨みがましく思っていたのだが、時が経つにつれ、それも彼らしいと笑えるようになった。もうグレイル傭兵団の団長でもなく、クリミアの将軍でも貴族でもない。ましてや、エリンシアを守る義務などとうの昔になくなっているのだ。いつまでも己のために剣を振る人であってほしい。そう願って月日は過ぎていた。だが、
「アイク様、お会いしたかった」
 考えるより先に、口がそう動いていた。恩人に対する懐古の念ではなく、明らかに別の感情を込めて。アイクは何も返事をしない。何を考えているのか、時折、いや、まったく推測できない。だが、月明かりの下、困ったような、思いつめたような顔はエリンシアも見た事がなかった。
 初めて見る表情を前に、戸惑いながらもずっと手を握っていた。潮を防ぐ木々の下でも、海の匂いは変わらない。仏頂面の裏で、何か言いたげな様子も変わらない。ただひとつの変化は、何を言わんとしているのかエリンシアが気付き始めた事だ。
 短く吐かれた息は思いのほか熱かった。ではなぜ野に下ったのか。そして、何も告げずに旅立ったのか。ぐるぐると早回しに巡る思いをエリンシアは無理ぐり止めた。
「エリンシア、あんたに告げずに行ってしまって悪かった」
 ようやく聞こえた言葉は、弱々しく耳に届いた。それが余計にエリンシアの心を強く打つ。
「だが、偶然あんたに会えて決心がついた。エリンシア、おれ……」
 エリンシアの両の指が、言葉を紡ぐ事を拒んだ。長らく潮風にさらされていたせいか、アイクの唇は乾いていた。
 手のひらから伝わっていた体温は、冷たく乾いた皮膚の上にある。繋いだ手を放してしまえば永遠に別れてしまう。どこかの戯曲で聞いたような句が脳裏に浮かぶ。浮かんでも、エリンシアには迷いはなかった。
「わたしはクリミアの女王です」
 その言葉でアイクも察したようだ。わかった、とうなずくとゆっくりと眼前の白い手を下ろした。
 重々しい肩書きを捨てる事は、もはや不可能だった。エリンシア自身そうする気もない。だが、彼の言葉にうなずく自分を心の隅で思い描く。それでいい。国を救った勇者は、王女と結ばれて幸せに暮らした。どこか遠い国の物語として語り継がれるのだろう。
「アイク様。あなたに出会えて本当によかった」
「ああ、おれも」
 三年前の戴冠式にて、震えるエリンシアに手を差し伸べてくれたアイクに言った言葉。それは今でも強く思う。そしてもうひとつの変わらぬ思いも。
「アイク様。愛しています」
 さすがにそれはすぐには応えてくれなかった。目の前の朴念仁への最後の悪戯心は、乾いた唇で返されたのだが。


10/03/17TOP

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