Sweet Pllow

 飼い葉桶に入れられた干し草を、天馬はゆっくりと噛んでいる。本来ならば高山地で採れる苔が良いとされるのだが、いくら繊細な天馬と言えども、戦場ではそこまで贅沢を言ってはいられない。エリンシアは平らな歯で咀嚼している愛馬の鼻を撫でた。曾祖母の遺したこの天馬とは、エリンシアは物心ついた時から世話をしてきたが、まさか共に戦場を駆ける事になろうとは。
 
 しかし、愛馬の世話をしていても胸中の波は収まる事はなかった。先日でのナドゥスでの戦闘。戦力の面でも見てもクリミア軍が有利とされていた戦いであった。だが、予想通り勝利はしたものの、指揮官であるアイクだけが瀕死の状態で戻って来たのだ。別働隊にいたエリンシアは詳しい事情を知らない。ただ、親の仇を討ったのだと端から聞かされたのみであった。そのアイクは現在も昏々と眠り続けている。目を閉じていようとも、せめてその様子だけ見舞おうとしたが、ティアマトに止められた。

 
 このまま目を覚まさなかったら―――
 エリンシアだけではなく、誰もがその不安に駆られていた。この軍は現在、祖国クリミアを目前にしている。後もう少しなのだ。だが、まるでその希望を削がれたように、軍全体に暗い空気が取り巻いていた。

 
 現在、クリミア軍は進撃の足を止めている。総指揮官負傷が大きな原因なのだが、クリミアを目前に入念な準備をする必要があった。物資の確保、参戦している各国との連絡など、重々しい空気の中、それでも軍は動いていた。エリンシア自身も、会議や謁見などで多忙を極めていた。だが、自分の天馬の世話だけは自ら行いたい、とルキノやユリシーズらに無理を言ってその時間だけは裂いている。

「早く良くなるといいわね」

 天馬の鼻を撫でながら呟く。多忙の内はいい。余計な事を考えなくてすむ。しかし、自ら臨んでの行動とは言え、こうして政務から離れ、一人でいると途端に苦しくなってしまう。いつからだろう。そう考えてしまったのは。皆が考えているような、クリミアの希望が消えてしまうという危惧ではなかった。ただ、アイクの無事を祈り、無意識に唇が動かす。


「アイク様」

「何だ?」

 その声にエリンシアは音がせんばかりに振り返った。目の前に、ここにいるはずも、いや、起き上がっているはずのない人物の声。
「あ、あ、アイク様っ!?どうして―――」
「逃げて来た」
「え?逃げ……?」
 驚きのあまり湧いて出た疑問を口にする事ができない。目の前の人物には額と腕に厳重な封印と思う程の包帯が巻かれていた。簡素な上着を着ていたが、胸にも同様に施されている事がわかる。怪我はもういいのですか、という言葉はエリンシアの胸中でかき消えた。だが、それと同時に今まで抱えていた不安も同時に消えてしまった。

「いい加減外の空気を吸わせて欲しかったんだが、セネリオの奴がうるさくてな」
「アイク様を気遣っての事でしょう。目を覚ましてもしばらく安静になさらないと」
 目を覚ましたのは二日前だぞ、と不満の色を出しながらアイクは近くの木陰に腰を下ろした。天幕から少し離れた天馬用の厩舎まで歩くには、さすがにまだ堪えるらしい。エリンシアも自然とその横に座った。

 「でも、良かったです。アイク様が回復なさって」
 アイクの瞳は薄い色の空を流れる雲を追っていた。その横顔は、少しだけ柔らかくなった気がする。
「心配かけてすまなかった。だが、デインを討つ前におれは……」
「いいのです。グレイル様もきっと安心しておられるでしょう」
 
 それから二人は沈黙のまま同じ景色を見ていた。そこには緩やかな空気が流れている。まるで、そこには二人しかいないような。そんな勘違いが許されそうな。今なら言えそうな気がする。こんな時に、不謹慎かもしれない。だが、二人が確かに存在している時に伝えておきたい。


「アイク様、あの……」
 隣を覗き込むように背を起こした途端、こつん、とエリンシアの肩に何かが触れた。急に深い青が視界に入る。
 状況を理解するのは一瞬で済んだ。だが、じわりと伝わる暖かさと規則的な呼吸の音に心臓が止まりそうになる。こんなにも近くにいる。アイクのそれとは逆に自分の呼吸は落ち着きがなく、浅い。不安定なエリンシアの姿勢の上でアイクの身体も地面にずり落ちてしまいそうだった。下手に動けば起こしてしまうかもしれない。いや、起こした方が良いのでは……
 思考が堂々回りしている間も、アイクは細い肩に顔を埋めるようにして眠っていた。起こさない方が良い。エリンシアはそう結論を出した。ニ三度大きく呼吸をすると、青く、深い泉のような髪に頬を埋めてみた。少しだけ汗の匂いがする。
 
「起きないで下さいね」
 小声でそう言うと、アイクの頭を両手で抱えた。ゆっくりとそれを動かして膝、いや腿の辺りに移動させる。頭のわずかな重みがした途端、自分でやっておきながら、エリンシアは気恥ずかしさに頬を染めた。それでもこの将軍は一向に目を覚ます様子もなく、寝返りを打つ。柔らかな素材の布越しに暖かい息が伝わってきた。それがくすぐったくて、胸まで熱くなる。

 目を閉じているアイクの顔は普段よりも随分と幼く見えた。年相応と言うべきか。いや、この年で一国の軍隊を率いている方が異常なのだ。
 思えば傭兵団に養護してもらってから、アイクにはあまりにも大きなものを失わせてしまった気がする。傭兵団の生活。そして父親。その父の仇を討つ事は出来た。だが、女神の世界へ旅立った者はもう戻らない。それでも、その悲しみに潰れずにアイクは立っている。立って、先頭に立って、剣を振って、守っているのだ。自分に残った大切なものを。
 出会った時から、エリンシアはその背中を追い続けていた。アイクが戦に出る度に胸が押し潰されそうになるのに気が付いたのはいつからか。ならばいっそ遠くで帰還を祈るより、共に戦場に出たい。そう決意した。

 静寂と冬の陽が時間を止めている様だった。このまま時が止まればいい。そう思ってしまう程、今自分の置かれている立場を忘れてしまいそうになる程、穏やかな時間だった。だが、それも終わってしまう。アイクの瞼が揺れたかと思うと、それは開かれた。
「ん……」
 身じろぎしたアイクと目が合った途端、エリンシアは自分がかなり大胆な行為をしている事に気が付いた。真っ白な頭の中で、言い訳の言葉を探す。
 
「あ、あ、あのっ、アイク様これは……!」
 だが、上手く言葉が出て来ない。
「ゆっ、夢なんです!」
 固く目を瞑り、馬鹿げた言い訳を後悔した。感情をあまり表に出す事はないアイクでも、こればかりは咎めるだろう、そうエリンシアは覚悟した。だが、嫌われてしまったかもしれない。その不安が押し寄せる。

「アイク様、ごめんなさ―――」
「そうか、夢か」
 エリンシアと視線が絡み合ったまま、口調も、表情も、体勢も変わらずアイクはそう言った。エリンシアは数回瞬きした。本当に信じてしまったのか。
「夢なら」
 アイクはエリンシアの柔らかい脚に顔を埋めた。慣れない感触に背筋がぞくりとする。
「もう少しだけ、このままでいていいか?」
 反射的にかぶりを振る。だが、少し遅れてその言葉に気付き、エリンシアは固まった。それがどういう意味なのか、本当にそういう意味なのか。確認しようにも当の本人は再び本当の夢の世界へと戻っていた。穏やかな寝顔。自分の膝がそうさせるなら、それで満足ではないか。

「エリンシア」
 どのような夢を見ているのだろうか。だが、それがどうでも良くなるほど、紡いだ言葉の響きにうっとりとする。自分の名の後に続いた、掠れるような言葉にエリンシアは頬を染めて頷いた。

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