雪に溶ける夢

 外へ出ると、凍りついた空気が全身に降りかかった。
 鍛え上げた体だが、さすがにこの寒さは堪える。だが、それも剣を振り上げる直前までだ。
 愛用の剣を大きく振り上げ、冷気を斬り裂くかのごとく振り下ろす。鋭い音がして、薄い太陽の光が切っ先に映った。それがぎらついて剣に跳ね返るまで、繰り返すのが日課だった。

 「導きの塔」から戻って来てより、大陸の国々は種族を超えて大きく変わろうとしていた。
 それは今まで、互いに存在を受け入れずにいた種族間を、惹きつけ合う動きだった。正の女神はベオクとラグズを消滅させようとしたが、結果的に女神の望むところへと進もうとしていた。
 種族の母である女神を討ち、ベオクとラグズの滅亡を阻んだのは、彼の腕だった。彼は信心深い性質ではない。例え女神と言えど、命を奪われるのを待つより抗う道を選ぶ。そして道は開けた。

 アイクは父から剣を教わってから、今まで、剣を振る時間に多くを費やして来た。
 考えが混乱した時、大きな問題にぶつかった時、考えるよりも剣を振った。汗がにじむ頃には、進むべき方向が大抵単純な道になっている。
 
 だが、導きの塔から戻って来て数日経ても、どうもそれが叶わない。
 国々は種族を超えて友好の姿勢となり、赤子ひとりとして容赦せんと憎しみ合っていた国同士も、ゆっくりではあるが、近付きつつある。あの、頑なに中立を保っていた―――例えかつての盟友の子孫が奴隷となっても―――ゴルドアですら、他国に対し門戸を開こうとしている。野に下ったアイクは、その僅かだが意味の大きな動きを感じつつも、今まで通りに居住する地域周辺の小さな仕事を請けて生活していた。
 何度も国同士の、大陸挙げての戦を経験して来たが、雇い主たちの政治的思惑は無関心を決め込んでいたアイクだった。もちろん、平和へと動く事は、大口の仕事は減るが喜ばしい事この上ない。だが、女神ではないが、やっと人々が選んだ平穏が、いつか崩れてしまうのではないかという不安が頭から離れなくなっていた。そして、その時になれば自分は―――

 剣が鈍い光を反射していた。
 アイクはぴたりと剣先を止め、白い息を盛大に吐いて剣を下ろした。太陽は東の空にすっかり顔を出し、鳥の声も耳に入ってきた。
 時を逃してしまったと、アイクは少し後悔の念を浮かべる。手の甲で乱暴に汗を拭い、踵を返して仲間のいる砦へと向かおうとした。

「―――アイク」
 土を踏む音と、馴染みの声を背中で聞いた。
 セネリオは白い息を小刻みに吐き、肩で息をしていた。言動が常に落ち着いている彼らしくもない、とアイクは怪訝な顔になる。
「どうした?お前、クリミアの城に用があるとか言っていなかったか」
 これもアイクの懸念の一つだった。傭兵団の魔道士兼軍師であるセネリオの知恵は、傭兵団と親しい国々の王族に高い評価がある。正式な軍師の要請は断っているのだが、諸国から知恵を借りたいと申し出があれば、彼は颯爽と出向いて行く。今回も、クリミアからの要請でメリオルへ行っていたはずだ。

「用件を終わらせ、早々に戻って来たまでです。間に合ってよかった―――」
 安堵したように大きく白い息を吐くセネリオに、アイクは眉根を寄せた。
「何のことだ?」
「あなたが、ここを出て行くのではないか。そんな気がして」
 セネリオの口調は弾んだものから普段の淡々とした調子へと戻って行った。その平静さが、余計にアイクの胸を突く。セネリオにも黙って行くつもりだったのだが、やはりセネリオには隠してはおけないようだ。無意識に、堅く口を結んでいた。
 
 アイクの表情を見たセネリオは、周囲に首を巡らした。
 太陽の光は強くなりつつあったが、今日も辺り一帯を包み込む冷気には太刀打ちできそうにもなかった。だが、二人のうちどちらも砦へ戻ろうとは言わなかった。既に仲間たちも起きているだろう。これ以上のやり取りを、仲間の耳には入れたくない。何も言わずとも、互いに同意見なのは感付いていた。

「フェール伯とは、他愛のない用件です。ほんの茶飲み話とでも言いましょうか。私的な用事に近いかもしれませんね」
 周りに仲間がいないことを確認すると、セネリオは口を開いた。
 突拍子もない話題に、アイクは戸惑いながらも耳を傾ける。だがすぐに、心配していたことではないと彼が告げているのに気付いた。寒さと気の張りで固くなっていた頬が僅かに緩む。セネリオはそれを見逃さなかった。
 
 砦に戻って来て以来、仕事の依頼元にアイクは過敏に反応を示すようになった、とセネリオは思う。それがなぜなのか。予想を立てるのは容易だった。

 そうか、と言い残してアイクが再び踵を返そうとした矢先に、セネリオは再び口を開いた。
「あなたはいずれ出て行くでしょう、と冗談を言っていたのですよ。フェール伯と」
「何を……」 
 せっかく解けた表情が再び堅いものになる。先刻よりももっと。心中をずばり指摘されたせいか。
 
 セネリオの口調は、淡々と、戦の戦略を説明するかのようだった。しかし、何かの期待を孕んでいるようにもアイクには聞こえた。
 テリウスの国中が和睦の風を醸し出しているが、それが暴風になる可能性がない保証はない。人々の足跡がそれを物語っている。平和の兆しにただ喜んでいるだけでは足元を掬われると。無論、今の国家や一族の代表らは、手放しで喜び、何もしていない者などいない。軍部の強化は勿論、各国の裏の動きに目を光らせているのは道理だ。

「だから、我々もその動きに乗って―――」
 セネリオは一旦言葉を切り、アイクを見遣った。
「おれは一生傭兵のままでいる。もう宮仕えはせんと決めた」
 アイクはセネリオの視線に斬り返すように答えた。
「国の一大事とあればあなた個人の意見など通りませんよ」
 しかし、逆に斬り返される言葉に、アイクは口をつぐんでしまった。
 
 先年のラグズ連合軍のように、大がかりな戦争―――しかも種族間の存続を懸けた―――にベオクの団体であるグレイル傭兵団は駆り出された。フェニキス王、ガリア王、そしてライがアイクに絶対なる信頼を置いていたからだ。それは、アイクとて己の位置と戦の意味を理解し、納得して受けた戦争だった。
 しかし、ベグニオン帝国の内乱で皇帝サナキがクリミアへ事実上の亡命をした際はどうだったか。アイクは皇帝に付き従うベグニオン軍とサナキを受け入れたクリミア軍、そして両国に同調したラグズ連合の混成軍の将に押し上げられた。これは、彼の望むところとは全く別の方向だった。
 
 更に遡れば、三年ほど前。デインのクリミア強襲時に、偶然にもエリンシアを庇護してから、成り行きで将軍と爵位まで受け、クリミア奪還後もしばらくはその地位で王都に留まっていた。あれはアイクのまだ短い人生の中で、屈指の窮屈さであった。何も分からずに王位に就いたエリンシアの不安を少しでも和らげる為、と我慢していたのだが。行く先々で"クリミアの英雄"と持ち上げられ、エリンシアの傍には付いておられず、また武人とは名ばかりで剣を鞘から抜けぬ日々はさすがのアイクも辟易していた。

「あれから考えてみたのです」
 セネリオの声はこの寒さの中でも震えもなく、夜通しでクリミア王城から戻って来たはずなのに、疲れの色を全く見せずに普段の調子で紡がれていた。アイクの耳にはどこか楽しんでいるようにも聞こえる。それが少し面白くなかった。
「この先、平和がいつまで続くかなんて誰も保証はできません。女神でさえも困難な事だと証明されたのです」
「それは諸国の王らが考えることだろう」
「そう。だからあなたがいっそ"考える人"の一人になってみれば、と思いましてね」
 目の前の軍師の言葉を飲み込んだ瞬間、アイクはセネリオを凝視した。目尻がぴりぴりする。突拍子もない言葉に、半ば怒りも混ざっているかもしれない。

「一つの意見ですよ。それでも、恒久的な平和などにはならないでしょう。でも、ほんの少しでも、少なくとも"あなた方が"生きている間は続くかもしれない」
「セネリオ、あのな……」
 はあ、と大きな白い息を吐き、アイクは霜が降りかかった青い髪を乱暴に掻いた。
「お前、何を言ってるのかわかってんのか?おれに国を興せとでも言いたいのか?そんな馬鹿げた話があるか」
 吐き捨てた時、さすがに語尾を荒げてしまった。
「まさか。そんな面倒なことはしませんよ。無用に血が流れるだけです。もっと手っ取り早い方法を思い付いたのですよ。もちろん血も一滴も流れません」
 
 やはりどこか面白がっている。
 顔は笑ってはいないが、凍るような空気の中、声の端々が弾んでいるようにアイクは聞こえたのだ。しかし、セネリオが本当に言わんとしている事は読み切れずにいた。あれだけ長い口上、アイクに言わせば"世迷言"を、白い息と共に吐き出しているにも関わらず、本質が見えない故に、苛立ちも少なくはない。

「―――セネリオ、長旅で疲れただろう。休んでおけ」
 大きく息を吐き、セネリオに背中を見せた。回りくどい言い回しは、彼の好む所ではない。これ以上の論議は無用だと、再び剣を振り上げる。
「あなたもわかるしょう。表向きは和平の動きであっても、不安定さは拭えないのは」
「国なんてそんなものだろう。盤石な道なんてない」
 意外に返答が来たことに、セネリオは片眉を上げた。
「ラグズはまあ、国家の体系が単純ですから、今のところは大丈夫でしょうけどね。ぼく―――いや、フェール伯が不安視しているのは、ベオクの国。国の王族同士が血縁関係と知れたら、取り残された方は穏やかじゃない」
 
 どこの、とはセネリオは言わないが、わかっている。ベグニオン帝国の皇帝サナキと、デインの巫女と呼ばれた娘が姉妹だと、サナキの口から聞いた。大国の王の常として、小柄な体にも培われた威厳を放っていた少女は、予期せぬ肉親の出現に、その時ばかりは頬を赤らめて年相応らしい態度を見せていた。
 確かに、王同士が姉妹であることは、国が繋がり合う強固な糸だ。デインとベグニオンの因縁深い二国ならなおさらだ。そして、その強固な糸にクリミアが弾き出される可能性も充分ある事も簡単に予想ができた。
 
「だから、クリミアも倣ってしまったらどうでしょうかと言ってみたまでです」
 だとしても、自分には関係ない事だ、とアイクは鍛錬を再開させる。だが、剣を真上に腕を構えた瞬間、セネリオがそう言い放ち、腕がぴたりと止まる。銀の刃に、陽光が走った。

「だったらそうすればいいだろう。クリミア王家の問題だ。おれに何の決定権があると言うんだ」
「いいんですね―――?」
「何が言いたい」
 回りくどい台詞に向き直り、アイクはため息というものを初めて知ったような気がした。

「だから、ですね―――デインとベグニオンは、これから血族と言う点で深い繋がりを持ってしまった。それがクリミアにとって不利にならないとは言い切れない。デインとクリミアに小さな軋轢でもひと度起これば、ベグニオンがどちら側に付くか。宗主国の立場上中立を貫くことも勿論考えられます。でも皇帝とて人です。血族を優先する可能性も考えられる、と」
 あんな感情的な小娘が、と付け加えたのは聞かなかった事にした。

「フェール伯とは妄想を語り合うまでの仲になったのか」
 アイクは、ともすればセネリオに飛びかからんとまでしそうな空気を醸し出している。歴戦の傭兵の殺気にも関わらず、セネリオは顔色ひとつ変えずに平然と口を動かす。
「ぼくはですね、クリミアはあくまでラグズ側にいるべきなんじゃないかと話したまでです。先王の治世より、ガリアと同盟関係を結んでいる国ですし、ラグズと少なからず縁がある。ですが、あとひと押し足りない。ラグズの王たちが信を置く」
 セネリオの言葉を最後まで待たず、アイクの靴は大きく雪を踏み拉いた。大きな足音はしなかったが、大柄な男が一歩気魄を込めて迫ったのだ。普通ならばうろたえるはずだ。だが、セネリオは言葉を紡ぐのを止めただけで飄々とアイクを見ていた。幼い頃からの、唯一心を開いた友に。
「冗談、だよな。セネリオ」
「言ったじゃないですか。軽い茶飲み話だと」
 懇願が滲んだ堅い声は、真逆の冗談じみた声で返された。真意は読めぬ上に、セネリオが冗談を紡いた事に拍子抜けしてしまった。その言葉を信じるしかない。アイクは踏み出した足を戻した。
 これ以上剣を振る気にもなれず、踵を返すと仲間のいる方角へと雪を踏み出した。セネリオもアイクの背中を追う。砦から、朝餉の湯気が立ち上っていた。






 女王の執務室から出ると、アイクはすぐに隣接する控えの間へ向かった。
 城の造りから、隣の物音は聞こえるはずはないのだが、セネリオは今すぐにでも出立できるように、身を整えてアイクを待っていた。卓の上の白磁のカップも、菓子の盛られた皿もきちんと空になっている。

「行くぞ」
 ぶっきらぼうな声を合図に、セネリオはソファから腰を上げる。アイクの眉がわずかに動いたのを見て、セネリオは口元を緩めた。
「何だ」
「別に。アイクが決めたのなら異論はありませんよ。最初からそう言っているではありませんか」
「お前な」
 "軽い茶飲み話"ではなかったのか。と、軽く睥睨しても、彼は平然としたままだった。もしかすると、ユリシーズが隣室のセネリオを訪ねていたかもしれない、と思考が巡るも、セネリオに尋ねはしなかった。
「そういう可能性もあるまでです。選択肢は多い方がいい、とフェール伯も仰ってましたし」
 あくまで、フェール伯の所為にするつもりらしい。ここで責任逃れしてどうするつもりだ、と内心でぼやく。口に出すのも馬鹿々々しかった。

「エリンシアはな、おれが王になろうなぞ思えば、全力で潰しに行くそうだ」
 その代わりに、事実を脚色して口にした。セネリオに釘を刺すのが目的だった。
「ならばいいではありませんか。向こうがぶっとばしに来れば、こちらもお迎え致しましょう」
「血が流れるのは望まないんじゃなかったのか?」
「すべてはあなたの望む方向へ」
 適当な物言いだ。
 目的が大幅に外れ、アイクは鼻を鳴らして城の門を出た。一面の雪が太陽の光を受け、目も眩むような景色だった。まずはこの光の道をどこへ行くか。それすらも見えない旅だった。だが、戻る気にもなれない。背後の光もまた、自分の背中を押しているのだ。




 
11/02/28 初出 13/05/09 加筆修正   Back