梅の葉や花散らさぬや

 ここ最近、鬱屈した日々が続いていた。
 祖国が強襲を受け、王都が焼け尽くされ、彼は王家の最後の生き残りを抱え、今までの生活を捨てて海を渡り、ひとまず落ち着いたはずなのに―――

 傭兵であるからには、仕事を依頼されれば引き受ける。しかも、依頼主はベグニオン帝国皇帝にして神使い。エリンシアの後見人でもある。報奨金も不満はない。
 今まで―――父グレイルの頃からの傭兵団は、戦ではなく、賊討伐を主に引き受けていたから、彼の性格からか、その仕事内容はいずれも、アイクの腑に落ちないものばかりだった。
 裏でひっそりと取引されている積荷を奪ったり、商隊そのものを討伐したり、だが、押収した荷の中身は教えられることはなく、商人らが何を取引しているのかも、依頼元はまったく明かそうとはしなかった。
 元々小さな傭兵団、しかもクリミアから落ち延びて来た身であるから、仕事を選ぶ権利などないのはわかっている。
 
 だが、日がな何もない一日を過ごすより、そう言った類の仕事がある方がまだましなのも事実だった。
 他の仲間たちは、大陸一の都シエネを楽しむ者もいるようだが、姿を隠さなければならない獣牙族たちは勿論、アイクも賑やかな街には興味はなく、開けた場所を見つけては剣を振っている。
 初めて足を踏み入れた異国で、半ば食客のような身でもあった。アイクたちはあくまでクリミア王女エリンシアの護衛なのだ。与えられた仕事も、アイクたちが賓客扱いに倦んだゆえの、神使側の"心遣い"でもある。
 
 その一方で、本来の客人エリンシアは、連日連夜神使を始め、ベグニオンの貴人らとの面会や晩餐会に引っ張りだこだった。
 彼女に宛がわれた賓客用の神殿のすぐ傍の屋敷にて、アイクたちは寝食しているのだが、顔を合わすどころか、姿を遠目に見るのも難しくなって来ている。
 
 その姿も、追われて来た時に来ていた、動き易い―――アイクにはそう見えないのだが―――朝焼けの空のような色のドレスではなく、意匠と贅をふんだんに尽くしたドレス姿だった。
 恐らく、貴族か、神使かの"心配り"なのだろう。
 着の身着のままで、壊れた馬車から救い出された時も、彼女が一国の王女だとは思いもよらなかった。さらに、卑下される身分である傭兵にも関わらず、物腰の低さと親しみやすさがそれを助長させていた。
 だが、何十人もの使用人、さらにはベグニオン貴族に傅かれている姿は、エリンシアが王族だと認識せずにはいられない。つい先日まで、妹と笑いながらジャガイモの皮むきをしていたのは誰だったのか。

「お兄ちゃん」
 剣を振る背中を、妹の声が止めた。
 この日も何もなく、アイクは日課となっている剣の鍛錬を行っていた。傭兵団にいた頃と違うのは、鍛錬の相手が鉄の武器を持ったベオクではなく、ラグズの時もあることだ。それが、唯一アイクにとっての前進だった。
「どうした?」
 妹も彼同様、何もない日常を倦んでいた。
 普段なら彼女の仕事だった家事全般も、全て使用人がやる。かと言って、都へは最初は目を輝かせてはいたが、厳重な警備をいくつも通過するのに嫌気がさし、いつの間にか外出しなくなっていた。
 
 そんなミストではあったが、この時は珍しく明るい顔と、目の輝きを取り戻しているように見えた。
 ここを発つ手はずが整ったのか。そんな期待がアイクの胸に生まれた。
 だが、妹の口から発せられた間逆の言葉に、生まれたての希望は霧散する。
「神使様からね、今夜の晩餐会に出席して欲しいって言われたの!」
「おれは出ん」
 妹に即答すると背中を向けた。背後から、何で、と不満そうな声が上がる。
 傭兵団で育った彼は、当然ながら貴族の生活とは無縁だった。何度か貴族からの依頼を受けたこともあるが、彼らの身なりや屋敷を一度も羨ましいとは思ったことがない。父母の営んできた身の丈に合った生活にアイクは満足していた。傭兵団が小さな仕事も二つ返事で受けるのも、団長らの性格にも依ろう。
「せっかく神使様からお許しがもらえたのに」
「行きたい連中だけ行けばいいだろう」
「でもね、アイク」
 諭すように向けて来たのは、ティアマトの声だった。 
「神使様は、クリミア王女を遠路守り続けた傭兵団を皆に紹介したい、と仰ってたの。団長であるあなたがいないと」
 アイクは剣を振る腕を止めもせず、ティアマトに返事もしなかった。それが彼の答えなのは、二人とも分かっている。ティアマトは深くため息を吐いた。
「団長が出席を拒めば神使様やエリンシア様のお顔に泥を塗ることになるのよ。ここは仕事と思って割り切って頂戴」
 諭すような言葉から変貌した堅いそれに、さすがのアイクも腕を下ろして振り返る。だが、付き合いの長い二人でなくともわかるほどの不機嫌な顔だ。

「そう、仕事と思えばいいのよ。お兄ちゃん」
 ミストはそんな兄を意に介さず、満足そうに頷き、夕刻前には支度するから、と告げてティアマトと共に屋敷へ戻って行った。
 いくら不満さを出した所で、「要請」ではなく「命令」となれば無意味だと観念したようで、アイクは重いため息を吐いて再び剣を振り出した。女神の奇跡とやらが起き、汗臭い傭兵はご免だと、神使が彼を拒みはしないか。そうわずかな期待を込めながら。


 わずかな期待は、短くなった蝋燭より光は薄く。
 ミストの言葉通り、日が西へと向かっている時刻に、屋敷の使用人が声をかけて来た。
 中年の使用人は、振り向いたアイクと目が合った瞬間、ぎょっと目を剥いたが、すぐに気を取り直して時間を再び告げる。
 彼に充てられて部屋には、既に使用人の男女数人が待ち構え、いや、出迎えていた。きらびやかな夜会の衣装と共に。
 その光景だけで、アイクは今にも逃げ出したくなったが、仕事だ、と抑えてマントを乱暴に剥いだ。
 湯浴みを済ま「され」、裸の体に香水が降られ、下着、絹のシャツ、ズボン、に光沢のあるブーツ、派手な色のスカーフに宝石の留め金、重々しいフロックコートを文字通り乗せられ、最後に髪を櫛梳かれる。数人がかりだが、流れるような手つきで着替えは行われ、重歩兵の鎧のような装備がなされた。白粉を持って来た侍女はさすがに制したのだが。

「これでも早い方でして」
 苦笑いしながら、ベグニオンの使用人は言う。
 かなり余裕を持った準備だと思っていたが、隣の部屋の妹はまだ着替えている最中らしい。
 ちなみに、団長、妹のミスト、それに副団長のティアマトが出ればいい、と、セネリオ以下団員が団長以外で決めていたことだった。何も傭兵団全てが出席している訳ではない。それを知れば、アイクが不平を漏らす為、皆黙っていた。

 夕刻まで時間に余裕があった。
 この格好で剣を振る訳にはいかず、(何より、着付けた使用人らが嫌がるのだ)かと言って香水の匂いの充満する部屋に長居するのも耐えられず、アイクは部屋を出た。廊下に出れば、妹のはしゃぐ声がかすかに聞こえる。

 やはり剣を持ってくるべきだった。
 この鎧のように重たい上着を脱ぎ、首に纏わりつくスカーフを取れば、剣を振るのに邪魔にはならない。そう思い、十数歩歩いた廊下を後戻りしようと、振り返った。
 同時に、かちゃり、と音がした。
「あ……」
 扉から不意に出てきた影が、そう声を漏らした。アイクも思いもよらなかった姿に体を止める。
「どうしたの?エリンシア様」
 部屋の中から、アイクが思い描いていた部屋の主の声がした。
「どうして、ここに?」
 喉から吐いた言葉は、間を埋めるために出たようなものだった。彼女は、れっきとした賓客として、自分たちとは別の屋敷、いや、神殿に居を与えられている。彼女の姿も、今から貴族が多く赴く場所へ行くのに充分な服装だった。
「ミストちゃんの着替えを手伝っていたのです」
 エリンシアは他意なく、微笑んで答えた。
「ですが、髪飾りが少し物足りなくて……わたしの部屋に取りに行こうかと思っていた所です」
 兄だからか、ほとんど終わっているのか、着替え中だと言うのに、扉は開けられたままだった。後者であったらしく、エリンシア越しのミストは、髪が短いことを除けば、貴族の娘と言われても頷けるほどまでには変身していた。
「……馬子にも衣装」
 兄妹顔を合わせた途端、どちらからともなくそう言った。
「まあ、ひどい」
 エリンシアは二人の間でそう言うも、顔は笑っていた。
「ミストちゃん、少し待っていてね」
 エリンシアは重たそうな裾を物ともせずに、軽快な動きでミストの背を押し、扉を閉めた。アイクの格好だけでも窮屈で、重苦しいのに、女の格好は見た目だけで重装備に思える。よくそれで動けるものだと感心してしまうほどだ。
 だが、それが彼女の本来の姿なのかもしれない。
「……どうしました?アイク様?」
「あ、いや、部屋まで送ろうか」
 茫然としていたことに恥じ入り、アイクは答えを待たず歩き出した。後ろを着いて来るエリンシアは、それほど迷惑ではなさそうな顔をしているのが救いだった。
 堅そうな靴音が響き、だが、エリンシアは足取りを乱さずにアイクに並んだ。わずかに見える靴先が、アイクのつま先に痛みを走らせる。自分がこの靴を履いたなら、痛みで立つこともままならないだろうと。
 
「礼儀も知らない傭兵なんか、あんたに恥をかかせそうだ」
「……わたしだって、社交の場には出たことがありません。教養はある程度教えられて来ました。ですが、帝国のお嬢様方の立ち振る舞いに比べたら、とても……」
 そこで、彼女の面に暗い影が差す。
 アイクはエリンシアにかける言葉が浮かばなかった。
 賓客の屋敷と、その家来の屋敷はそれほど離れてはいない。
 だが、ここ最近双方の責務は別の場所にあり、顔を合わせる暇もなかった。今まで身を寄せて来た恩人らと離れ、見ず知らずの貴族らに笑顔を振りまくのは、さぞかし心細かっただろう。ミスト、とは言わないがティアマトは傍に居させてやった方が良かったのではないか、とアイクは悔んだ。
「あ、すみません。アイク様。わたしはできます!こうして、ベグニオンの方々と誼みを結ぶのが、わたしの仕事ですから」
 渡り廊下に差し掛かった所で、エリンシアは急に立ち止った。
「違うんだ。おれも、そんなつもりじゃ」
 自分がどんな顔をしていたのか、彼女の態度で気付き、慌てて首を振る。
「いいえ。せっかくアイク様たちグレイル傭兵団の皆様が、命を張ってここまで連れて来て下さったのに、ベグニオンの後見を得られなければ、クリミア復興の足がかりを喪えば、全てが無駄になってしまいます。それだけは、それだけは……」
 エリンシアの声は熱が篭り始めていた。その熱が、「これも仕事なのよ」というティアマトの声をアイクの中で呼び覚ます。
 着飾ったエリンシアを、ただなんとなく見流していたのを恥じた。誰にでも、それぞれ戦いはある。あの初見で胸が悪くなるベグニオンの元老院たち相手に、彼女は戦ってきたのだ頼れる者もおらず、たった一人で。
 エリンシア、すまない。
 アイクは浮かんだ謝罪を飲み込んだ。謝ってしまえば、彼女の今までを否定してしまいそうだった。
「アイク様」
 エリンシアはにっこりとほほ笑む。
「今宵は一緒に戦ってくれますか?」
「ああ」
 双方、暗い影は消え去り、花のような顔(かんばせ)と普段の仏頂面が戻っていた。
 そうだ。これからは共に戦うことはできる。慣れない戦場だが、同様に慣れない中で奮闘してきた彼女を護る為に、自分にもできることはあろう。
「では、今宵、わたしと踊ってくださいね。傭兵団長様」
「あ、ああ……え?」
 アイクは目を丸くするが、エリンシアは構わず微笑んでいた。

11/05/18   Back