夜明けの鐘




 まだ夜半かと思わせる空に、うっすらとではあるが、太陽の気配が感じられた。
 暗闇の中で、寝台からそっと、隣で眠る夫を起こさぬように出る。きしり、と床が鳴ったが、隣を見ても規則的な寝息が聞こえ、胸を撫で下ろす。村はずれに打ち捨てられた襤褸屋を、なけなしの貯金で買い取った家だった。元の家人と親類縁者はとうの昔のこの家を出、所有権が移行した村長も、代金は不要だと言ったのだが、半ば強引に金を押し付けた。二十歳を少しだけ過ぎたくらいの、まだ食うだけで精一杯の年若い夫婦だとしても、住むにはあまりにも粗末過ぎる古家だった。しかし、今にも壊れそうな普請でも、充分な住まいであった。二人で暮らせるならば、不満はないのだ。

 もう少し"まし"な空家なら、この村にはある。
 村長は心底驚きながらそう告げた。夫の方はともかく、妻の方は質素な服を着てはいるが、恐らくどこかの貴族の令嬢であったと勘付いていたからだ。それでも二人は、頑なにあの家を欲した。駆け落ちなのであろうと村長はさっさと片付け、他所者の望みに応じる事に決めた。
 
 かまどに火種を投げ入れる。ぱちぱちと薪が爆ぜ、炎から湧き立つ熱気が、ひんやりとした空気を温め始める。隙間は急ごしらえで塞いだ所で、また新たな隙間や穴が見つかるような家だった。本格的に冬が来れば、眠れるか、いや、冬を越せるのかどうか怪しいと夫婦で笑い合っていた。かまどの火が安定すると、彼女は立ち上がり、水がめを取りに外へ出る。
 
 一番近い井戸があるのは村の中央。
 そこには既に数名の女たちが水汲みにやって来た。挨拶をすると、彼女らは少しだけ戸惑いながらも挨拶を返す。閉鎖的な村ゆえの、他所者に対しての警戒心もある。が、貴族の令嬢と平民の駆け落ち。二人について、村にはそう噂が立っているゆえだ。
 彼女は多くは語ろうとはしない。ただ、ゆったりと笑みをたたえて頭を下げるだけであった。それが、村人たちの憶測を更に強固にしている。
 この村へ来て半年あまり経とうとしている。変化のない長い時が、警戒をゆっくりと風化させてくれるだろう、と、彼女は思う。

 水を汲み終えても、家に戻る道すがらは、うっすらと明るくなっているだけだった。きんと冷えた空気もそうだが、朝日が昇るのはかなり遅い。冬がもうそこまで来ているのだと、文字通り肌で感じていた。
 かまどの火を強め、水を鍋に入れて温め始める。隙間風によってすっかり冷えた家に温かい湯気が立ち上がり、部屋を満たして行く。スープが出来上がる頃には、寝室の方から鼻をすする音と、毛布が大きくめくれ上がる音が聞こえた。
 のっそりと、と言った形容がぴったりと合った動作で、彼女の夫が食卓へ入って来た。顔を洗って来たようだが、体と瞼は、まだかなり気だるそうだった。

「おはよう、ございます」
「……ああ」
 もう、敬語など使う必要なない。いや、本来なら出会った頃から、彼女は後に夫となる少年に対して畏まった態度を取る必要はなかった。むしろ、その逆。高貴な血筋に対して、彼の方が、ひれ伏さなければならないはずだった。
 しかし、彼女は彼だけでなく、どのような身分の者に対しても、自分に対して無用に膝を折らせる事を望まなかった。例え王族の血が混ざっていようとも、玉座とは縁のない身の上だった。彼女はそれで満足だった。王宮には上がれずとも、両親からの惜しみない愛情は受け取っていた。離宮しか知らない身は、窮屈という言葉を知らなかった。
 何も知らない、不安のない世界。幸せだった。そのはず、だった。

「どうした?」
「あ、いえ……何もないのです」
 ようやく体が覚醒し始めた夫が、眉を寄せて彼女を覗き込む。
「なあ」
 普段口数の少ない夫が、彼女に問う。彼がこんな表情で問いかける言葉は、決まっている。だから、彼女は首を振った。
「冷えてきましたから、水汲みが少し堪えて」
 はぐらかしているのは、心情の機微に疎い者ですら分かる。だが、夫はそうか、と答えるだけで、籠に盛られたパンを掴む。

 食事を終えると、夫は剣を佩き、皮の外套を羽織った。
 もうすぐ冬が訪れる。仕事の前に、山へ行って獣を獲って行かなければならなかった。粗末な扉は壁や屋根同様隙間が幾つもでき、冷気を無作法に受け入れている。開ければ、なおの事、家の空気を一気に冷やそうとした。
「では、行ってくる」
「ええ、いってらっしゃい」
 そう言ってほほ笑むと、夫は頷いて薄明るくなった空へと消えて行く。
 帰りはいつかは分からない。山への狩猟と、彼女が庭に小さな畑を拵えて、二人は生きている。もう少し金が貯まったら、鶏でも飼おうかと話し合っていたところだ。
 山へ狩りに出かけるにも刀身の長い剣を帯びるのは、熟練の猟師の目には奇妙に見えるだろう。彼が言うには、傭兵だった頃から、罠と剣で何とかして来た、らしい。実際に、彼は毎回何かしらの成果は上げている。山に慣れた者ですら、滅多に手を出さない大柄な獣を担いできた事もあった。

 夫が二度と戻って来ないとは、彼女は思ってもなかった。
 狩猟に危険がないと決めつけている訳ではない。彼は、いつも帰ってきていたからだ。どんなに不利な状況でも、彼女の許へ。
 そんな信頼があるからこそ、彼女は待ち続けていられた。かつてのように、帰りを祈りながら待つ身ではなく、帰る場所にいる、伴侶として。強く手を引かれた時は驚いたが、不思議と拒否する気にはなれなかった。彼は、未だに彼女を不自由させているのかと危惧している。不自由な所がどこにあろうか、といつも笑って返すのだが。

 今度は、何を獲って来るのだろう。
 小さな獣であったならば、すぐに塩漬けか干し肉にしておこう。そうしておかなければ、すぐに彼が平らげてしまう。大きな獣であったなならば、一部を保存用にして、後は今夜の夕食に出して、それからこの前赤子が産まれたという家に持って行こう。
 彼女は口元に笑みを浮かべ、台所へと足を早めた。扉を閉めると同時に、朝を告げる鐘が鳴り出した。




 大地は、まだ夜の色に染まっていた。手提げ灯篭のわずかな光が、足元の雪を照らし出す。
 深い紺の大地に、四つの足跡が点々と続く。片方は大きくて無骨な靴、そしてそれを半歩追うようにして付いた小柄で良質の靴跡が。
 さくり、さくりと雪を踏む音だけが澄んだ空に響く。もうすぐ春が訪れ、雪も溶け始め、雪が降り始めてからはほとんど手入れされていないこの使用人用の裏通りも、地面と新芽を覗かせる頃であった。
 城を出てから、二人は一度も口を開いてはいなかった。積もる話は今までも、そして城の中でも充分なほどに交わしたからであろうか。明け方の静けさと冷たさに、口を動かすのも憚られたゆえであろうか。
 
 うす暗い向うに、さらに暗い鬱蒼とした森が見えた。
「この辺で」
 アイクは始めて立ち止まり、もう機だ、とでも言うように口をひらいた。陽が昇り切らない空の元でも、エリンシアの顔が、名残惜しんでいるのはわかる。
「すまんな。ここまで付き合わせてしまって」
「随分長く付き合わせてしまったのは、こちらの方です」
 涙の別れとなるかと思いきや、エリンシアは口に笑みを浮かばせていた。皮肉げな、どこか悪戯っぽさを残す笑みだった。
 付き合わせてしまった、とは無論、クリミアの城から、ここまでの道中ではない。出会ってから、今までほんの数年しか経っていない。だが、城からあの森まで比べれば、とてつもなく長い道のりだった。あまりにも烈しい戦は、戦いを経て、二人に多くの、過重なものを肩に積み上げながら。一本道でもなく、共にずっと歩いて来た訳でもない。だが、二人が歩む道は、いつも何かしらで繋がり、交わって来ていたような気がしていた。
 
 振り返れば王城は、彼女の城は見える。帰りは供もなく一人での道すがらだが、そこまでも一人で歩けぬほど、エリンシアは深窓の姫君ではないのだ。あの"夢"の自分ほど自由ではないけれども。

 彼の行く道は、目の前に広がっている。"夢"の始まりと、今、同じ状況にあった。
 幸せだったのか、と訊かれれば、頷いたであろう。
「エリンシア?どうした、冷えてしまう。だから……」
 胸元の手提げ灯篭は、目の前にいるアイクの表情までは完全に照らしてはいない。ここで、"夢"と同じ言葉を願えば、彼は手を差し伸べてくれるのだろうか。試してみたい、という気持ちがないと言えば嘘になる。
「アイク様」
 エリンシアは伏せていた顔を上げる。アイクの精悍な顔は冷気にかなり当たり、冷えて固くなっているように見えた。
「夢を、見たのです」
「ゆめ……?」
 アイクの眉が寄り、じっとエリンシアを見ていた。
「小さな村でした。村はずれのとても古い家で、暮らしていました……二人で」
 アイクの顔は変わらないままだ。元より、彼の表情は滅多な事で変わる事はないのだが。
「そうか。夢の中でのおれは、あんたを幸せにしていたのか?」
「……はい」
 震える声と共に、頷いた。
「そうか。それなら、いい」
 ばさりと彼の外套が揺れ、エリンシアの体はその陰と、強い力に包まれる。暖かい空気が、そこにはあった。耳元に、掠れた低い声が届く。
 あの夢は、決して見てはいけないものではなかったのだ。
 そっと安堵し、アイクの胸に頭を預けた。後悔は、もうしないだろう。例えこの腕が離れて行っても。
 朝を告げる鐘の音が、寒空に響き渡った。  

14/11/25  Back