10/02/18 TOP
逃げてしまいたい。
そう心の中で叫んだのは何回目だろうか。
手のひらに赤い指先の跡がつくまで拳を握るも、それを察する者は誰もいなかった。ちらとエリンシアの白い顔を見やり、真綿で包んだ皮肉を口の端に乗せる者ばかりだった。その数もエリンシアが玉座に座り始めた頃よりもかなり数を増し、婉曲な言葉も遠慮が見えなくなった。それでも自分や国のための助言なのだと言い聞かせる。みな不甲斐ない自分に苛立っているのだ。
「ラモン様やレニング様が生きておられたら……」
宮中のそこかしこでそういった類の噂話が上がっているのもエリンシアは知っていた。死者を蘇らせる術があるならば、施したいのはエリンシア自身であるのに。
どうしても心が折れそうになった時は、空を飛ぶ。
天馬の上から受ける風は心地よかった。クリミアを空から眺めるたびに、天馬ではなく、クリミアという国の手綱を取っているのだと身に染みる。政務の事は、簡単には頭から離れないのだ。
静かに高度を下げ、城下町の裏路地へと降り立つ。始めは目立たないようにと神経をすり減らしたものだが、今ではマーシャの手を借りずとも、飲食店の並ぶ通りの影に愛馬の蹄を着かせる事ができた。
「いらっしゃい」
陽もまだ高いというのに、店の女主人は明るい顔と声でエリンシアを迎えた。昼間は食事と茶を出すのだが、この時間から立ち寄る者は大抵常連たちだった。今日はその常連すらもいないようだ。
店の主人はエリンシアがどういう人物なのかよく知っている。
店主夫婦は、クリミアを奪還する際に新興軍に参加していたのだ。常連の顔ぶれは、現在は女王だけではなく、宮廷騎士団の面々もいた。
「だいぶお疲れのようですね」
しばらく振りの飛行で心が幾分軽くなっても、カリルにはわかるようだった。大丈夫、とも言う気にもなれず、困ったように笑みを繕うだけだった。
そんな為政者に、カリルは温かい湯気を立ち上らせるカップを差し出す。ありがとう、と言うもののどこか生気の欠けた所作で真っ白な陶磁器を傾ける。中は、カップの白さと対照的なものだった。
「甘い……」
匂いで何気なく思い浮かんでいたのだが、口に運んだ瞬間、予想よりも甘い香りと感触が広がる。
「ベグニオンからいいのが入ったんですよ。何せ今日は―――」
「あ……そうでしたね」
すっかり失念していたのだ。連日の政務に暦を察する心を押され、それに、去年は誰かに贈り物をするという場合ではなく。
一昨年までは、離宮の調理場でルキノと、若い侍女らとはしゃぎながら菓子を焼き、離宮のみなに配っていたものだ。この幸せと安らぎは、いつまでも続くのだと信じて疑わなかった。
店の扉が開く音で、何も知らなかった幸せな思い出はかき消された。
「あら、いらっしゃい」
エリンシアは振り返ると同時に目を見張る。
「アイク様」
同じ宮中にいるも、長らく顔を合わせていなかった恩人がそこにいた。厚手のマントと銀の柄は、エリンシアが「将軍」へと与えた物だ。質素な衣服に無骨な剣を佩いていた頃に比べ、その顔にはずいぶんと疲労の影が見え、エリンシアの心をちくりと刺した。住み慣れた砦を捨て、エリンシアを守りながら戦っていた頃よりもずっと。
傭兵だった彼をクリミアの城に縛りつけているのはエリンシア自身だ。クリミアの英雄の姿で、まだ復興半ばの民の心を宥めている状態に辟易さえしている。しかし、彼もまた、乳兄弟や宰相とともにエリンシアの心を支える存在なのだ。野に放つ覚悟などまだできていない。
「エリンシアか」
久しぶりに会えたというのに、アイクは無表情で言葉を返す。彼の疲労の元凶であるクリミア女王だからそういう表情になった訳ではなく、元からアイクという人物は愛想がない。普段どおりという訳なのだ。
愛想どころか礼儀もなっていない「家臣」は憮然としたまま「君主」の隣に腰を下ろす。それを気にするエリンシアではなく、むしろそれが面愉快に思えてしょうがない。
「……どうした?」
「いいえ」
アイクらしさを見出せる事ができ、嬉しかった。
そんなエリンシアを横目で見ただけで、アイクは椅子に座り直す。その場面を眺めていたカリルは、呆れ顔でアイクの前にもエリンシアと同じ物を出した。
甘い物は嫌いではないらしく、アイクは無言でそれを傾ける。湯気が二筋、酒場の天井まで届きそうだった。奥の厨房から、物音がする。店主の夫だろう。
「甘いな…」
「甘い物なんだから当然だろ」
エリンシアの時とは全く違い、カリルは乱暴に言い捨てた。エリンシアはカリルに目を丸くしながらも、今日の日を説明しようとしたのだが。
「さ、飲んだら外を歩いてみなって。ちょっと寒いけど、店に籠もるよりもずっと気分転換になるから」
「……?カリル、おれは……」
空になりきっていないカップを早々と持ち上げ、客であるアイクの腰を上げさせる。客、しかも元は雇い主であったはずなのだが、そんな関係など構わずに店の外へ追い立てようとしていた。
カリルの事だ。きっとアイクの疲労の翳りを見抜いているに違いない。エリンシアは純粋に酒場の女主人に感服していると、カリルはエリンシアへも向き直った。
「ほら、女王様も」
「え……?」
え、じゃないですよ。とカリルはカウンターから出て二人の背中を押すような仕草をした。両開き式の扉の蝶番が鳴り、カリルの押すがまま立ち尽くす羽目となってしまった。
しばらく首を傾げていたが、いつまでも店の入り口を塞いでいるのは悪いと思ったのか、どちらともなく歩き出した。
「あの、アイク様。お勤めはよろしいのですか」
「あんたこそ」
互いの業務の事はこれ以上詮索しない方がいいと悟ったのか、足は自然と人が賑わう大通りへと向かっていた。アイクはともかく、エリンシアにはカリルの意図は伝わっていた。それゆえに、足取りは少し浮ついている。
太陽は顔を出し、昨晩の雪を溶かしてはいるが、冬の冷気を暖める力はないようだ。
冷え込む日中だというのに、店が立ち並ぶ通りは日ごろと変わらないどころか、普段よりも活気付いていた。川の流れのような人いきれは、違う色のざわめきが見え始めた。ほとんどの者が歩くエリンシアとアイクをちらちらと見ている。
やはり目立ってしまうのかとエリンシアは内心でため息をつく。クリミア新王として、エリンシアが戦争終結後、大勢の民の前に姿を現したのはおよそ一年前。バルコニーの隣にはクリミアの英雄。デインの強襲から生き延びた王女と、狂王から国を取り戻した青年の姿は、今でも国民の脳裏に鮮明に焼きついている、はずだった。通りの両脇の店から、馴染みの店主らしき中年の男女、通りで遊んでいる子ども達までもが口々にはやし立てた。
「アイクさん、今日はえらい美人連れてるね」
「本当に。案外隅に置けないもんだ」
エリンシアは耳を疑った。
確かに、エリンシアは今略式の冠もマントもない軽装だった。いくら早足でカリルの店に寄るだけと言っても、執務時と同じでは目立ちすぎる。それに、政務の多忙さから、視察以外は国民が大勢いる場所へは滅多に赴かなくなっていた。その視察も、農村や開拓村などのメリオルから遠く離れた場所だった。
しかし、ここ一年で女王の顔などすっかり忘れてしまったのだろうか。軽くはない落胆を覚える一方、その方がアイクと歩くのには都合がいいのではないかと頭の隅で囁かれる。
きっとその方がいいのだ。
アイクは揶揄する商売人らにそうじゃない、とぶっきら棒に返していた。エリンシアの心に、先刻の照れくささが戻る。
互いの口からは公務を気にかけるような言葉は一言もなかった。ただ、最近の些少な事、砦にいる傭兵団の様子など、交わす言葉自体少ないが浮かばせていた。
雪の溶け残る石床をまっすぐに歩いているが、道を挟む店舗や露店から声をかけられない事はなく。
「女連れだと、こうも忙しないのか」
「ふふ……どうなんでしょうね」
アイクの言葉で、彼がそういう経験がない事を知った。そして、今日が何の日なのかも知らない事も。忘れているだけかもしれないが。
復興途中ではあるが、洋服店や宝石店から人の出入りは頻繁にあるようだ。始めて城下町に足を踏み入れたのは、デインとの戦闘だった。その時の激しい破壊の痕は今でも目に焼きついている。だが、わずか一年あまり、復興はまだ完全ではないが、こうして街は活気付き、物を贈り合えるほどには戻ってきているのだ。
エリンシアは露店の前でぴたりと足を止める。
「ありがとうございます」
露店の男は満面の笑みでエリンシアからゴールドを受け取った。
「どうぞ、アイク様」
それをもたらしてくれた相手に、エリンシアは手渡した。去年は勇気を出して贈ってみたが、それがどういう意味を成すのか気付いてはもらえなかった。今度も気付いてはないのだろう。突然渡され、目を丸くしている。
「お兄さん、もうらうだけかい?」
商人が横槍を入れ出した。そうだよ、これなんかどうだい。と他の露店の店主らも口々に自分たちの売り物を勧め始める。
まだ理解していないアイクは怪訝な顔で周囲を見渡す。本当に今日が何の日なのかわからないらしい。
「……わかった。エリンシア、何が欲しいんだ」
「野暮だねぇ」
「うるさい」
そのやり取りにエリンシアは笑っているだけだった。
「エリンシア」
笑うだけのエリンシアに、アイクは苦い顔で咎めていた。
「すいません、アイク様。わたし、別にいいんです」
「そう言う訳にはいかないだろう」
そうだよ。こんな日なんだから。と商売魂はたくましくエリンシアを焚き付けようとしていた。
だが、欲しい物など思いつかなかった。身一つで助けを請うエリンシアを信じ、各地で戦い、クリミア奪還まで果たしてくれた者にこれ以上何を求めようか。
こうして二人で城下町を歩いているだけで、わずかでも傍にいられるだけで充分なのだ。それを告げれば、彼はどんな顔をするだろうか。
「アイク様。わたしはもう行かなければ。ありがとうございます。とても、楽しかった―――」
早口でまくし立て、エリンシアは去ろうとする。カリルの店で少し息抜きするはずだったのが、予定以上に長居してしまった。さすがにルキノも心配しているだろう。もしかすると、マーシャが探しに来ているかもしれない。
アイクと肩を並べるのは戴冠式以来だった。名残惜しそうに一年ぶりの位置から離れる。
「あ、エリンシア、待て……」
その声を背中で聞き、エリンシアはカリルの店へ急いだ。しかし、腕を強く引かれ、それも叶わない。
「待て」
引き寄せられたふいに、アイクの顔が耳元に近付く。一瞬で顔が熱くなった。
「後で何か贈ろう」
その言葉と同時に、何かを握らされた。周囲のはやし立てる声の中、小さな声ではいとしか言えず、近距離のアイクから逃げるように駆け出した。
天馬の前に着いても、熱はまだ落胆と恥ずかしさを燃料に体の中でくすぶっていた。
しばらくは街へは行けないかもしれない。
「エリンシア様!」
カリルの店の扉を開けると、女主人よりも先にマーシャが出迎えてくれた。
「お姿が見えないので、てっきりここだと思ってましたよ」
「心配かけてごめんなさい」
カリルは、エリンシアに出した者と同じチョコレートでマーシャを引き止めていたらしい。彼女が座っていた机の上の白磁のカップから甘い湯気が立ち上っている。甘物のせいか、心配していると言ってもマーシャからはその雰囲気はない。
「街を歩いてみたくて」
「あ、もしかして誰かに贈物を?」
違うの、と笑って見せるも、マーシャは信じてはいないようだ。彼女の肩越しに、女店主をちらと見遣るが、カリルは首を振った。
「でもエリンシア様、綺麗なお花もらったようですね」
その言葉で、エリンシアは先刻握らされた右手を眼前に持ち上げた。硬く握っている拳から小さな白い花弁が覗いている。帰ろうとした時、アイクが誰かと会話していた覚えがあった。大通りにいた花屋の屋台でこの花を見た記憶も。
これで充分ではないか。
明日にでも萎れてしまいそうな小さな切り花だった。エリンシアはそれを大事そうに両手で包んだ。
「長い時間城を空けてしまいました。帰りましょう」
女王の満足そうな顔に、カリルは当然の事、マーシャもそれ以上は追求しなかった。