矜持と忠誠




「サナキ様が……!?」
 シグルーンは、露骨に眉を動かす。女神の使いとも評される美麗なかんばせが険しく射抜いても、目の前の文官は臆する事もなく、頭を深々と下げる。
「はい、今朝お付きの侍女より、神使様のご容態が芳しくないと報告がございまして。典医の診察によれば、病の進行はかなり進んでおり、安静が必要のこと。元老院はこの事態を重く受け止めまして、神使様にはしばらく政務を離れ、治療に専念して頂きたいと願い申し出た訳でございます」
 飄々と告げられた言葉に、シグルーンは開いた口が塞がらない思いだった。昨夜執務室を辞するまで、サナキは平然としていた。神使として、皇帝として、ベグニオン帝国の未来を幼い肩に乗せている身だ。大人ですら重すぎる責任に苦悩せずにはいられない。しかし、サナキはシグルーンには心の裡を正直に吐露するほど信頼を置いている。身体の調子が思わしくなければ、正直に周囲に告げるはずだった。無論、口にするものは茶一杯も事前にシグルーンや信頼のおける侍女が調べている。サナキ付きの侍女はすべて元は神使親衛隊の天馬騎士であった。サナキを害するはずもない。そう、信じていたのに。

「では、すぐにでも神使様のご様子を伺いに参ります」
「それには及びませぬ」
 主君が重い病気に臥していると言うのに、僧帽の下から覗いた目には、欲望が隠しきれずにぎらついていた。入室した時分から、やたらと低頭であったが、身分も地位も上の者に対しての純粋な態度ではないのはすぐに分かった。しかし、そのような事はどうでも良かった。
「神使様には、典医とその従者が日夜看病しておりますゆえ。典医もお身内以外は近付けないようにと申しておりまして」
「そんな……」
 露骨な遮断に、怒りが急増して行く。サナキには血の繋がった者はいない。強いて言えば、シグルーンの血が遥かに薄くベグニオン皇家と繋がっているだけだ。マナイル神殿に仕える者がそれを知らぬとは言わせない。
「わたくしも、セフェラン様もでしょうか」
 天涯孤独の主君だからこそ、シグルーンや宰相セフェランが、我が子同然に支えて来たのだ。サナキの口からも、シグルーンとセフェランは、我が身内同然だと公言もしている。
「セフェラン……?ああ、あの謀反人の事でしょうか」
「謀反……?」
 シグルーンの身体はますます凍りつき、耳を疑った。文官は青ざめるシグルーンのかんばせを楽しむように、歪ませた口の端はら言葉をさらに紡ぐ。
「ペルシス公セフェランは、ベグニオン帝国に叛意有りと元老院はみなしまして、今朝逮捕いたしました」
「なんですって!?一体どこにその証拠が?長年ベグニオンと神使様をお支えしてきた宰相どのに対して、何たる仕打ち……!」
 長年ベグニオンの貴族社会と軍に身を置いてきた彼女だが、元老院の無体な挙動には激昂せずにはいられなかった。しかし、現役の騎士に真正面から食いつかれようとも、年配の文官は冷静さを失わない。己の方が精神上優位に立っているとの余裕であった。 
「我々元老院は、神使様の寵を盾にベグニオンの執政を私物化するペルシス公をかねてより危惧しておりました。そしてつい先日、ベグニオン皇家に対し、謀意としが考えられぬ証拠を見つけた次第です。それは、後日の裁判にて明らかにされましょう……しかし、シグルーン殿は裁判には臨席は叶わぬようですが」
「どういう意味ですか?」
 さらに何かあるのか、と露骨に眉をひそめるシグルーンの前に、文官は懐から一枚の羊皮紙を眼前に差し出す。瞬間、シグルーンの薄い碧の瞳が見開かれる。これは、と掠れた声が漏れると、文官は内心の歓喜を隠しきれずに笑みを見せた。
「そもそも、どこの馬の骨とも知れない薄汚い男をを神聖なるマナイル神殿に引き入れ、あまつさえ過重な官位まで与えたのは、あなた様のおじい様に当たられますリティオス公ではありませんか。そのリティオス公が女神の御許に行ってしまったとなれば、親族がその責を負うのは自明の理―――すでに、リティオス公の一門の方々にも解職の令が出ております。孫娘であるあなた様も、神使親衛隊長を辞すのが道理でしょう」
 シグルーンは、羊皮紙を受け取った。何度も文字をなぞったが、冷淡な異動命令しか綴られてはいない。新たな地位は聖天馬騎士団第十六部隊長とあるが、そのような部隊は長年聖天馬騎士団に籍を置く身だが聞いた事がない。赴任地も、マナイルから遠く離れたベグニオン南端の土地だ。辞令の末尾には、ベグニオン皇帝の印が押されている。おかしな事だ。この印が押せるのはただ一人。今しがた、目の前の男が"重病に臥している"と言っていた少女だのに。この先のベグニオンとサナキの未来に絶望しかけたシグルーンだが、却って平静さを取り戻す。あからさまな左遷の令は、彼女の心に冷や水を浴びせたようなものだった。
「次の隊長はどなたに」
「拙僧は元老院の決定をお伝えに来た身ですので……それに、時期隊長の事は、あなた様の知るところではございません」
「引き継ぎもあるのです。わたくしが知らなくても良いはずがありません」
 すっかりり落ち着きを取り戻した口調に戻るも、文官の態度は依然変わらない。それどころか、僧帽の下からずっとシグルーンの青ざめた顔色を伺い、心底愉しんでいるように思えた。サナキとセフェランに近く、その上元老院副議長ルカンの政敵の孫。リティオス公が元老院議長退任する際、後任間違いなしと言われていたルカンを押し退け、新皇帝サナキの寵愛を理由に強引にセフェランを議長に就任させた経緯もある。シグルーンが、元老院の矢面に立たない訳がなかった。
「そもそも神使親衛隊とは、ベグニオン皇家をお守りする為のもの。神使様以外の命を、どうして受けれ入れられましょうか」
「先刻申したではありませんか。神使様は深刻なご病気。我らが代わりに政務を行うのは、元老院のしきたりでございます」
「そう、それがあなた方の答えなのですね」
 溜息に近い声でそう言うと、シグルーンは羊皮紙を破り捨てた。神使自ら署名し、印を押していなければこれは勅命に当たらず。そもそも、神使の口から出た命令以外を受けるシグルーンではない。
「シ、シグルーン殿!何をなさっているかお分かりかっ」
 文官は、大仰なまでにのけ反り、口角に泡を飛ばす。震え慄く様から反意など微塵も予想していなかった。彼は、己より遥かに高い地位と身分の小娘を弄ぶ事に躍起になり過ぎていたようだ。
「捕えろ!元老院に反意を持つ者がここにも!」
 慌てて、後ろに控えていた部下に取り抑えるよう命じる。しかし、連れて来た部下は神殿付きの神官。実戦から遠のいたとは言え、現役の天馬騎士に敵うはずもない。恐る恐る近付く男を、シグルーンは軽々と吹き飛ばす。その隙に執務室の奥へ走り、剣を手に取ると、窓のを開け放った。
「誰か!謀反人が逃げるぞ!!誰か!」
 文官の男が叫ぶ声が聞こえる。しかし、衛兵に届くには遅い。ここは聖天馬騎士団の営舎だ。シグルーンは指を口に当て、鋭い音を空に放つ。瞬く間に純白の馬体がするりと現れた。驚く文官をよそに、シグルーンは迷いもなく愛馬に飛び乗る。主を載せずに逃げは絶対にしない天馬ゆえに、厩舎には繋いでいないのが幸いだった。
「いたぞ!あそこだ!」
 しかし、文官の救難の声は意外と速く届いたようだ。もしくは、聖天馬騎士団または神使親衛隊の中にも元老院に与する者がいるのだろうか。考えたくない事だが―――
 天馬の足下には、すでに弓兵が隊列を成し、矢を番え初めている。
「シグルーン殿!大人しく降りて来て下されば、乱暴な事はしないと約束する。弓に射落とされる不名誉は神使親衛隊としては避けたいと思われれば、大人しく降りて来られよ」
 シグルーンは弓隊の上空を大きく旋回する。弓隊長の言葉に耳を貸す状態ではなかった。約束が守られるとの言葉は信じられなかった。あのまま大人しく辞令に従っていても、命の保障はどこにもなかっただろう。辞令が出たシグルーンの親戚も、新たな異動先にて良くて幽閉、最悪は謀殺されるのは想像に難くない。
 
 隊長はしばらく空を仰いだ後に、腕を上げ、打て、と鋭く言い放った。同時にシグルーンは天馬の首をより上空に巡らす。しかし、弦が弾かれる音はせず、代わりに複数の呻き声を驚きの声が上がった。
「タニス!?」
 弓隊に向かって槍を投げたのは、タニスだった。いくらタニスでも、十名ほどの弓を構えた兵に単騎で―――しかも彼女も天馬に跨っている―――突入するのは無謀すぎだ。彼女の放った鋭い槍は、半数の弓を射る手を封じたのだが、残る兵はまだ弓を握っている。突然の襲撃に驚きはしたものの、相手は単騎だと知るとすぐに立て直し、タニスの方に弓を構え出す。シグルーンは手綱を引き、馬首を地上へと向けた。
 天馬の翼が土埃を派手に舞い上がらせる。怯んだ隙を見て、剣を抜き、次々と弓を薙ぎ払う。甘い人だ、とその剣を見たタニスは呟いた。
「随分と無茶な事をするのね。まさか、可愛い部下たちにもこんな手法を教えているのかしら」
 シグルーンの問いに、タニスは口の端を上げただけだった。先刻の文官の笑みと同じ容なのだが、受け取った方の気分は天と地ほど異なる。
「ところでタニス」
「はい、何でございましょう」
「あなた、こんな事をして大丈夫なの?」
「大丈夫も何も、今しがた流浪の騎士の身となりました。家からも信じる道を行けと言われております故、辺境の地にて閑職にいるよりも、やるべき事を成そうとした次第です」
「そう」
 今度は、シグルーンが口の端を上げる番のようだ。
 
「相手は二騎だ!一気に撃ち放て!」
 タニスも腰の剣を抜く。刃と鞘の擦れる音を合図に、二騎の天馬は左右に分かれた。天馬は上空から襲ってくるもの、と思い込んでいた兵士たちは、地面のすぐ上を駆ける天馬は初めて見るようだ。弓の狙いを定めた時には、天馬の鼻が眼前に迫っていた。天馬の前足が兵士を蹴りつける。馬上のシグルーンは半身を捻り、周囲の兵を斬りつける。あくまで弓を使えなくし、戦意を喪失させる目的だが、タニスの方は冷酷に兵士の利き腕に刃を振っている。致命傷ではないものの、弓を握るのは難しいだろう。
「タニス」
「向こうはこちらの命を狙っています。情けは無用かと」
 あくまでシグルーンは、兵士の戦意喪失だけを狙う。いくら弓を向けて来たとは言え、相手は同国人。神使と帝国を守るべきベグニオン軍の兵同士が、つまらぬ政治劇にて命を落とす道理はない。
「間もなく援軍が来るでしょう。ここはもう元老院の手中です。お早く」
「ええ」
 シグルーンは重く頷いた。しかし、いくらシグルーン一人で心痛めていても、状況は変わらない。元老院は、マナイル内の反発する人物を全て廃する勢いのようだ。
 遠くで、歩を進める赤い鎧の一団が見える。自軍の兵であるのに、身が凍る思いだった。己の命を狙っているからではない。あの兵士らが、騎士団ら全てが神使サナキではなく、元老院の為に動いている現実に。何としてでもサナキを救おうとする心には一片の迷いもないのだが、ベグニオン帝国が崩れていく様を見ているようで、再び絶望が広がって行く気がした。
「シグルーン様」
 タニスが低い声で名を呼んだ。別の部隊がすぐそこまで来ている事に、シグルーンはようやく気がついた。先刻の弓隊は斥候で、後ろに別隊が控えていたのだろう。ひんやりとした風が頬を撫でた。
「タニス」
「機(しお)はすぐそこに」
 前線の兵士は弩を構えていた。接近されても威力を発揮できる。先刻のように、意を突いての突撃はあまり効果がない。それでも、と二人は剣を抜く。例え逃げ延びても、多勢で追撃して来るだろう。神使サナキを守る。シグルーンはその為に生きてきたのだ。

 二騎の天馬が上空から急降下して来る。
 自棄になったか、と構える兵らは誰もが思った。前列は弩を上に向け、後列は長槍を天馬に向かって構える。このままでは、天馬が射落とされるから槍で腹を裂かれるだけだ。白い馬体が弩の射程に入った瞬間、猛烈な突風が辺りを包んだ。
「何だ?」
「魔法か!?」
 兵らは、急に押し寄せる白い一隊にうろたえる。白い羽根が舞う中、兵たちは一斉に繰り出される剣に斬り裂かれ、あるいは槍で貫かれる。敵は二人であったはずなのに。突如上空から天馬の一団が現れ初め、ベグニオン兵の一隊は混乱の渦と化した。

「隊長!」
「大丈夫ですか?」
「隊長!副隊長!ご無事ですか!?」
 甲高い声が、土煙と羽根の中に混ざって聞こえる。
「あなた達!」
 嬉しさを抑え、シグルーンは悲鳴のような声を上げて、若い騎士たちの中へ天馬を進めた。
「いけないわ。あなた達まで巻き込む訳には」
「隊長、神使様がおられなくて何が神使親衛隊でしょうか」
「どうか我々もお手伝いさせて下さい。シグルーン隊長とタニス副隊長あっての神使親衛隊です」
「でも」
 シグルーンは口籠る。神使親衛隊であろうが、元老院とて平民や低級貴族の娘まで処断するつもりはないだろう。今のベグニオン貴族のほとんどはルカンに服従していると言っても良い。このまま日和見を決め込んでいれば、天馬騎士として生きて行く道はあるはずだった。
「シグルーン様、この者らは既に元老院が差し向けた兵に刃を向けております。今更弁明しても、断罪は免れないでしょう」
 シグルーンの懸念を、タニスが一刀に伏する。
 彼女の言う事も最もだ、とシグルーンは観念して神使親衛隊を連れ立ち、サナキを救出する事を決めた。信頼できる者が一人でもいれば心強いのは確かだ。

「シグルーン隊長」
 身を隠す場所として、マナイルより外れた森の洞窟へ一行を降り立った。一人の若い騎士がシグルーンの許へ進み出る。
「これを」
 騎士は、一通の手紙を差し出す。真っ白い封筒には、何も書かれておらず、印すらない。若い騎士は、このお方のお陰で、我々は隊長と副隊長が任を解かれたと知った、と告げた。手紙を開くと、シグルーンは目を見張った。手紙には、主君と神使親衛隊を裏切った事への謝罪と、サナキが幽閉されている屋敷の位置が記されている。
「渡す時に、何度も謝られておりました。確かあのお方のご主人は、近年元老院議員の一員になる為に、腐心しておられたとも聞いております」
「それは、わたしも聞いた事があるわ」
 手紙の主は神使親衛隊は除隊した身。嫁いだ先の立場と天秤にかける事すら叶わない。それは致し方ない事なのだ。最後にこうしてサナキの居場所を記してくれただけでも、有難いというものだ。先代神使親衛隊長の矜持とサナキへの忠誠に、シグルーンは感謝した。
「何としてでもサナキ様をお助けしなければ。その為にも、皆にも頑張ってもらわなければね」
「はい。微力を尽くします」
 手紙の主が自害したと知ったのは、その翌日だった。
 
14/04/20   Back