青い空に

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 雲一つない美しい青が広がっていた。つい数刻前までそこが戦場だったとは誰も思わないだろう。地平線まで見渡せる平原を、赤い曲線を描くしなやかな肢体が駆けていた。デイン兵との戦闘は苛烈を極め、自身も無傷ではいられなかった。しかし、その戦闘もクリミア軍の勝利に終わり、傷もある程度癒えたのだが。

 
 やっかいな事になった―――

 
 レテは本国ガリアでも機敏さを誇る走りを発揮させながら独りごちた。自分に追いつけるベオクなどあの軍にはいない。だが、捕まらない保証はない。あの軍の言葉にはできない異常さはこの数カ月で身に滲みていた。レテの頭の奥底で「危険だ」という信号が鳴り響いていた。

 ふと後ろを振り向くと、人陰はなかった。だが、どこかに隠れているのかもしれない。
 そんな不安を隠せないまま、森にさしかかった。やり過ごせる可能性が広がった。レテは迷わず陽を隠す高い木々の中へ消えた。
 薄暗い森は夜目の利くレテにとってはそれ程障害ではなかった。もしかしたらこの森にも隠れているかもしれない、レテは慎重に森の中を歩いた。森では自分の方が有利だと言い聞かせながら。

 ピィィィィィィーーーーーーー

 その音にレテは反射的に近くの茂みに身を隠した。仲間を呼ぶ笛であった。力強い咆哮や仲間にしか聞こえない音を出すラグズにはこんな道具は必要ない。

「向こうの窪地にいたぞ!!」
「了解!」
 聞き覚えのある声にレテの全身は総毛立ったが、全くの見当違いの方向へ走って行くのを確認すると、安堵の息を心の中で吐いた。

 やはりベオクだな
 周りに人陰がないのを用心深く確認すると、音を立てないようにそっと茂みから身を出した。その瞬間、急に視界がなくなった。

「!!?」

 頭の重みの感触で、自分が捕われたとようやく理解した。考えるよりも先にこの布から逃れようと体を動かそうとしたが、布越しに体を抱き締められるように抑えられていた。もがいてもそれを降りほどく事はできなかった。

「モウディ……貴様ッ」
「許セ、レテ」
 布越しでもわかる仲間の匂い。そして、それと一緒に飛び込んで来る芳香に、モウディもやられたのだと理解した。

「くそっ、離せ!!」
「大人しくしていればこんな手荒な真似はしなかったものの」
 クリミア軍の軍師の声がした。恐らく自分を捕らえる作戦を立てたのも彼だろう。

「い、嫌だっ」
「あなたが嫌でもこちらが迷惑しているのです。さあ、戻りましょうか」

「た、頼む。もう少し時間をくれ。そうしたら……」
「と、言ってから一刻程待ちましたが?」
 あくまで、軍師の声は冷たかった。
「お願いだっ……」
 力なく懇願すると、急に自分の頭を覆っている布が剥がされた。その途端、悪魔のような赤い視線とぶつかった。レテの全身が凍り付く。

「黙れ。アイクの命令でなければお前なんかどうだっていいんだよ。わかったら大人しく本陣に戻れ」
 レテがうなだれるのとモウディがレテの体を地面に降ろすのは同時だった。戦場や仲間と衝突した時に時折見せる軍師のこの冷たい目線にはどうしても逆らえなかいでいた。本能の部分で「この男にはこれ以上逆らうな」という命令が下される。
 先ほどまでの俊敏な動きとは打って変わって力なく歩く後ろ姿に、モウディは声をかける事ができなかった。



「レテ!おかえりなさい!!」

 本陣であるクリミア軍の陣へ戻ると、ミストの明るい声で迎え入れられた。常に軍の空気を明るくさせている将軍の妹の声も、今のレテにとっては地獄の門番のようにしか聞こえなかった。

「大丈夫だって、わたしがやってあげるから、ね?」
「うむ……」
「おう、レテ、戻って来たのか」
 新たな声にも、うなだれた首は上がる事はなかった。
「もう、お兄ちゃんは入ってこないでね!」
 ミストに促されるようにしてレテは幅広く張られた幕の内側に入る。

「レテは入りましたか?」
「セネリオか。ご苦労だったな」
「いいえ、念のための罠を張っていて正解でした。オスカーたちの部隊もじき戻ってくると思います」
「そうか。それにしても難儀だな……」
 いつにないレテの衰弱した様子に、アイクは首をかしげていた。二人がくぐった幕の内側では、妹の「暴れないで」という悲鳴と、猫の抵抗が繰り広げられている事は明らかだった。
「ラグズは極度の興奮状態に陥ると化身のコントロールが効かなくなるそうです。ですが、戦闘が終わって数刻経っても全身に血を浴びているのはさすがに衛生上良くないですからね」

「にしても、獣牙族が風呂嫌だとは」

 澄み渡る空にレテの絶叫が吸い込まれて行った。


06/01/23TOP

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