拝啓、姉上様  終話

 
 
 
  許してくれとは言わない。ただ、歩かせてくれと言いたかった。 
 
  

「―――サナキ様!」
 導きの塔と地上を隔てる扉が開かれると、強い日差しと共に家臣の声がした。もう何年も地上から隔離されていたような懐かしさに、サナキも嬉しさを隠さずに駆け寄る。シグルーンがいつもさり気なく身に着けていた香水の匂いはしなかったが、温かさと彼女の本来の匂いが胸にずんと染みる。
「サナキ様、如何なさいました?」
 そんなサナキの心を悟ったようで、シグルーンは主君を心配そうにのぞき込んだ。
「何でもない」
 サナキは無理矢理口の端を上げる。そんなことをしても、無理をしているのは家臣たちには明瞭ではあるが、それでも無理でもせずにはいられなかった。どうやって話せばいいのだろう。彼女らも、絶大な信を置いていた男たちのことを。


 塔の外の様子を尋ねると、一行が塔に入った時から、使徒は数を徐々に減らしていった、とシグルーンは告げる。そして先刻、がらりと空気が変わったと。
「鷺の姫は、今までの世界の気に戻ったと仰っておりまして―――」
 塔の中では感じなかったが、確かに、あの"裁き"から身に染みていた清々しい空気とは違うものになっていた。あの清らかすぎる正の気に触れ続け、本来の負の気も混ざった気はやはり居心地がいい。周囲の仲間たちも、ほっとしたような表情を見せている。正の気だけでは、どうも落ちつかないと言った者の方が多数のようだった。だが、気の正負に敏感な鷺の王族らも、どこか安堵したような表情を見せている。
「とにかく、終わったのだ。わたし達は生きていける」
「それは、アスタルテを斃したということですか?」
 タニスの忌憚ない言葉に、サナキは押し黙ったが、すぐにうなずく。
「タニス、何てことを―――」
「はっ。恐れながら、我々の生命を脅かす存在を"どうしたのか"とお訊きしたまでです」
 彼女らしい物言いに、サナキは苦笑いを浮かべる。最初から、人が石に変わり、負の女神を信じた時から、覚悟していたことなのだ。今さら後悔しても、どうしようもない。
 母は我が子を滅ぼさんとしていた。子はそれに抗った。全てを裁く力を持つ母は去り、子は暴虐さを省みなければ、無になるよりも悲惨な殺戮の世界となるだろう。自分たちはその道を選んだのだ。道を踏み外し、苦しみ続けるか、安寧を手に入れるのか。それは、自分たち次第なのだと。

 そうだ。これからだ。
 対立してきた元老議員は亡いが、いつも頼りにしていた宰相も、軍を絶対的な力と人望で束ねていた将軍ももういない。有力議員が突然いなくなり、石になっていた貴族らは混乱するだろう。そんな彼らを束ね、導いていかなければならないのだ。漠然とだが、その道筋をサナキは無意識に描き始めていた。
 
 ざわつく先に目をやると、各国の王や勇士たちが、アスタルテを消滅させた勇者に満面の笑みで肩を叩いていた。それが済むと、各々故郷へ帰る支度をし始めていた。彼らもきっとサナキと思いを同じくしているだろう。女神の手を離れる決意をした代わりに、意思を受け取り、諍いのない世界を作っていかなければならないのだと。
 彼らとは違い、今足を着けている土地がサナキの生まれ育った土地であり、治める土地でもあった。最功労者に挨拶するのは、最後でいいだろう。
 踵を返そうとしたが、その足をぴたりと止める。
 アイクの傍で今話しているのは、緑の髪をした青年だった。背の高い彼の影で、銀の髪が揺れているのを見つける。
 帰ってしまう。
 姉弟がアイクから離れた瞬間、サナキは何かに駆られたように走り出した。シグルーンが慌ててサナキに続く。

「……待って、待つのだ!」
 吐く息に押し出された声だが、ミカヤとサザはぴたりと足を止めて振り返る。肩で呼吸整えると、今度は緊張で喉が締め付けられるようだった。
「帰る、のか?デインに」
「はい」
 ミカヤはあっさりと答えるのを見て、サナキは困った顔をした。勢い付いて飛び出し、声をかけたはいいものの、心に溜めてあった言葉を正直に出して良いものか、今になって悩み始めた。
「そなたの帰る場所は……その、デイン、なのか」
 ようやく出した言葉に、ミカヤの隣にいたサザが顔をしかめさせた。無理もない。一方、当のミカヤにはサナキの言わんとしていることはよくわかっていた。心を読まれるのは、正直気持ちは良くないが、上手く言葉に表せない時には便利なものだと、サナキは思った。ミカヤは今まで、そんなサナキの気持ちをよく汲んでくれていた。
「わたしはここで生まれたようです」
「う、うむ。そのようであるな……」
「今回のことで、わたしが何者なのか、知ることができました。なぜ、メダリオンを解放する歌を知っていたのか、なぜ、わたしは"印付き"だったのか……」
 驚きと希望が混ざった金の瞳に、同じ色の瞳を細める。そして、サナキ同様驚いた顔の弟を、ミカヤはちらと見た。
「ですが、塔の中で申し上げた通り、わたしは"既にデイン人"です。わたしの帰る場所、居るべき場所はデインにあるのです」
 きっぱりと言われ、辛くないと言えば嘘になる。だが、彼女の言うことも最もだった。例え生まれがどうであろうとも、本来はどんな地位があろうとも、ミカヤはデインの人と土地で育ち、心もそこにある。天上の位よりも、彼女にとってはその方が大切なのだ。
「……わかった……だが……いや、何もない」
 そう頭ではわかっていても、湧き立つ感情は簡単に宥めれられるものではない。一国一城の、しかも大国ベグニオンの皇帝でもあるのに何と情けないことか。自分を叱咤しても、弱々しい声しか言葉を発せなかった。
「……あの、あ……」
 沈痛な面持ちでサナキは瞼を伏せたかと思うと、何かを思い切ったように顔を上げる。だが、沈黙が続き、力なく目を逸らした。
「……どうか息災に……」
「はい。あなたもお元気で。サナキ……様」
 サナキは去り行くミカヤに右手を上げた。奥歯を噛み締めているせいで、言葉を発することはできなかった。笑っているつもりだが、酷い顔をしているのは鏡を見ずとも分かる。だが、これ以上どうしようもできなかった。
 ミカヤは微笑み、軽く頭を下げると、弟と共に去って行った。
 
 サナキは袖で目を拭いながら踵を返す。
 いつかデインへ行こう。行くのだ、必ず。
 デインへ赴けるようになるには、まず国が安定し、デインとの関係の健全化が不可欠だった。デインだけではない。他の国、一度ならず剣を交えたラグズの国々との軋轢もまだ深いままだ。明日からうんと忙しくなるに違いない。
 晴れやかな心で、サナキは蒼い髪の勇者の許へと歩いて行った。


「お待ちください」
 穏やかだが、決して優しくはない声が姉弟にかけられた。
「……サザ、先に行って」
「ミカヤ!」
 神使親衛隊長が、ミカヤに対して敵意を隠さずにいることをサザは驚いていた。その感情を、ミカヤが既に悟っていることも。
 周囲に人は遠く、かと言って、熟練の天馬騎士にミカヤが立ち向かえるはずもない。当然サザは姉の言葉を渋った。
「いいの。そうでもなければ、この方は信用して下さらない」
 サザはシグルーンを一瞥し、渋々ミカヤから離れる。その間も、シグルーンはじっとミカヤを見つめていた。
「前から、強い殺意のようなもの遠くで感じていました。あなただったのですね」
 シグルーンは答えなかった。ただ、ミカヤの言葉をじっと待っていた。
「弁明するつもりはありません。元老院に与し、神使様にデイン軍を向けたこと……」
「戦の禍根を晴らす為に参ったのではありません」
 ミカヤの言葉を打ち消すように、シグルーンは焦りと苛立ちを吐き出す。ミカヤはゆっくりと頭を振った。
「先刻、サナキ様にも申し上げました通りです。わたしには、ベグニオンの玉座に座る意思はまったくありません」
 それでも、シグルーンの中の炎は収まりはしなかった。ともすれば、その炎は剣となる。サナキを護らんとする強い心は痛いほど感じていた。
「わたしの"本当の祖母の記憶"も"サナキと呼ばれていた"のも、幼児(おさなご)の曖昧な記憶です。曖昧な記憶を証明する術は、持っておりません」
 そこでようやく、シグルーンの感情が揺らいだ気がした。やはり、彼女がそうだったのだと、絶望に近い色に染まりつつある。実際、強い視線で見据えているものの、シグルーンの白皙の肌は青ざめている。
「わたしは、二度とベグニオンの土地には足を踏み入れません。誓ってもいい―――信じられぬならば、どうぞお斬り下さい」
 ミカヤの金の瞳は、揺らぐことなく、じっとシグルーンを見据えていた。







「……まさか、殿下直々にいらっしゃるとは……恐縮の限りでございます」
 初めて会った時から、"そう"だと、喜びに近い感情が湧き立っていた。こんな気持ちになったのは、何年ぶりであろうか。
「何を仰いますか。約束を守り続けていらしゃるのは陛下ではございませんか。ですから、私が参った次第でございます」
 青年は深く頭を下げると、正面で執務室に座っていた女は椅子を蹴った。
 二十も半ばだが、微笑むと子供じみたように見える。童顔なのはこの家系よりの贈り物だと、皆に言われてきた。
「約束をした相手―――六十年前の"親衛隊長"も既に病没しています。それに、祖母があなたの来訪を喜ばないはずはない」
「……ご葬儀に参列しなかったことは謝ります」
「いいえ!それを咎めに来た訳ではありません。無礼な物言い、こちらこそ申し訳ありませんでした」
 律儀に青年は灰色の頭を下げる。それを上げ、まっすぐに女を見据える瞳は、女と同じ金色をしていた。やはり、彼は。
 青年は女の前に木製の箱を差し出した。飾りもなく、金属の簡単な留め金があるだけの、至って簡素なもので、とてもベグニオン帝国皇帝が秘して持っていたとは思えない。
「これは……?」
「本日はこれをお渡しする為に参りました」
 青年の絹の手袋に覆われた手が机に置かれた箱を示す。促されるままに、女は留め金を外した。中には何十枚もの羊皮紙が乱雑に収められていた。丸めてきちんと封蝋までしている物もある。
「私は、おばあちゃんっ子だったんですよ。私の手を優しく撫でながら、たくさんのことを話してくれました」
 突如そう言って青年は、少年のようにはにかんで己の手の甲を撫でる。
 女は息を飲んだ。彼はそれを恥じ入ることもなく生きて来たのだ。彼女を始めとする、周囲の大人が、彼の"印"を厭わずに、彼自身十二分に愛され続けてきた結果なのだ。もう、同胞は隠れて生きる必要はなくなった証拠だと。それを見ただけでも、今まで生きて来た甲斐があったものだ。

「祖母は、身の周りの物―――それこそ、離園の薔薇の葉一枚まで処遇を決めておりましたが、これだけは何も記されておりませんでした。ですので、私が中を拝見し、独断であなた様の許へ」
 箱の底の羊皮紙は、どれもかなりの年月を経たようで、四辺は焼け、インクは褪せていた。
 女はその中の封をされていない一枚を取る。最初は「お元気ですか」、の一言で終わっていたが、枚数を重ねる度に、その文字数は増えていた。書き主の、その時に起こった他愛のないことから結婚の報告まで、様々だったが、政治的な文言はひとつもない。
 あれから、女は彼女には一度も逢っていない。約束通り、ベグニオンの土地へ足を踏み入れなかったのは勿論だが、彼女自身もデインへは公私問わず来訪することはなかった。両国の関係が悪化した訳ではない。むしろ、同盟の関係にある。ベグニオン帝国とデイン王国が友好同盟を結んだのは十年前。彼女はデインを始めとする、各国の同盟への足がかりを作った後に、玉座を降りた。同盟締結の為に、デイン国王に面会したのは彼女の娘、目の前の青年の母親だった。

 封までした完全な手紙も、宛名はデイン国王であった。出さずに彼女はしまい込んでしまったようだ。話したいことならば女自身も数多あった。だが、そうしなかった気持ちはよくわかった。手紙に書き留め、代わりに子や孫に語り継いでいた心も。彼女らしい、と女は金の瞳を細めるながら、羊皮紙の手紙を捲って行った。何十枚もの手紙は、逢わずにいた年月の分、彼女が話しかけているように思えた。
 姉上、姉上、お返しします。
 箱の底には、古びた光の魔道書があった。




11/04/06   Back