箱庭より出立て



「本当に、君たちは救いがないね」
 国が再興されるにあたり、宰相となったユリシーズは手にした書類をとは逆の手で、顎を撫でた。宰相に任命されるにあたり宛がわれた執務室は、王太子筆頭秘書官だった時分のそれとは、比べ物ならないほどの広さを誇っていた。そこまで高い位に就いたという感動よりも「あの狸め、血筋だけでこんな立派な部屋を支給されていたとは」と今は亡き前任者に毒を吐くほうが先立ってしまう。
「何よ、突然」
 樫の机を挟んで真向かいにいるルキノは、憮然とした口調でユリシーズを見やった。クリミア王国宰相は、ちらりと釈然としないままのルキノを見、視線をすぐに書面へと戻す。
「ついデルブレーの屋敷で君たちが再会した時の事を思い出してね。お互いを見て暗い顔で『生き延びてしまった』なんて、姉弟の感動の再会など微塵もない」
「当然じゃない。姫を満足にお守りもできずに怪我だけで済んだなんて……」
 自分の父母はデインの刃に倒れた、という言葉はさすがに飲み込んだ。
 ユリシーズは考え込むような重苦しい表情のルキノに、軽いため息をつく。確かに、この姉弟はエリンシアの乳兄弟となるべく離宮に入った。だが、命を盾にしてまで守る騎士になれとまでは大人たちは求めてはいなかったのだ。
「『姫』、ね……」
「あ、そうだったわ。『女王陛下』。そうよね」
 まったくの見当外れな指摘に、ルキノは律儀に反応する。エリンシアを未だ王女と思っているのは、彼女の弟も同様だった。非公式の場では、無意識に至尊の冠を抱く乳兄弟をつい「姫」と呼んでしまう。それは、主君の存在を昔から知っていた者の特権とも言えようが。
「ま、何にせよ書類はしかと見せてもらったよ。想像通りというか、まあ、上々と言った所だ」
 ひらひらと数枚の書類をルキノに見せ、ユリシーズは口ひげを歪ませた。その一点に集中している、女王の衛士の視線に宰相は気付いて手の動きを止めた。
「救いがないと言えば、あなたも同じじゃなくて」
「はて、何の事やら」
 まったく見当がつかない、といった表情をしていると、ルキノの白い手袋に包まれた指がユリシーズの顎に当てられる。そこで、ようやくルキノの思考を察した。その場所は三年前、つまりデインの襲撃に遭うまで丁寧に剃られていたはずだった。
「こんな忙しい日々だ。手入れする暇もなくてね」
 こんな陳腐な言い訳が、彼女に通用するはずもない事は重々承知していた。二、三年前もあった鼻の下も、覆う場所を伸ばし、髪よりもやや暗い金色が存在を主張している。
 伸ばしているうちに、似てしまったのだと弁解しても、無駄であろう。ユリシーズはにやりと笑っただけで、これ以上は何も言わなかった。その代わりに、豪奢な彫りを施した椅子から立ち上がる。
「時間なのでね。失礼するよ。どうかね?今夜一緒に食事でも」
 返答はなかったが、ユリシーズは気にも留めずに執務室を後にした。




 内務大臣の使者より、御前会議の出席を求められたが、その時もジョフレは感動も緊張も生まれなかった。これから、新しいデルブレー伯爵が生まれるというのに。強いて言うならば、自分も姉同様、他人の手に渡る前に一度見ておいた方がよかったかと一瞬思った程度だった。だが、公衆の面前でデルブレーの土地と伯爵号を還すと言った身である。今さら「名残惜しいからもう一度見せて」 とは、矜持が許さない。
 
 御前会議は女王は当然ながら、国の重職に就く者が揃う会議だった。ジョフレは会議室の前の護衛に剣を渡し、背筋を伸ばして扉が開け放たれるのを待つ。
 名を継ぐ者を事後ではなく、会議の場で知らせてくれるのは温情といったところか。
 胸中で苦笑しながら、会議室の末席に近い席に通された。ちらりと周囲を伺えば、内務官や大臣らがジョフレとその隣をしきりに視線を送りながら何やら囁き合っている。議題の一つの渦中であるジョフレの他に、意外な者がいるのか。ジョフレは隣席に目を向ける。ジョフレの隣、つまり末席には思わぬ人物が苦い顔で座っていた。
「……アイク将軍……」
 驚きをそのまま向けるジョフレに、アイクは目で挨拶しただけだった。いかにも、こんな会議に、しかも座っているだけなぞ不満だと青い瞳は語っていた。彼も一応は将軍職である。しかし、その責に就いて半年も経てば、文官が顔を合わせる場に、自分が発言権などない事を悟っているようだった。
 なぜ、自分だけではなくアイクまでもが。
「女王陛下のご来場です!」
 その声が会議室に響くと、ジョフレの身体に若干の緊張感が走り、抱いていた疑問は押し出された。女王の登場で、纏わりつくような嫌な笑みと囁き声を送っていた文官たちも、さすがに形だけは真面目な面立ちを作る。
「まずは最初の議題に入ります」
 司会と勤める中年の男が、過分なほどの仰々しさで書面を読み上げる。
「初めの議題は先だってジョフレ将軍が陛下にご返還されたデルブレー伯爵家の家督についてであります」
 来たか。
 背筋は真っ直ぐに、ジョフレは辺りを見回す。周囲の貴族たちは、浮き足立ったように各々が持つ書類を手に発言権を待っていた。その様子が、まだ後継が決まった訳ではない事をジョフレに伝えていた。女王が座する位置に目を向ければ、白粉をはたいた顔は、何も読み取れない。
 私欲が足踏みするように議場は騒然としたが、議長席のエリンシアが、不意に口を開いた。
「その件ですが、わたくしも皆様同様、伯爵号を授ける候補を決めております」
 女王の言に、先刻とは違う色合いを持った囁き声が響きあう。いくら腹背の態度であろうとも、王は王。はっきりと意思を示されれば、それを簡単には無下にはできない。それに、彼女の周りに彼女に忠実な家臣が、宰相とあの姉弟以外にいようか。誰もが女王の周辺の名簿録を頭の中で素早くめくっていると、一人の人物にたどり着いた。いた、いたのだ。あの小僧が!
 エリンシアが答えを出すより早く、文官たちの視線が一斉に末席へと注がれる。突然注目を浴びた若き将軍は、眉を潜めるだけだった。
「祖国奪還の最功労者。さらにはベグニオン帝国皇帝サナキ様の後見により、わたくしが王女の身ながら爵位を授けました。家名はまた後日との約束で」
 エリンシアは一枚の羊皮紙を、出席者の視線に入るようつまみ上げた。少ない文字で書かれた文書は、確かに傭兵上がりの少年の名があり、爵位と将軍位をエリンシアが授けるのを見届けた旨が書かれており、その末尾は皇帝の名と朱の刻印で結ばれていた。
 あわ良くば己の息子や兄弟、または忠実な部下を栄誉ある伯爵にと打算していた者たちは、驚愕と失望で顔色を青白くさせていた。女王一人の提案ならば普段どおり数と経験に物を言わせて押し退ける事も不可能ではなかった。しかし、現在の彼らは自国の王より、皇帝の威光に怯みを見せていた。それは、エリンシアを落胆させるのだが、彼らを押し黙らせる一つの手なのだと自分に言い聞かせる。それに、次代のデルブレー伯爵にアイクを推し進められる理由は、他にもあった。
「それから、フェール伯」
 短く名を呼ばれたユリシーズは大げさに立ち上がり、女王に一礼すると、手にしていた書類の束に連なる文字を音声に表し始めた。
「先日より、デルブレー領の調査に赴いた所……」
 ユリシーズの最初の言葉に、出席者たちはあからさまな狼狽を見せ始める。我らを差し置いて「下調べ」とは、卑怯ではないか。そんな声も小さいが宰相の耳に入った。
「何を慌てておられる。デルブレー伯爵家と家領は、ジョフレ将軍が陛下に返還されたもの。つまりは新たな伯爵が決まるまではデルブレーは一時国家の預かりとなる。王命を受けて宰相である私が調査をして何か問題でも?それに、デルブレーはデインとの国境の土地。デインの襲撃を真っ先に受けたのだ。遅延なれど、被害の状況を調べるのも国家の仕事である」
 正論に、文官らは黙るしかなかった。言いたい事を言い放ち終えると、ユリシーズは報告書の音声化を再開する。
「デルブレーに派遣した者の話によれば、デルブレーに現在存在する村は三つ。しかも、すべて隣領の境界線に沿って存在しており、デルブレーの館の周辺は今なお襲撃後のまま」
 村が三つ。それは、辺境ゆえに広大なデルブレーにとってはいささか痛手であった。税収は望めないだろう。
「そのデルブレー城の損傷状況も激しく、屋根の陥没が二箇所、城壁も要修復。床も崩れ落ちて地下室が一部塞がっているとか。館の修復費用だけでも……一、十、百……おっと、先刻まで数えていたのだが……」
 文官たちが息を飲む音が聞こえた。彼らとは反対に、友人の報告に、ジョフレは笑いが浮き上がりそうになるのを堪えていた。確かに、デルブレーの館はデインの攻撃にあったが、ユリシーズの現在の報告ほど損傷は受けてはいなかった。正確には、ジョフレが落ち延びた時までは。いや、デインの襲撃で、要塞でもない館の強度は脆くなった。それに追撃を与えたのは、そのおよそ一年後。潜伏しているジョフレ達を殲滅するためにやって来たデイン軍と、それを救わんとした再興クリミア軍だった。
「ええと、それからですな。戦死された先代デルブレー伯爵ですが、彼はデイン国内のとある鉱山の投資もされておりまして。デインは現在ベグニオン統治の状態でその鉱山も閉鎖中。多額の負債ができたようで。調査中も、使いの者に取立ての催促が来たそうです」
 領土を狙っていた貴族たちの最後の望みであったオルリベス大橋。デインからの通行料を徴収する事で、積み重なる負債も何とかなると希望を抱いていたが、それもベグニオンに先にやられてしまっているという報告にうな垂れてしまった。次々と発せられるデルブレーの劣悪な経済状況に、文官たちは抵抗する気力もなく、呆然とユリシーズを見ているだけだった。

「以上が、デルブレー領の現状です。これでもこの土地を引き継ぐお気持ちのある方は、申し出てくださって結構です。デルブレーの復旧の資金は、国が貸付けます。もちろん、それなりの利息は頂きますが」
 ユリシーズが着席すると同時に、エリンシアは周囲を取り巻く文官らを見回した。かつて国の重職を担っていた大貴族ならともかく、彼らは戦争前までは良くて中流の貴族だった。現在の家と職を守るのが精一杯で、とてもこんな最悪の状況の土地まで手を伸ばす余裕はない。ましてや、国に有利子の借金など、できようはずもなかった。
 内務官の一人が、急に立ち上がり女王に叫ぶ。
「ですが、それならばなぜアイク将軍をデルブレー伯爵に推すのですっ?」
 その疑問に、ほう、と感嘆の息があちこちで起こった。平民、いや薄汚い傭兵の風情が、将軍どころか、伯爵にまでなろうというのか。それに、あの領地の財政を、大した財産もない小僧がどうするのか。女王は、この者に限って無償で補償すると言うのか。それならば、女王と言えども贔屓が過ぎる。文官らはむしろその言が出るのを密やかに舌なめずりして待った。非難の格好の餌食となるだろう。
 ある種の期待の中、女王は平然と口を開こうとしたが、それを阻む形で末席から声がした。
「女王の推薦ならば、おれは受けよう。デルブレーの復旧費用は利子も含め、おれの将軍の報酬から幾らでも引いてくれ」
 淡々と言い張った若き将軍に、女王は強くうなずいた。元より、地位や名誉、金銭にはあまり興味のない少年だった。クリミアに仕える際も、給与は傭兵団が生活を維持できる額があれば、自分には住む場所をくれればいい。と明言したほどだった。
 この場で、三名を除いた者たちが唖然としている中、ジョフレは急に笑い声を上げた。
「これはいい!アイク、君ならは喜んでデルブレーを渡そう。ああそうだ、名乗りたまえ。アイク=デルブレーだ!」
 興奮気味なジョフレに、女王もユリシーズすらも目を見開く。
 ひとしきり笑うと、我に返ったのかジョフレは女王に頭を垂れた。だが、胸に踊る高揚感は消え失せてはいなかった。
 

 こうして、デルブレー伯爵は「暫定」当主から正式に十四代目当主が確定した。だが、確かに新デルブレー伯は、己の報酬の大半を領地の復旧に充てた、その進行は緩やかだが確実に進んだ。しかし、領主がその地を踏んだのは、伯爵号を享けて二年半の後、クリミア女王に役職の全てを返上した後、皇帝サナキを擁した軍隊を率いてデインへ攻め入る時だった……。
 そして、第十五代目デルブレー伯爵の地位は、前の持ち主へとあっさり帰った。以前ほどに、誰もあの土地に興味を持たなくなってしまった事に加え、貴族たちは某公爵の謀反の動きを知り、打ち捨てられたも同然の領地より、国内の風向きを注意深く伺い、己の身の置き場を計算する事に躍起になっていたのが理由だった。
 
 簡単に戻ってきた領地と家名を、ジョフレはあまり感銘を受けずに受け取った。その時、宮廷騎士団長は、友人にこう言ったという。
「この国は、誰も望まない、望まれない地位が望まない者の元に回ってくるものだな」
 他の者が聞けば不敬罪に捕らえられる可能性があるが、その言を聞いたのは彼の旧来の友人のみであり、ましてや、彼が単に隠された王女の乳兄弟であった頃を懐かしんでの言葉などは、誰も察する事はできないだろう。
 月日は流れてしまったのだと、ジョフレは戻らない日々を思う。小さな姫は女王となり、姉も女王の身辺を守る近衛となり、自分は宮廷騎士団長。だが、守るべき存在は変わってはいないのだ。どんな身分であろうとも、ジョフレが生涯仕えるのは、離宮で生まれ共に育ったエリンシアただひとりであり、彼女がいる場所が、自分のいるべき場所なのだ。


終わり


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