白蕪の報復



 数日前から、そんな匂いを感じていた。
 あちらこちらに、この日の夜空を灯す燭台とろうそくが立てられ、橙色と黒の装飾、旬の野菜を加工した飾りが、窓から見下ろす世界に広がっていた。城下町だけではない。執政の中央マナイル神殿にも、旧暦の祝いは例外なく施されていた。
 執務室の窓から、人々がせわしなく収穫した作物を積んだ馬車を走らせ、遠目に臨む市場では、祝いの飾りや衣装、食材を売っている様子を眺める。そんな執務室にも、樫の机の上には、小さな白い灯篭が鎮座していた。今朝侍女が持って来たのだ。
 正の女神が消えようとも、生ける者と季節は巡るのだ。変わることなく。

「今夜が楽しみじゃのう。セ……」
 変わることなく。
 変化など、思いもつかなかった。サナキは誰もいない執務室を虚ろに見渡す。振り返れば、笑顔でうなずいている姿は、もういない。そのせいで、サナキはこの日朝から手持ち無沙汰だった。他の文官は、「この日は」と遠慮していた。その上、高位の司祭も兼ねた家臣は、自らの領地で執り行われる収穫祭の神事に出向かなければならなかった。
 だが、ペルシス公は、宰相として執政を執り行うために与えた爵位であり、地位以外の褒章は辞退していた。領地も、神殿も、屋敷すら持っていなかったのだ。
「お互い暇でしょう」
 この日も変わらずに笑顔で書類の山を持ってきたのは、去年までの話。それを潜り抜けようと知恵を廻らす必要もなくなってしまった。なんと暇な事だろうか。
 
 持て余しながら、刻々と時は刻まれる。宵を待つ友は、卓上の蕪だった。くり貫かれた穴から、赤い蝋燭が覗く。
「一足先に祝ってみるかの」
 自嘲気味に笑みを浮かべ、小さな灯篭の側に寄るも、火打ち石が見当たらなかった。運んできた侍女は、日が暮れて自ら火を灯すつもりであったのだろう。部屋中を探しても、火打ち石は見つからなかった。そもそも、サナキは火を起こした事などなかった。火打ち石では。
「仕方がない」
 自信はないが、やってみる価値はあろう。とサナキは目を閉じる。これも、幼き頃から側に仕えていた宰相から教わったもの。だが、火を大きく、正確に放つ事は教わっても、灯すような小さな火にする事などは教わっていない。護身用だと、彼に長年訴えてようやく手解きをしてもらったのだから。
 応用なのじゃ。
 そう納得して精霊を呼び出す言葉を紡ぐ。小さいが、たぎるような礫が集まっていくのを感じる。
「サナキ様?」
 扉越しの声に、急に目を開いた。目先でぱちんと熱い塊が弾けた。
「サナキ様、おいででしたか」
 心配そうなシグルーンの声が頭の上で聞こえた。憮然とした顔で、サナキは見上げる。シグルーンの瞳は不思議そうに皇帝を見ていたが、不機嫌なサナキと、眼前の焦げた蕪を交互に見やり、状況を理解した。
「室内で魔法なんて、物騒ではありませんか。軍ではこの日は放火の厳戒態勢を敷いている事は、サナキ様もご存知のはずです」
 優しく言い聞かせるようにシグルーンは言うも、当のサナキは鼻を鳴らしただけだった。幼き頃から側にいるのは、シグルーンも同様である。しかし、軍のほとんどを担うようになってしまったシグルーンには、休日などないに等しかった。今日のような祭事の日であろうとも。「皇帝サナキを支える三本の柱」と呼ばれていた者たちがいた。帝国宰相、軍中央司令官、そして聖天馬騎士団長。その二本が失われた今、残るシグルーンにかかる負担は想像以上のものだろう。

「のう、シグルーン」
「はい」
 サナキの視線は、上半分が黒こげとなった蕪を捕らえたままだった。
「セリノスの森にも、今日の祝いはあるのだろうか」
 サナキの視線の先の世界は、蕪の中でなない事をシグルーンは悟った。彼はいない。いや、存在はするが、ベグニオン帝国宰相ではなかった。導きの塔よりの帰還ののち、彼はセリノスの森へ同胞らと去った。サナキに何も告げずに。塔の中へ同行できなかったシグルーンには、事の真相は伺い知れない。サナキによりただ、「あやつは鷺だったのじゃ」と淡々と告げたのみだった。
「サナキ様」
 それから半年近くが経つ。かつては憎しみ合っていた国々が、少しずつ新しい変化を遂げようと歩き出している最中だった。無論、ベグニオン帝国内にありながら、ラグズの聖域だったあの森も。
 しかし、サナキはシグルーンの心を読み取ったかのように、首を横に振る。紫の髪が舞うほどに。それがはらはらと背中に落ちると、またサナキはぽつりと呟いた。
「今年は、わたしも仮装しても良いかの。あやつめ色々と吹き込む割には、神使のする事ではないなどと言って止めていたのじゃ」
 その言葉に、数度まばたきする。今日は国中の子供たちが悪戯な悪魔となる。それを大人たちが回避する術は、一つしかない。
「ええ。もちろんです」
 間をおいて、シグルーンはうなずいた。


 用意させると言ったシグルーンの申し出にサナキは首を横に振った。自身の個人的なワードローブには、すでに幾つかの衣装が釣り下がっていた。
「要は魑魅魍魎の格好をすれば良いのだろう」
 杉の明るい色のワードローブから、元老院の司祭服を取り出し、侍女に慌てて止められた。
「冗談じゃて」
 これも、宰相からの受け売りだった。この万節の前夜は、悪魔や妖怪の類、つまり元老院の格好でも良いのだと。そう耳打ちされ、二人してひっそりと笑った。
 新月の夜を模したような、漆黒のマントを取り出す。侍女の手も借りて包帯を顔に巻いた。
「お見事です。猫を被るのも負けず劣らず」
 頭の上から、そんな声が聞こえるかもしれない。鏡と対面し、分厚い包帯の下で口の端を上げる。誰も、一見では皇帝だと思わないだろう。口惜しいのは、最初に見たかった相手が、この神殿にいない事だった。


 決まり文句を背中にかけると、振り向いた相手の最初の声は例外なく悲鳴だった。その様子に、サナキは喉の奥を鳴らす。陽も高い内に、しかも政治の中枢たるマナイルにて血まみれの包帯姿を目の当たりにすれば、今日の日を理解していても驚きは隠せない。
「さあ、菓子を所望じゃ。さもなければ痛い目を見るぞ」
 血まみれの包帯坊主の正体がわからないままの小間使いは、その不遜な物言いに眉根を寄せる。
「あのな、小僧。ここは神使さまのおわすマナイル神殿だ。よそへ行きな。まったく、どうやって忍び込んだか」
 神使。その呼び名に、サナキの方が眉を寄せる。その呼称は神殿に帰還した際、大々的に廃止しを発表したのだ。しかも、その鷹揚な態度に重ねて閉口する。そんな者に数名出くわした。また、ある者は、
「あら、よく見ると可愛い坊やだこと。夜まで待てなかったのね。ごめんなさいね、まだお菓子の用意ができていないのよ」
 誰もが、サナキを少年と思っていた。このような仮装をしていれば仕方がないとサナキも理解しているのだが。不満はそれでも生まれてくる。彼は伝えていなかった(必要のないものだと考えていたため)。獣の耳や尻尾をつけた仮装もあり、少女たちはそちらの方を好むという事を。
 
 マナイルの小間使い達の間で、瞬く間に「子供の妖怪が闊歩している」との噂が立つ。しかし、その頃には、サナキは天馬騎士団の営舎に足を運んでいた。
 運良くシグルーンはこの場にいなかった。その功績により、営舎、訓練場から甲高い悲鳴が所々で上がる。その小気味よさにほくそ笑むが、状況を収束しようと副団長が乗り出してきた時が潮時だった。

 神殿内の廊下を息を切らせながら、それでも楽しそうにサナキは走る。途中で出会った大人に、文句と右手を差し出すのも忘れずに。
 この場に宰相がいたらどんな反応を見せてくれるだろうか。彼なら、きっとひと目でサナキだとわかってくれるに違いない。そして、苦笑いしながら厨房からくすねてきた小さな飴を手のひらに乗せてくれるだろう。
「マナイルでこんな事をするのは、サナキ様以外にいませんよ」
 などと言いながら。

「しかし、皆狭量じゃの」
 愉快ではあったが、神殿の人間を驚かすのはあくまでも副産物であり、サナキの手には砂糖菓子の一つも収穫はなかった。
「それは残念でございました」
 サナキ付の侍女が、神妙な面持ちで包帯を剥がしていく。口止めされ、部屋にて待機していたが、後で出会った同僚から「万節の前夜祭を待てなかった子供が侵入している」と告げられていた。
「しかし、まあ良い。楽しみはこれからじゃとて」
「はい」
 包帯から解放されたサナキはにんまりと笑う。侍女は、今夜の前夜祭を指しているのだと思い込んでいた。

 太陽が西の地に沈むも、松明や灯篭の明かりで、月もいらない夜となった。
 城下町から小さな村まで、この日は収穫の喜びと聖者への祈りで満ち溢れる。子供達は、この日はこぞって仮装し、家々を回って彼らの収穫に勤しんでいた。
 しかし、帝国の中央機関マナイル神殿は、夕刻近くから悲鳴が上がる。昼間とままた違った理由で。

「報告します。槍二百本、すべて握りの部分に妙な粘着物が。これでは使えません。除去するのに時間がかかっています」
「報告します。厩舎にいた天馬すべての鐙(あぶみ)に切れ込みが。予備がありますが、気付かなければ危険な所でした。取り替えるのに、明日まではかかるかと」
 次々と舞い込んでくる被害報告に、タニスは頭を抱えていた。何者かが侵入し、このような被害をもたらしたのはわかっている。だが、営舎での異変は、仮装した子供が侵入していたという事だけだった。子供の仕業にしては手馴れている。
「各小隊、逐次修復と原因を究明せよ。見回りも怠るな!」
 固い声で、部下へと命を下す。タニスも今夜は徹夜を覚悟していた。
 部屋の扉の影で、若い天馬騎士二人が口に手を当てる。一人は一枚の紙切れを持っていた。
「ねえ、これ副長に報告するの? 」
 もう一人の少女は首をかしげた。細かい事でも報告せよ、との命を受けてはいるが、聖天馬騎士団副隊長宛の「鬼の副隊長へ」という手紙は、差し出す勇気はなかった。

 一方、本殿でも「インク壷の底に穴が空いていた」「羊皮紙の在庫が全て隠された」「竈が湿っている」など方々で嘆きの声が上がった。これでは仕事ができないと。
 その様子を眺めながら、サナキは満足そうに口の端を上げる。
「そうじゃろう。そうじゃろう」
 事情を知らぬ者からの報告には、硬い面持ちでうなずくが、一人になった途端に浮ついた気持ちが現れる。
「サナキ様」
 だが、そんな気持ちを押しつぶすかのように、執務室へやってきたシグルーンの声は重たかった。
「いくらなんでもやり過ぎではありませんか」
 シグルーンの咎めは、おそらく天馬騎士団へのものだろう。しかし、サナキは平然と返答した。
「お菓子をくれなかったのじゃ。いたずらされも仕方なかろう」
「一歩間違えば、怪我をした者も出たかもしれません。いたずらも過ぎれば立派な傷害です」
 シグルーンの珍しく怒った顔があった。だが、サナキは反省の素振りはまったく見せない。それどころか、満足気に笑っていた。
「各々神殿の者の仕事ができなくなったしまった訳じゃ。これは仕方がなかろう。皆休むがよい。今日は万節の前夜、収穫の祝い―――」
 微塵も悪びれずにころころと笑うサナキに、シグルーンは盛大なため息をついた。そして、左の頬をぎゅうっとつねる。言葉が心に響かなかった時の、最後の手段。宰相も同じくこれを手段としていた。
「あでで、シグルーン、ひたいぞ!ひはい!」
 言葉にならない声を上げるが、シグルーンの指は緩む事はなかった。痛みで涙が浮かぶ目に、白かった蕪が映った。上半分が焦げているが、形は留めている。侍女の手にて火が灯され、かろうじて灯篭の役目を果たしていた。だが、魔法によってゆがんでしまった目が、恨めしそうにサナキを睨んでいるにも思えた。

 明日も仕事にならんじゃろう、行ってみるか。
 サナキの脳裏は、反省や今夜の前夜祭よりも、明日の緑の森が映っていた。

 

 


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