手紙




 皆元気でいますでしょうか。
 村に比べてメリオルは何て暖かいのだろう、と毎年感じています。
 次の春に、私が今お仕えしている騎士さまがご退官されます。その為の手続きや準備をしなければならないので、村へ帰るのはまた先延ばしになりました。ごめんなさい。田舎から出て来たばかりで、何もわからなかった私に本当に良くしてくれた、騎士としての師であり恩人でもあるお方です。
 その代わりに、春の退職式の後、数日の休暇がもらえるかもしれません。春も大分過ぎた頃になりますが、その時に帰ろうと思います。
 
 私が村を発ってからもう三年目に入ろうとしています。ボーレもずいぶん背が伸びたんじゃないかな。この前大きな木を一人で切り倒せたと聞いて驚きました。これでお父さんも楽ができるのではないでしょうか。
 まだまだ寒い日が続くでしょうから、体には充分気を付けて下さい。

 お父さん、お母さん、ボーレへ
                        オスカーより
 


 オスカーお兄ちゃん、お元気ですか。ボーレです。はじめて手紙を書きます。字が汚いけど、ごめんなさい。お母さんに赤ちゃんができました。おれもお兄ちゃんになるのでとてもうれしいです。お母さんは女の子がいいと言っていますが、おれはぜったいに男の子がいいです。春ぐらいに産まれるそうなので、楽しみです。

 でも、最近お母さんがやさしくありません。お父さんは「赤ちゃんがおなかにいるとおこりっぽくなる」と言っていました。前のやさしいお母さんにもどってほしいので、早く赤ちゃん産まれないかなあ。
 あ、お兄ちゃんが帰ってくると村長さんに言ったらとてもよろこんでいました。神父さまもよろこんでいました。帰ってきたらいっぱい話をしてね。

 オスカーお兄さんへ
                        ボーレより




 オスカーは弟の拙い文字と文面に思わず笑みを漏らした。村を発った時の幼い姿しか兄の中にはない。その幼い弟が、今では家の生活を僅かながらも助け、文字を書けるまでになった。背も思ったよりもずっと高くなっているだろう。

 しかし、喜びの隙間に見える「母親が最近やさしくない」という文面が気になった。母親、といっても彼女は二人を産んだわけではない。更に言えば、ボーレとオスカーの母親も違う。オスカーにとっての「三番目の」母親は、自分をメリオルへ駆り立てた遠因だった。ある日突然街から父が連れて来た、姉に近い年頃のこの女性とは、ほんの数週間ほどしか一緒に暮らした事しかない。
 美く、優しい女性だった。だが、この女性が「母親」として共に暮らす事は、は彼にとって違和感でしかなかった。オスカーが十二という多感な年頃のせいもあっただろうが。
 
 心の隅に残る不安を解消する為に、弟に詳しく聞かなければと思った。だが、ボーレは「本当は母親は優しい」とも綴っている。家族であるけれども、血の繋がりのない絆だ。何か含みを覚えてしまったのかもしれない。それとも、杞憂かもしれない―――オスカーは筆を置いた。この時ばかりは父親が文盲なのが悔やまれた。


 



 オスカー兄さん、お元気ですか?お腹の赤ちゃんはだいぶ大きくなりました。今ではお母さんのお腹であばれています。こんなにあばれんぼうだから、ぜったいに男の子です。
 おれはお父さんとはりきって山でシカやイノシシ、ウサギ、それにまきをとっています。近所のおばさんが赤ちゃんのしん台をくれました。(おれや兄さんのはほかの人にあげちゃったみたいです)赤ちゃんが産まれて、兄さんが帰って来るなんてとてもうれしいです。早くその日がこないかなあ。
 
 それとこの前、村長さんの家へ行った時、おれがとったシカを持っていったら、村長さんにとてもほめられました。おれも兄さんみたいにクリミアき士になりたかったけど、動物をとるのが楽しいのと、お父さんがおれにあとをつがせたい、と言っているのでりょうしか、きこりになることにしました。弟が産まれたら、いっしょに山に行きたいです。

 オスカーお兄さんへ
                       ボーレより 





 もうすっかり暖かくなりましたね。みんな元気で暮らしていますか。特にお母さんは大事を取って下さい。帰る頃には新しい家族がいる事になるのかな。会える日が待ち遠しいです。
 
 先日、お世話になった騎士さまの退職式が騎士さまのご領地で行われました。この日ばかりは私にもご馳走がふるまわれましたが、騎士さまへもうお仕えできなくなる寂しさで喉を通りませんでした。騎士さまは私に「騎士としての振舞いや誇りは守りたいものがあればこそ産まれるものだ」とおっしゃってくれました。このお言葉を胸に一日でも早く正式な騎士になれるよう、頑張っていきます。

 退職式で驚く事がありました。国王陛下の弟君レニング殿下がみえたのです。レニング殿下は、クリミア王立騎士団団長でもあらせられます。いつも式典や凱旋の先頭に立たれ、遠巻きでしかお姿を拝見した事がなかったのですが、この度間近で拝見して思わず震えてしましました。
 今日、休暇願いが受理されました。来月頭にメリオルを発ち三日後には村へ着くでしょう。それでは、会える日まで。

 お父さん、お母さん、ボーレへ
                     オスカーより




 オスカーは何度目かの溜め息をついた。手紙には帰る、と言ったが、本心では帰省すると考えると気が重かった。
 弟には会いたい。これから産まれる弟または妹にも。何かと彼の家族の世話を焼いてくれた教会の神父にも直接礼を言いたかった。だが、父と母には?あの家庭に、今自分の居場所は残っているのだろうか。今でも覚えている。母親として、家族として優しく接しようと無理をする彼女の笑顔が。そんな年若い妻の顔色を常に伺うような父の痩せこけた顔が。

 それでも弟は自分の帰りを待っているのだ。そう自分を言い聞かせながらオスカーが旅の支度を整えていると、自室の扉を叩く音が聞こえた。扉を開けると、この春従卒になったばかりの少年が、オスカーに一通の書簡を手渡した。封筒に綴られている彼の名は、見覚えのある者の手によるものだった。








 長い帰省への道のりで、オスカーが考えたのは母親と弟の今後だった。春から、彼は正式に王宮付きの騎士に叙勲される。今はあまり貯えはないが、数ヶ月もすれば、都で家族四人、慎ましくだが不自由なく暮らせるのだ。

 さらに「母」は若い。都でなら最悪、子を産んだ後オスカー達から離れても暮らせるであろう。子は連れて行っても構わないし、もし残したとしても産んだ子の世話は乳母を雇う事だってできる。母はともかくボーレは村に残りたいと言うかもしれない。もし家族がその選択をしたとしても、彼は生活を支えるつもりだった。
 
 オスカーは、これから起こる未来に対して、考えうる限りの対策を練った。これで万全のはずだ。父親が病で死んだ後の、家族の道筋は。

 馬の足をゆっくりと繰り出しながら、長く険しい山道を進む。父と街へよく出かけていた頃よく通った道だった。村へ近付く度に、小さかった頃の満たされていた頃の記憶が蘇る。だが、それはひどく客観的で、自分のそれではないような気がした。空を仰ぐと、わずかな暖かさを含んだ風が頬を撫でた。春はもうそこまで来ている。

 村を出た時も丁度このくらいの季節だった。畑も耕さず、種まきもせず、家畜の出産も手伝わずに。少しだけ引っ掛かったが、引っ張られるような思念を振り切るように村を去った。

 村へ着いたのは、陽が少し傾いた頃だった。緩やかな丘が幾つも並び、重なっている。何も変わってはいなかった。

「あんた……」
 村の入り口に差しかかり、馬を降りると、傍を通った男に声をかけられた。牛小屋のヤコブおじさん。オスカーたち村の子どもは皆そう呼んでいた。自分の牛の他に、村長の家畜の管理も任され、オスカーも飼い葉取りや乳搾り、子牛の出産などを手伝っていた。
「オスカーかい?ああ、よく帰って来たなあ」
 記憶よりも随分と小さく、老いて見える中年の男は、再会した感動よりも、ばつの悪そうな表情でオスカーを見た。
 オスカー達兄弟は村の大人達から哀れみの視線を受けるようになったのは、何も父が年若い三番目の妻を迎えたのが始まりではない。オスカーの母が病死した後に「身重の未亡人」と一緒になり、後に生まれたボーレがなぜか父親に酷似し始めた時から、村人から含んだ目を向けられてきたのだ。それを慣れたと言えないが、年月がそうさせたのか、オスカーは落ち着いて穏やかに返事を返す事ができた。

「お久しぶりです。ヤコブおじさん」
「ああ、大きくなって。メリオルではよくやってるって神父さまから聞いておるよ。今着いたのかい?」
「ええ、まあ」
「親父さんがこんな事になっちまったからなあ……ボーレもまだちびだ。そばにもついてやらにゃあな」
 そう言うと、ヤコブはオスカーに手を挙げて別れを告げた。最後まで何かを含んだ表情だった。オスカーはそれに苦笑しながらも家路を目指す。行く先々で、見知った顔とすれ違うが、その際にさらりと「ただいま」と言うだけだった。

 見慣れた風景。そこに見慣れた家があった。村でも一際小高い丘の上に、森に一番近い場所にそこはあった。窓は開いてはいるが、薄汚れたカーテンが光を遮っていた。オスカーを産んだ母親が臥せっていた時と同じ光景が目の前にあり、そこでようやく家の中で起きた事に実感が生まれ、胸の中がざわめき立ち始めた。
「オスカー……!」
 入り口の近くで中年の女に呼び止められた。隣の家の、オスカー達によく世話を焼いてくれた夫人だった。手にはスープが入った鍋を持っている。オスカーはそれを訝しんだ。まさか。これを家に?
「おばさん。ご無沙汰しております」
 儀礼的に微笑んだが、中年女は悲痛さを露わにオスカーに詰め寄った。無言で鍋を渡す。
「これは?」
「いいから、家へ入りなさい」
 半ば強引に家の扉の向こうへ押し込まれてしまった。その向こうは、薄暗く、そして埃っぽかった。窓から漏れるわずかな光と、開け放たれた扉からの光が、家の中を照らす。オスカーは立ちすくんだ。目の前にある光景と記憶が、オスカーの母親が死んだ頃と完全に重なった。
 
 かろうじて使用しているとわかる机に鍋を置くと、オスカーは家人を探した。それ程広くはない家である。外でオスカーの声は聞こえているはずであった。母は何をやっているのか。子どもは産まれたのか。父の容態はどうか。ボーレは?
「ただいま」
 奥へと向けられたオスカーの声がよく通った。だが、その振動で家の埃が少しだ揺れただけだった。奥の寝室へ進む。その度にギシギシ、と床が鳴いた。
「お母さん、ボーレ」
 家人の名を呼びながら、少しだけ扉が開いている夫婦の部屋を覗く。オスカーは反射的に身を引いた。その空気が陰鬱に淀み、そこが死者の世界への入り口かと思うほどだ。気を取り直して、今度は部屋へと体を入り込ませる。瀕死の病人がいるというのに、掃除してあるとは言い難い部屋に愕然とした。

 二つ並んでいるベッドの片方に横たわる父と、そこへもたれ掛かるようにして眠っている弟の姿が薄い陽に映し出される。オスカーはそっと歩くとボーレの肩を揺すった。
「……ん……あ!兄ちゃん……!」
 思いがけない人物が目に入った驚きで、ボーレは裏返った声を上げた。オスカーは口に人さし指を当てると、部屋の外へ出るよう弟の背中を促した。
 弟は記憶の中から随分と背が高くなっていた。顔つきもより父親の影を強くしている。だが、少し痩せて見えるのは気のせいだろうか。
「兄ちゃんお帰りなさい」
 ボーレは兄の胸に顔を埋めるように抱きついた。撫でた頭は、汚かった。
「ボーレ、お母さんは?」
 その問いに、ボーレはハッとしたように顔を上げた。よく見ると、顔も薄汚れていた。眉間に皺が寄ったかと思うと、ボーレは泣き出した。それでも父を気遣ってか、声を殺してすすり上げていた。何があったのかすぐに予想がついた。オスカーはその体を黙って抱き締める事しかできなかった。

 泣き疲れただろうが、オスカーはボーレの手を引いて近くの川で体を洗わせた。ついでに家に溜まっていた汚れ物も洗う。痩せたという感想は正解のようで、育ち盛りのボーレの体は骨が浮き出て見え、ほとんど栄養を摂れていない事を証明している。
 食べているのか、とも訊けず、ボーレもオスカーのいない間の家の様子も語ろうとせず、兄弟は無言でそれぞれ水を相手にしていた。
 思い切って口を開いたのは、兄の方からだった。先刻、隣の夫人に貰ったスープを食べさせている時に、そっと伺うように口に出した。ボーレは口を結び、下を向いてしまったが、涙をスープ皿に落としながら答えた。
「父ちゃんが、たおれて、それから……赤ちゃんがうまれて……」
 帰省する直前に届いた手紙は父が病に倒れた、という内容だった。恐らくそれがメリオルを旅している間に起こったのだろう。
「しばらくして、母ちゃんが動けるようになったら、急に母ちゃん、冷たくなった……この前、赤ちゃんをとなりのおばさんに預けて、街へ出かけたまま帰って来なくなった……」
 少女と呼んでもおかしくはない年頃の母親。弟のような年の息子を二人も急に出来たのを、笑顔の影では不服であるのだと、オスカーは気付いていた。だから、まだ未来のある母には自由な道を選んで欲しいと願い出るつもりではあったのだ。いくらなんでも、幼子と生まれたばかりの自らの子を置いて、出て行くなど……

 かすかに怒りも沸いて来たのだが、食事もそこそこに泣き続ける弟を寝かし付ける事を優先させた。その足でそっと父が眠っている部屋へ行く。もう外もすっかり暗くなり、わずかな月明かりで父の顔を見た。体は萎んだように小さく、まるで縮小したように小さくベッドの中に収まっている。頬も、目も落ち窪んでいる。髪もまばらに生えている髭も白いものが混ざっていた。父親とはこんなにも小さな存在だったのだろうか。オスカーはぼんやりと月明かりに反射する白い無精髭を眺めていた。
 この家庭に母親がいない時期は、父親は決まって「お前には母親が必要なんだ」と息子にこの言葉を浴びせていた。
 確かに「母」がいた頃の父親は、強く、頼もしかった。だが、二度も母が死んでからは無口で、ひどく寂しげな背中を息子達にさらけ出していた様な気がする。それを本人も自覚していたのだろう。だから、すぐさま「母親」いや、「妻」を求めていたのだ。

 わずかな呼吸をしている父の前で、オスカーはじっと佇んでいた。もう父はこのまま冥府へ旅立つだけだ。それ以外の感情は全く沸き起こらない。諦めのせいなのか、どれほど父の顔を見ても、何も感じなかった。
 父親の堅く閉じた瞼が揺れた。起きてしまうのではないかと、オスカーは思い、なぜだか目を反らした。その先に小さなテーブルが視界に入った。今はもう使用されてはいないであろうそれは、暗がりでもひどく朽ちているのがわかる。その上には小さな瓶と、木の皮が転がっていた。ゆっくりとそこに近付く。小瓶は三番目の母親が使っていたらしき化粧品だった。木の皮は、羊皮紙と紙なぞ手に入りにくいこの村の中で、代わりに使用していた物だった。弟が今までオスカーに宛てていた手紙は、村からクリミア騎士が出たと言う栄誉に、村長や神父が協賛した形で与えたのだろう。

 一見、規則性のない波線の集まりに見えるそれは、月の光に照らされた途端、この部屋に入ってから一変もしかなったオスカーの表情を蒼白にさせた。
「お父さん」
 なぜ、そう呟いたのか自分でもわからなかった。その先の言葉も見つからないのに。震える身体を抑えるようにしてオスカーは弟の部屋へ急いだ。いつも自分に手紙を出している弟の部屋になら、ペンとインクがあるはずだった。

 



 春の明るい空は、新しい世界を創らせる。だが、今朝はこの山奥の一帯だけは、新しい命の息吹を押しとどめていた。
 朗らかな春の陽が満ちているはずの空に、教会の鐘が重々しく響く。村はずれの共同墓地に冷たくなった体は埋められた。神父の祈りの言葉を聞いてはいるが、神父の口から発せられた途端に蒸発しているように、胸までには残らない。父の陰口を叩いていた村の面々も、さすがに今だけは悲痛な顔をしてはいるが、それも残された息子達を思っての事だろう。この別れに対して悲しみの涙を流しているのはボーレだけだった。
 
 オスカーの腕の中には小さな弟がいた。隣の夫人は「落ち着くまで預かってもいい」とは言ってくれたが、早く「家族」でありたかった。赤みがかった頬を春の柔らかい風に撫でられて、末の弟はよく眠っている。

「では、女神の元へ旅立つ子へ最後の別れを」
 三年前より髭が白くなった神父の言葉に、村人達は次々と眠る身体に花を添えていった。啜り泣くボーレも花束を父の胸元へ置く。それが済むと、オスカーは末の弟をそっとボーレに預けた。
 
 父は、女神の元へ行けるのだろうか。先にいる母親達に何と言うのだろうか。
 そう考えながら、オスカーは春の花々に囲まれている父に近付いた。明るい陽の元で見ても、父の身体は小さかった。胸の前で組まれている手に、挟むように木の皮を差し込むと、幾人かの鼻を啜る音が聞こえた。
 
 お休みなさい、お父さん。ボーレとヨファにはぼくがついているから。
 再び父の顔を見ると「そうか」と返事が聞こえた気がした。  

08/05/20 初出 2015/01/09 加筆修正 Back