空は晴れ渡っているが、その青はくすみ始めているようで、吹く風も鎧の隙間から身体を冷えさせる。
「何も万節の時期にやんなくてもなあ」
 行軍の中、兵士のぼやく声が聞こえた。
 そう言えば、この国へやって来たのもこの季節だった。
 ゼルギウスは祖国からこの大国への道のりを思い出す。大陸北東部の、寒冷な気候のデインで生まれ育った身としては、ベグニオンの冬の到来は緩やかなものだと感じていた。だが、そこへ三年も住めば身体はすっかりベグニオンに順応し、万節の風にも身体を震わせるまでとなってしまった。今デインへ行けばどうやる事かと苦笑せずにはいられない。

 ベグニオン北西部に領地を持つアカトフ子爵家の軍は、帝都シエネへと向かっていた。街道を規律よく踏む歩兵隊にゼルギウスは同僚らと足並みを揃えていた。背後にはらがいるが、槍の柄には婦人の帽子飾りのような房、磨き上げられた宝石のような鎧の継ぎ目からは真新しい鎖帷子が見えている。彼らの乗る馬のたてがみも念入りに櫛を入れ、家紋が染め上げられた布を誰もが風にたなびかせていた。それだけでは飽き足らないのか旗まで用意している。
 反対に、ゼルギウスら歩兵は鉄の鎧兜の下は簡素な綿の鎧下を来ているだけで、防寒用にめいめい外套を用意する有様だった。所詮は馬の上の方々の引き立て役なのだと、兵士らは皆肩をすくめていた。
ゼルギウスは腰の剣の柄を握る。
 貴族の護衛兵の身分だが、再び中央へ行ける機会が巡って来たのだ。いち早く中央軍へと参入する事―――ゼルギウスの当面の目標はそこにあった。
 そして、軍内にて力を付け、忠誠を誓ったあの方のお力になる事。
 その為に、デイン出身の若い兵士は、祖国を捨て大国ベグニオンへとやって来たのだ。

 ゼルギウスがいる子爵領からシエネまで、歩兵と騎兵の混合部隊では、三日とかからない。だが、中央軍との合同演習にもかかわらず、必要以上の重装備の貴族らがいるせいで一日二日と延びている現状だった。その遅延の原因すら、歩兵ののろさだと馬上から罵られる。
 定期的に行われる合同演習は、表面上は地方領の私軍の軍事力向上であるが、事実上は地方貴族と中枢にいる元老院議員や大貴族との縁を繋ぐ交流会のようなものだった。子爵家に仕える下級貴族らは、旗下の兵の強化よりも家名を覚えてもらう事に躍起になっている。実際の演習での成果はいわずもがな。
 貴族たちのそう言った目論見の影で、ゼルギウスも中央軍の幹部の目に止まる機だと心を高鳴らせていた。主セフェランの現在の権力ならば、地方領のいち兵士の人事などどうとでもなる。だが、それをしないのはゼルギウスの実力を試しているのだ。ここで地方領の兵士で終わるようでは彼の片腕など務まらないのだと。それに、今回は主直々に手紙が送られてきた。シエネに上った際は、一度顔を見せるようにと。簡潔にそう書かれいるだけだったが、ゼルギウスは歓喜に沸き立つ。だから余計に、進軍ののろさは彼にとって歯がゆい以外の何物でもなかった。



 軍事訓練であるにもかかわらず、シエネの訓練場へ着いても変わらずの、いや他の領地の貴族らも加わり、緊張感など欠片も生まれる気配はなかった。その様をゼルギウスは何度も見て来たが、その度に失望せずにはいられない。貴族ではない兵らも、この演習の実態を知っているゆえに、諦めの風体を隠さない者が多かった。
 中央軍の司令官や将軍らも、貴族たちの顔色を伺うような姿勢で、歯がゆさを感じずにはいられない。 
 形式だけの訓練を終えた後、兵士らには帝都での休息が与えられた。貴族や地位のある者たちは、元老院議員の一人イマイロスの屋敷にて催される晩餐会へいそいそと足を運んでいた。
 農地と森林ばかりが広がる子爵領とは違い、テリウス大陸で一番人と物が集まる都シエネ。横柄な貴族らの世話も、シエネでのひと時があるからこそ、平民の兵士らの多くは耐え忍ぶ事ができ、志願者も絶えない。

 装備を投げ出し、挙って酒や家族への土産を求める同僚らとは反対の方角へ、ゼルギウスは足を向けていた。
 彼もシエネへは数えるほどしか足を踏み入れた事はないが、ベグニオンの政治の中枢部、マナイル神殿へはそれが一度もない。帝国の頂点に座する神使が政務を摂り仕切る場であるゆえに、門戸を開かれるのは限られた者だという事は知っていた。だが、毎度ながらゼルギウスの言い分も聞く耳を持たず、野良犬を追い払うように門兵に槍の柄を振られるのは閉口してしまう。


「秘書官どのにゼルギウスという名を告げてもらえば、必ず会って頂けるはずだ」
「くどいぞ。そんなに言うなら紹介状を見せるか子爵を連れて来るのだな」
 セフェランからの手紙を見せたが、彼の署名や印もなく、門兵はそれが元老院議長の秘書の物だと信じてはくれなかった。下級兵士らにも階級や身分のような気概があり、地方貴族の私兵など、中央軍の兵士に比べれば格下なのだと、傲慢な態度で立ちふさがる。
 幾度かの押し問答の最中、背後から車輪の音が聞こえた。対峙していた兵士らも、その音に弾かれたように背を伸ばす。

「議員さまがお通りになる、不敬で処刑される前にさっさと立ち去れ!」
 手中の槍で本当に突かんとばかりの構えを見せた。ベグニオンの貴族たちが、傲慢さならばこの兵らより勝る事をゼルギウスは知っている。下手な騒ぎを起こしてもつまらん、とゼルギウスは諦めてその場を離れた。
 ゼルギウスが門から離れると、兵士らは大急ぎで神殿へと続く大きな門を引いた。四頭立ての馬車の周辺に、馬車を護るようにして騎馬兵が走っている。その中の一騎が離れた場所で馬車を眺めていたにもかかわらず、馬首をゼルギウスへ向けて駆けて来た。全身兜の下から、気迫が満ちている。

「私はアカトフ子爵家の兵である。この通り剣も持っていないし、危険な考えなどない。看過願いたい」
 ゼルギウスは咄嗟に声を張り上げた。背中に冷たい汗が流れる。
 剣を抜きはしないが、それでも目の前の兵には隙がなく、剣の腕も立つ事はわかる。中央の兵というだけで、地方兵とはここまで違うのかと、強い緊張が走った。
「どうした?」
 ふいに騎馬兵の後ろ―――背後の元老院議員の馬車から―――皺枯れた声がした。
「はっ、門の近くに不審者を改めておりました」
 議員は馬車の窓から、騎馬兵越しにゼルギウスを眺めやった。窓から出た小さな顔は、声から想像に易い老人だった。視力もかなり衰えているらしく、薄い瞼を細めている。
「議長様、この男はアカトフ子爵家の兵士だと言っております。何でも議長様の秘書官どのにお目にかかりたいとか」
 門兵の声はゼルギウスにかけたものとは段違いに恭しさがこもっていた。議長、と呼ばれた老人はほう、と眉を上げた。傍に立っている別の騎馬兵に何かを囁く。
 ―――議長。ならばセフェラン様がお仕えする方ではないか。
 ゼルギウスの胸に期待が膨らむ。そして、囁かれた騎馬兵の言葉で期待は躍進した。
「議長様より、マナイル神殿に入る事を許された。感謝するのだな」
 兵の声はあくまで横柄なものではあったが、希望が叶いそんな事は気にならなかった。ゼルギウスは深く頭を下げる。
 車輪の音が遠くから響くようになると、ゼルギウスは頭を上げた。去っていく馬車の窓は開け放たれ、そこからは老人ではなく、十歳ほどの少女の顔があった。議長の孫であろうか。薄い緑の髪を二つに結い、白磁の頬は薔薇色が差し、まるで精巧な人形のようだった。髪よりも濃い緑の瞳がゼルギウスの視線と交わると、愛らしい顔を微笑ませた。

 神殿の入り口では、下級神官が形だけの礼で迎え入れ、応接室の控えの間へ彼を案内した。神殿の内装と調度品の華美に目を見張る。
 デインにいた頃、騎士叙勲を受けた時に一度だけデイン王宮へ上がった事はあった。だが、デインの城はこの応接間よりも質素だったと思い返してしまう。大体、応接室にいちいち控えの間など、回りくどすぎやしないかと、質実剛健に生まれ育った男は苦笑いを浮かべる。
 控えめなノックの音がして、ゼルギウスは反射的に立ち上がった。下級神官は彼を案内して早々に立ち去っていた。本来なら、セフェランが来るまで彼か使用人が付いているのが客人に対する常なのだが、いくら議長が特別に許したとは言え、怪しげな男に対する礼儀は最低限のものでしかなかった―――よって、扉はゼルギウス自ら開けなければならなかった。
 扉からは、ゼルギウスが脳裏に描いていた人物よりもかなり背の低い者が見上げていた。
「あなたは……」
 つい先刻会った―――会ったとも言い難い―――少女だ。
 少女は唖然とするゼルギウスをよそに、部屋へと入ろうとしていた。
「ちょっと、お待ちください」
 慌てて阻止しようとするが、ゼルギウスの長身と扉の隙間を縫って強引に扉の内側に隠れる。
「お嬢……」
「しっ」
 少女はすでに控えの間の椅子の影に身を屈め、口元に人差し指を当てた。可憐な少女の仕草だが、何か強い圧力を感じ、ゼルギウスは押し黙ってしまう。大貴族(元老銀議長と同じ馬車に乗っていたからにはそうに違いないと彼は考えている)所以か。
 しかし、ここは子供の遊び場ではない。ゼルギウスは少女に退室願おうと振り返った。
「お嬢様、お嬢様、どちらにいらっしゃいますか?」
 扉の向こうから、血相を変えた女の声が漏れた。廊下と隔たれた扉と、少女を交互に見遣る。
「お付きの方がお探していらっしゃいます。さあ、お行きください」
 ゼルギウスは取っ手に手をかける。しかし、少女は白い顔を曇らせて首を振ってそれを止めた。
「大人を困らせるものではありません」
 たしなめるようにゼルギウスは言う。そもそも、このマナイル神殿は政治の場である。年端もいかぬ少女が遊びに来るような場所ではないのだ。連れて来たあの議長は一体何をしているのか。

「お願い。ここにいさせて欲しいの」
「しかし、私もここにて人を待っているのです」
「待っている人って、セフェラン様でしょう?おじい様の秘書の」
 ああ、やはり議長の孫娘であったか。
 そうなると、相当高い身分の令嬢である。予想は付いていたが、無碍に扱うのも気が引ける。自分はともかく、主の立場を考えての事だ。
 ゼルギウスが悩んでいる間にも、数名の侍女や神官がこの少女を探し求めている風に廊下行き来していた。扉を開けて令嬢を差し出す事も考えたが、議長の孫娘はゼルギウスの服の端を掴んで離そうとはしない。
 少女の願いも届かず、幾人もの足音は、やがてゼルギウスたちのいる部屋の前で止まる。ゼルギウスは味方ではないと観念したのか、少女は控えの間の唯一の窓へと走り出した。
 何をするのか、と唖然と眺めていると、扉がノックされると同時に窓を開け放つ。ここは三階だった。
「何を―――お止めなさい……!」
 思わず声を上げて窓へ駆け寄ろうとするも、少女はおよそ貴族の令嬢らしからぬ―――向こう脛まである長い裾の服を纏い、靴も走る事とは無縁そうな美しい塗の木製を履いていた―――身のこなしで窓枠へ身を乗り上げた。
 窓枠に腰かけた状態で、少女は首だけをゼルギウスへ向けた。その笑顔は花が開いたようだったが、彼女の口から出た言葉と、その後の行動で可憐なかんばせを心に留める余裕などなかった。
「おじい様が仰っていたけど、セフェラン様ならおじい様の代理で視察へ出ているそうよ。帰りは三日後になるんですって」
 言い終えると、少女はそのまま窓から腰を浮かせる。あっと声を上げたと同時に翼がはためく音が聞こえた。駆け寄ると、少女は宙に浮いていた―――正確には、宙に浮けるものに跨っていたのだ。ゼルギウスは眉間を寄せる。天馬は、ことベグニオンへやって来てからは何度が目にして来た。ベグニオンには天馬に乗った騎士団もある事も知っている。だが、その天馬を十ほどの少女が操っているさまは目を見張らずにはいられない。
「ごめんなさいね。この子は―――他の天馬もだけど、男の方は乗せないの」
 心底申し訳なさそうな少女を前に、ゼルギウスは首をかしげる。彼は「脱出」しなければならない立場でもない。
「―――失礼します」
 ノックに無反応な事に業を煮やしたのが、扉が控えめだが、開けられた。
 少女は慌てて手綱を引き、天馬を上空へ駆けさせる。身を乗り出して、ゼルギウスの頬へ桜色の唇を寄せた。
「取り急ぎ失礼しますわ。騎士さま。それから……」
 ばさり、と大きな音と白い馬体は隠しきれない。窓から覗いた天馬に、入って来た下級神官は血相を変えて窓へ駆け寄る。
「ああ、お嬢様」
 だが、すでに天馬は神殿から飛び立ってしまった。顔を引きつらせながら、天馬と少女の背中を神官は眺めていた。
 その横で、ゼルギウスはお転婆な令嬢の相手も大変だ、と同情を寄せた。
 その下級神官の男は、ゼルギウスを頭からつま先まで視線を送り、最後に睨むように見上げた。背の低い男だった。無理もない。ここマナイル神殿の、しかも客間にいるような者は皆貴族か、平民でも神職に就いているような者ばかりのはずだった。しかし、ゼルギウスも身なりは整えてはいるはずだが、安物のマントとシャツ、剣は案内役の下級神官に預けてあった。どう見ても身分が高い人物には見えない。
「失礼だが、貴殿は……」
「私は、アカトフ子爵家に仕えておりますゼルギウスと申す者です」
 急に部屋に入って来たのは男の方なのに、何て横柄な。とゼルギウスは憮然とたが、内心はひた隠しに背筋を伸ばし、身分を伝える。下級神官ではあるが、彼も中枢部の人間だ。先刻の兵士らの態度を見れば、彼の田舎者兵士への態度など、自然と知れる。それに、
 ―――セフェラン様のお名前は、あまり出さない方がよろしいわよ。お命が大切ならば―――
 少女が去る前にゼルギウスに寄せた言葉。それが心に引っ掛かり、セフェランを待っているとは言わなかった。地方貴族の名と、ゼルギウスの身なりを見れば、さほど興味を示さず去って行くと思ったからでもあった。
 しかし、アカトフの名を耳にした途端、神官の胡散臭そうな顔はほんのわずかに明るくなり―――少なくとも警戒から解き放たれたようになった。
「アカトフ子爵の……そうでしたか。いや、失礼しました」
 男は神官帽を被った頭を下げ、アスタルテの印を切った。急に礼節正しい態度を取られ、かえってたじろぐ。
「ところで、子爵はどちらに」
「本日中央軍との合同演習を終え、確か、イマイロス公のお屋敷におられますが」
「おお、そうでした。そうでした。―――ところで」
 陰気な雰囲気をたたえていた男がふわりと笑みを見せ、何度も頷く。そして、その笑顔のままゼルギウスとの距離を縮め始めた。
 ずい、と痩せこけた顔を近付けられ、ゼルギウスは反射的に後ろに下がる。しかし、男は口の端を上げたまま、ゼルギウスを見上げていた。
「先刻のご令嬢のお話はお聞きになられておりましたか……?」
「先刻……あの、議長様のお孫様の事で……?」
「ああ、やはり。貴殿のご様子から、ご存知ないのかと思いましてな」
 何の事やら、とゼルギウスは口の中で呟いた。これ以上耳にしてはいけない。ゼルギウスは直感でそう感じていた。何かきな臭い物が男の口調からするのだ。
「子爵はどこまでをお命じに?」
「どこまで、と言われましても」
 シエネにて中央軍との合同演習に参加せよとしか上からの達しはない。しかも、その通告も子爵軍の隊長からである。アカトフ子爵とは、三年前、セフェランを通じて子爵軍に入隊した際に顔を合わせたくらいだ。
 口ごもりながらも正直に答えると、男はゼルギウスよりも困惑した顔になった。どうやら、アカトフ子爵と何か示し合わせていたらしい。
「では、貴殿は何用でここへ……?」
 ゼルギウスは押し黙った。少女の「命が惜しくばセフェランの名は出すな」という言葉は未だに引っ掛かっている。だが、この下級神官のにこやかだった顔が、次第に元の陰気な中年男に戻って行く様は、耐えられるものではない。元より、嘘を吐いたり騙したりできる性分でもなかった。
「もう一度お聞きしましょう。アカトフ子爵は貴殿に何をお命じになられておりますか?」
「それは……」
「では、あのご令嬢……シグルーン様とは何をお話に……」
 男の陰気さに冷酷さが混ざる。そこでゼルギウスは察した。この男は、あの少女―――シグルーンという名の議長の孫娘に、危害を加えようとしている!
 ゼルギウスの全身が強張ったのが男にも知れたらしい。友好的な態度はすっかり消え去り、胡散臭い物を見る目どころか、あからさまな殺意を向けてきた。
 肩越しに後ろに視線を送る。壁と、開け放たれたままの窓。楡の枝が風に揺れていた。
 ゼルギウスがマントをひらめかせるのと、男が呪文の詠唱を始めるのは同時だった。実戦でも訓練でも魔道士は何度か相手にしているが、厄介さは拭えない。窓枠に手を掛け、楡の木に飛び映る。己の体重と衝撃に耐えてくれるよう。そう願うしかなかった。彼が飛び去った直後に、光の玉が窓枠に当たり弾け飛んだ。
 願いは女神と楡の木に受け入れられ、枝が数度大きくしなった。頭上で男の声がするが、仔細までは耳には入らなかった。きっとゼルギウスを探すよう兵士に命じているのだろう。
 まずい。
 ゼルギウスにとって不利な状況がどっと振りかかってきたのだ。初めて足を踏み入れたマナイル神殿は、どの方角が出口がわからない。迷っているうちに、男の伝令は伝わり、神殿中の護衛兵がゼルギウスを捕えに来るだろう。
 枝から地上へ飛び降りると、一にも二にも走り出した。
 男の顔が窓から引っ込められたが、慌ただしさや殺気立った空気は中庭にまでは届かなかった。ゼルギウスは極力気配を殺しながら出口を急ぐ。普通は不審者や侵入者を発見すれば、これだけ大きな建物であれば警鐘や呼び笛が鳴り響くものだが、そういった音は一向に聞こえない。大貴族も多数いるマナイルにて、事を荒立てたくないのだろう。だが、安心してはいられない。
 剣を預けたままなのが悔まれた。だが、このままのこのこと取りに帰ればあの男やその手の者に捕まってしまうだろう。
 だが、どこへ行く?
 シグルーン嬢の言う通りとなれば、主セフェランは視察へ出ている。そして、あの男は子爵の名を出して不穏な話を持ちかけたのだから、子爵とも何か繋がりがあるのだろう。下手に兵士用の宿舎へは戻れない。
 セフェラン様、申し訳ありません。
 ゼルギウスは胸中で主に詫びた。セフェランの望む世界へと力となるべく、デインを出てきたと言うのに。その野望を達する以前に尽きてしまうのか。賢者は深く失望するに違いない。
「あいつじゃないのか?」
 見回りの兵もまばらな庭園に潜んでいたが、ついに兵士がゼルギウスを指差す。緊張が張り詰め、身を茂みに屈めて走り出した。
「待て!」
 鎧をまとった兵士に比べ、軽装ゆえに足は速かった。だが、地理には滅法暗く、闇雲に逃げるだけで、このまま兵の数が増えれば捕まるのも時間の問題だった。そしてその最悪の絵図が現実となる。あの下級神官の手回しで、十数名ほどの兵士がマナイルの庭園へと踏み入れた。
「これこれ、待たぬか」
 緊張をものともせず、聞き覚えのある皺枯れた声が呑気に響いた。兵らは一斉に声の方角へ身体を向け、背筋を伸ばす。つい先刻もそんな場面があったなと、ゼルギウスはゆっくりと身を起こした。
 そこには思い描いていた老人が立っていた。そして、その影に寄り添うように令嬢までいる。
「この者は我が孫娘の友人である。無礼な真似はよさぬか」
「はっ、失礼いたしました」
 兵らもあくまで議長へ礼を表し、散り散りに去って行く。
 彼女は助け舟を出してくれたのだ。ここマナイルでの絶対的な権力という船を。
「ご友人どの、失礼した。どうかご容赦願いたい」
 神使が暗殺され、後継者が不在の中数年。元老院議長であるこの老人が、事実上ベグニオン帝国の政の頂点に立っていた。彼自身は故ミサハの片腕であり、何より彼女を盲信していた為、神使になり変ってベグニオンの玉座に座ろうなどという野心はない。
「……ありがとう、存じます」
 ゼルギウスは膝を折った。老議長と、彼の孫娘に。少女がどのような意図で祖父を連れて来たのかはわからないが、窮地を救ってくれたのは事実だ。
「おじい様。お忙しいのにごめんなさい」
「気にする事はないよ、シグルーン」
 ベグニオン帝国内で一、二を争う権力を有するであろう老人は、皺だらけの顔を益々深め、瞳は皺にうずもれてさせていた。公務中に、自ら庭園へ足を運び、身分の低い兵士の諍いを止めに入ったのだ。よほど、この孫娘が可愛いと見える。
「それとおじい様。わたくし、この方とお話があるの」
「そうかそうか。では帰る時には爺を呼びなさい」
 老人は何の疑いも反対もせずに、満面の笑みで少女の薄緑の髪を撫でた。どこの馬の骨とも知れぬ男と、こんなに溺愛している孫娘を二人きりにする―――この老人の思考が理解できなかった。
 老議長はゼルギウスには目もくれずに踵を返す。彼の進む方向には、付き人らしき神官がひっそりと佇んでいた。その男も明らかに不審なゼルギウスに歯牙にもかけないようだ。
 どうなっているんだ―――
 唖然と去って行く老議長を眺めていると、足元から呼びかけられた。

「危ないところだったわね。騎士さま」
 少女は顔を綻ばせる。反対に、ゼルギウスの顔は強張っていた。彼女の身に危険が振りかかろうとしていたのだ。それをあの祖父は看過しているのか。
「一体、どういう事なのです?」
「それより、ゼルギウス様。これをどうぞ」
 シグルーンはふわり微笑み、後ろ手に持っていた剣をゼルギウスに差し出した。彼女が自分の名前を知っていた事は驚きだが、ゼルギウスの注意は白い指に握られた剣へと行く。紛れもない、下級神官に預けた彼の剣だった。
「これは、ありがとうございます」
「ふふ。騎士が剣を手放すのは関心しませんことよ」
 そうは言っても、マナイル神殿に入る際、防犯の為だと言って取り上げられたも同然なのだ。
 ゼルギウスは剣を腰の金具に取り付けると、胸の内の疑問をシグルーンに向けた。
「率直にお聞きしますが、なぜお命を狙われているのですか?」
「わたしが神使さまの血族に一番近いからです」
 少女の言葉に、ゼルギウスは眉間を寄せた。デイン出身のゼルギウスに、この国の玉座に座る者の血統図など、頭にはない。
「ベグニオン帝国は、三雄のひとり、オルティナ様が興された国なの」
 それはゼルギウスも知っていた。小さい頃に聞かされたお伽話、兵学校で習った歴史には必ず出て来た名前だ。彼の祖国デインも、ベグニオン王家の遠戚が始まりと言われている。
 シグルーンは続ける。この国は始祖オルティナの子孫が、神使として君臨して来たが、四年前に神使ミサハが暗殺されてしまった。不幸な事に、ミサハと同じ寝台に眠っていた五歳の孫娘―――すなわち、次期神使も暗殺者の刃に散ってしまったのだと。
 神使の暗殺の件はデインにて、孫娘の存在はセフェランより聞いていた。ミサハの一人息子も身体が弱く、オルティナの直系は絶えたも同然で、マナイルの中枢部は後継者について議論が絶えないのだとも。
 だが、目の前の令嬢は自分が神使の血が一番近いと告げた。ならば、彼女が次期神使になるのではないか。そんな疑問が浮かぶ。

「近いと言っても、神使さまの一族のお一人が公爵家に降嫁なさったのは、おじい様のおじい様のお父様の時なのに―――それに、わたしにはそんな気は全くないの。だのに、おじい様を良く思っていない人たちが勝手にそう思って、勝手にわたしを亡き者しようとしているの」
 吐き出した声色は、およそ十歳の少女らしからぬものだった。だが、それよりも大人たちの勝手な言い分で、罪もない少女に危害が加えられようとしている事に震えが止まらない。
「―――まさか、このような事が何度も?」
「ええ。本当は天馬での事故に見せたいようだけど、あの子はわたし以外簡単に近付かせないから。だんだん荒っぽい事をし出したみたい」
「何と……」
 言葉を失うゼルギウスを見て、シグルーンは安堵したように微笑んだ。先刻までの可憐な貴族の令嬢のものとは違う、ひどく大人びた笑みだった。
「おじい様ったら呑気なものでね、ミサハ様が亡くなる前まではあんなにいがみ合っていた相手と、今は仲良くなさろうとしているの。相手はそんな事まったく考えてもいないのにね。ガドゥス公に命を狙われてるのって何度も言ったけど、真面目に取り合ってくれないのよ」
 シグルーンは寂しそうに呟いた。だが、子供のそんな物騒な言葉を信じろと言う方も無理がある。政敵とは言え、簡単に元老院議長の孫娘の命を狙おうと考えようか。ゼルギウスが信じたのは、先刻の控えの間の一件に加え、勘のようなものが働いたせいもある。

「だけど、セフェラン様だけは信じてくれたわ」
「セフェラン様が?」
 急に主の名が令嬢の口から出、ゼルギウスは目を丸くした。
「セフェラン様は、平民の出なのに突然おじい様の片腕になったから、余計に皆に恨まれていらっしゃるみたい。自分では表立って力になれないから護衛を付けて上げましょうって。セフェラン様は詳しくは仰らなかったけれど、護衛ってあなたの事でしょう?」
「いえ、私は……」
 確かに、セフェランから今回の演習のついでに寄れとは言われた。だが、まさかこの件で呼び出したのだろうか。ならばなぜ、手紙に仔細を記してくれなかったのか。しかし、問い質したくとも当の本人は遠方である。ゼルギウスは額に手を当てた。明日はシエネを発ち子爵領へ戻る手筈だった。このままシエネに留まれとセフェランは言うのか。

「それとね、セ」
 シグルーンが口を開いたと同時に、二人の上に殺気が囲った。「敵」は露骨には近付いて来ないが、樹木や茂み、東屋などに遠巻きに身を隠して隙を狙っているようだ。
 しまった、とゼルギウスは迂闊さを呪う。一時は議長のはからいで事なきを得たものの、相手はマナイル神殿内で物騒な動きをしようとしていたのだ。議長が去れば、後は標的と、どこの馬の骨かわからない男が一人。格好の環境が整ってしまったと言う訳だ。
 逃げろ、とゼルギウスが叫ぶ前に、シグルーンは指笛を吹いた。空を切り裂く甲高い音と白い翼の音が重なる。シグルーンが天馬に跨ると同時に黒い影が一斉に動いた。赤い鎧ではなく、皆土気色の外套と同じ色の頭巾を被っている。彼らの身元を探る暇などなかった。恐らくシグルーンが言っていたカドゥス公とやらの手の者なのだろう。ゼルギウスは腰の剣を抜き、天馬を守るように身構えた。

 天馬は勢いよく空(くう)を駆ける。
「シグルーン様、危ないからお逃げ……」
 ゼルギウスの叫びより早く、白い馬体は見事な動きで暗殺者を捕える。いや、その上の小柄な身体が的確に男の肩を突いて回っていた。暗殺者は子供の不測の剣さばきと痛みに苦悶の声を上げる。もう一人がシグルーンの死角から剣を振り上げるが、ばさばさと忙しなくはためく翼が壁となり、刃は届かなかった。恐らく、天馬騎士相手はこれが初めてなのだろう。

 
 ―――余談だが、十数年後中央軍司令官となったゼルギウスは、元神使親衛隊の天馬騎士であったと言う、神使サナキ付きの女官より聞いた話がある。

 あの頃……そうです。ミサハ様がお亡くなりになられる二年ほど前の事でした。
 剣術と天馬に興味があるようで、シグルーン様は幼少のみぎりより、中央軍や聖天馬騎士団、はたまた聖竜騎士団の訓練場によく足を運んでいたようです。
 ある日、わたくしは当時の聖天馬騎士団長の命で、シグルーン様に付いて聖竜騎士団の訓練場へ赴きました。
 聖天馬騎士団とは違い、あまり品良くない集団です。平民の団員も多数おりますゆえ。何かあればすぐにわたくしが対処する心づもりでおりました。
 シグルーン様のお姿を見た竜騎士たちは、ああ、お嬢様の僥倖であるぞ。と下品な笑みで揶揄し始めました。シグルーン様はそれを意に介さず、それどころか下品な集団に歩み寄り、事もあろうかと剣のお手合わせ願いたいと申し出たのであります。

  さすがにそれはお受けできない、と隊長格の騎士が深々と頭を下げて申し出を断りました。
  けれども、シグルーン様は引きさがりません。隊長は困り果てた顔で諦めさせようと努力しておりました。

  そんなやり取りが長い間される中、一人の若い騎士が苛立った様子で前に出ました。
  子供、しかも大貴族相手に剣の勝負は勝とうが負けようが騎士側に傷が付くだけです。しかし、その若い騎士は、貴族の道楽にもほどがある。いい薬になりますよ、シハラム隊長。と憤然として彼に言いました。
  僭越ながら、わたくしもそう思っておりました。シグルーン様におやめ下さい、と何度も懇願いたしました。けれど、子供の頃のシグルーン様は、今の優美な神使親衛隊長からは想像できぬような、何と申しましょうか、とてもお美しいのですが、生気が感じられない、まるで精巧な人形のようでした。冷たい翡翠の瞳に見据えられ、情けなくも尻ごみしてしまったのです。

  その若い騎士は平民のようでしたから、公爵家の、しかも元老院議長の孫に痛い目を見せても害はないと思っていたのでしょう。
  訓練用の剣を抜いて、傍から見ても本気ではない構えでシグルーン様の前に立ちました。シグルーン様も訓練用の剣を求めましたが、若い騎士はその腰の剣でいいぜ、と無礼にも手中の剣をシグルーン様に向けたので す。
  周囲の騎士らもはやし立てます。ハールに一〇〇だ、じゃあおれはお嬢ちゃんに五〇〇、と口々に賭け出しました。隊長が止めんか、と部下を一喝するも、それは無駄になりました。半刻近く立つと、騎士も構えが次 第に本腰になり、じっと構えたまま動かずにいたからです。騎士の様子に囃し立てていた者も静まり、固唾を 飲んでいました。無論わたくしもです。

  一刻を過ぎて、若い騎士が動き始めました。隙をついた訳でもありません。お嬢様と対峙している状況から逃げ出したと言った方が正しいかもしれません。
  わたくしの目から見ても、若い騎士の剣の腕はなかなかのものだと思いました。まだ一八、九やそこらの若さでしたが実戦慣れしているようでした。
  わたくしは剣に手をかけましたが、それよりも早くシグルーン様が地面を蹴ったのです。シグルーン様よりもずっと体格の大きな男は、剣を繰り出し、シグルーン様はそれを受けているだけでした。けれど、わたくし を始め誰もが感じていたはずです。シグルーン様は決して押されてはいないのだと。
  やがてシグルーン様は一歩踏み出し、同時に騎士は呻き声を上げてのけぞりました。状況が理解できた時には、騎士が顔を手で覆ってうずくまっていたのです。

  シグルーン様は血に濡れた剣を手にじっと若い騎士を見ておられました。恐ろしい光景ですが、この時のシグルーンの頬は赤みが差しているように見えました。何と言うか、まるで、今人形に生気が宿り人になったと 言うか……
  その後は、人伝てに、あのハールという若い騎士が右目を喪ったという事、そしてあの直後、止めに入った隊長が部下を引き連れデインへ亡命したという話です……



 シグルーンは心強い戦力と認めざるを得なかった。天馬から死角となる位置で、ゼルギウスも新たにやって来る怪しい男たちをなぎ倒す。ゼルギウスは然程信心の強い方ではないが、女神の膝元での凶行に不敬さを覚えずにはいられない。しかも、その目的が年端もいかぬ少女の命など。
 
「何だ、どうしたのだ?」
 ついに騒ぎを察した兵らが駆け付けてきた。
 助かった!
 彼らは、先刻議長が取りなした場面を知っているだろう。ゼルギウスの心中は晴れ、身体が軽くなる思い立った。だが、刺客の一人が被っていた頭巾を振り払い、叫んだ言葉に絶望に追いやられる。

「この不届き者が、元老院議長様のお孫様に狼藉を!」
 それはお前らの事ではないのか―――
 そう反論したかったが、瞬く間に赤い鎧の衛兵らは暗殺者たちの言葉を信じ、ゼルギウスを取り囲む。
「ちょっと待って、この方は……」
 慌ててシグルーンも口を開くも、それはまったく無視される形となった。彼女の権力も、祖父が傍にいて初めて顕せるものなのだ。天馬から飛び降り、ゼルギウスの盾になろうとした。だが、「おじい様の許へお戻り下さい」と冷たい言葉で小さな身体は押し退けられた。
 周囲を長槍に囲まれては、ゼルギウスも抵抗する術はなかった。剣を捨てるよう命じられ、兵士に両腕を取られる。
「ゼルギウス様……!」
 シグルーンが付いて行こうとするが、別の兵が巨体を壁にしてゼルギウスとの間を阻んだ。
 もはや、これまでなのか。
 落胆は隠せるものではなかった。





 連れて行かれたのは衛兵の営舎にある地下牢だった。
 剣を捨てた事で安心したのか、彼を単なる不審者と見なしていただけなのか、大した改めもせずに薄暗い牢に放り込まれる。
 アカトフ子爵に取り継いでくれ、と何度も訴えたが、浅黒い顔の牢番は聞く耳など持ち合わせていないようだ。冷たく異臭を放つ石床に座り込む。子爵もこの件に関わっているとしたら、助かる見込みなどないと気付いた。せめてセフェランがいれば、と時機の悪さを歯噛みする。

 あの娘に関わってしまったのが、と一瞬でも考えた自分を責めた。
 地方領での暮らしていても、貴族の横暴さには辟易していた。だが、中央の貴族らはそれに輪をかけて酷いものだと思い知ってしまった。主セフェランは同胞を虐殺したベグニオン貴族に復讐する為にマナイルに潜んでいる訳ではない事も知っている。それでも、尊大で横暴な連中をどうにかしたいと思うのは道理に叶っているはずだ。
 ゼルギウスはこの時はまだ若かった。肉体はもとより、精神も。背中に「印」が表れ、家族から距離を置かれても、本格的に疎んじられるより先に軍へ飛び込んだ。そして心から尊敬できる師に出会う事で、彼の精神は捻じ曲げられずに済んだのだ。


 そんな彼の意に反する思考が再び巡り、嫌悪が込み上げてくる。
 身体を改めなかったのが幸いとでも言うべきで、ここを脱する為に必要なのだと言い聞かせる。
「なあ、そこのあんた。私の話を聞いてくれないか」
 兵士はゼルギウスには一瞥もくれず、椅子にだらしなく座っていた。それは予想通りで、別段焦りもしない。
「あんた、マラドの出身だろう?」
 その言葉で、初めて牢番の兵は頬をぴくりとさせ、ゼルギウスに瞳を向けたた。太陽の光が遮断された地下牢の中でも、男の肌の黒さはわかる。デイン出身であるゼルギウスは、その肌の色を一目見て、彼の出自を思い浮かべた。
「お前、わかるのか」
 兵士はゆっくりと身体を起こし、鉄格子へと近付く。
 デインでは、しばし褐色の肌を持つ者がいる。マラドなどの一部の地方の特徴でもあるが、突如顕われる場合もある。デイン東部の砂漠にいたマンナズの血を強く受け継いでいるとも言われる。
「ああ。私の母方の祖母がデインの出身でな。祖母の一族はネヴァサなんだが、マラドやギジュル出身の知り合いもいる」
 嘘は吐いていない。彼はネヴァサ郊外に居を構える下級貴族の生まれだった。もっとも、ゼルギウスの父方の祖母もデインではあるのだが。
 牢番は黒く丸い瞳を細めて、嬉しそうに告げた。
「おりゃあ、生まれも育ちもベグニオンだ。母親がデイン人ってだけだ。でも、この肌の色のせいでデイン人めと誰も彼も馬鹿にしやがる。半獣よかちっとましな扱いだけだ」
 半獣という言葉に心に引っ掛かりを覚えるも、懐に手を入れた。
「私も地方領の兵士だが、デインの血が混ざっていると何かと見下されて来た。よくわかるよ」
 少し大げさに言ったが、間違っている訳でもなかった。同僚と酒の席で親戚筋にデイン人がいると漏らし、それ以来口の悪い兵らに冷やかされた事が数度ある。
「だろ。だろ。まったく、この国は自分が一番偉いと思ってる奴らばかりなんだ。半獣でもねえのによ、デインだクリミアだと他の国がまるで……」
 牢番が興に乗り始めたが、その船は急激に消え去り、代わりに冷たい空気と数名の足音が牢に響いた。牢番は背筋と身なりをただし、机に放り投げていた鍵を腰に着ける。

 明かりと共に地上から入って来たのは、二人の赤い鎧の兵士と、僧服を来た若者だった。僧服は、マナイルで見た下級神官のそれよりも凝った装飾が施され、シグルーンの祖父、すなわち高い位の者が着るような長衣に見えた。年はまだ二十代だろう。ゼルギウスよりも少し上のようだ。この若さでの格好、そして兵士らを従える素振り。貴族なのだろう。長い髪を束ねている髪留めや、襟を飾る宝石の大きさは決して控えめとは言い難く、何より男の癖に化粧までしているのが鼻に付く。
「この男ですか?」
 格好から想像がつき易いほどの高い声が赤く塗られた口から発せられた。
「はい。左様であります」
 良く見れば、貴族の後ろの兵の一人は、正門の番兵だった。ゼルギウスの前では過剰なまでに胸を反らせていた男は、今度は背を曲げて伺うような笑みをしている。 

 若者が従えて来た兵に顔を向けている隙に、牢番が鉄格子にそっと顔を寄せた。
「えらいお方が来なすった。元老院でも有力議員の嫡男のバルテロメさまだ。失礼のないようにな」
 その忠告が、この男のとって今できる最大限の親切なのはゼルギウスも承知している。だからと言って媚びへつらう気は全く起きなかった。
 バルテロメは、舐めるようにゼルギウスの見遣る。
「そなた。どこの者であるか?」
 質問だが、既に知っていると顔に出ている。ゼルギウスは素直にアカトフ子爵家の私兵だと答える。
「子爵家のただの兵士が、何ゆえに元老院議長殿のお孫様と一緒にいたのだ?」
「シグルーン様が、誤って私がいた部屋に入って来た事がご縁でして。議長様のご公務の間、私めがお相手をしておりました」
「セフェランの命で?」
 シグルーンのセフェランの名は容易に出すべきではないという言葉は蘇った。だが、ゼルギウスは既に門番にセフェランに用があるとはっきりと告げていたのだ。
 押し黙るゼルギウスに、バルテロメは口の端を上げた。
「あの男、うすのろのアカトフを抱き込んで手駒を増やしたつもりでしょうが、とんだ手違いでしたね……そなた、ここから出たいでしょう?」
 バルテロメは赤い口を大きく歪め、指を鉄格子に通した。壁の松明の光で指輪がきらめき、その光は温い感触と共にゼルギウスの顎に届いた。
「私の元で働きませんか?すぐさま中央軍へ配属させてあげましょう。望むなら姓も与えます。働きによっては将軍職も夢ではありませんよ」
「断る」
 舐めるように這う指にも、ゼルギウスは微動だにせずに短く答えた。即答に、目の前の貴族の白粉をはたいた頬が歪む。
「あの男への忠誠ですか?このままではそなたどころか、あの男の身すら危険ですよ」
「私ごときがどうなろうと、あのお方には何の害もない。それよりも、シグルーン様をどうするつもりだ」
「ふん、そなたに教える道理など……」
「そうか、では議長様のお孫様を"どうにかしようと"考えてるのだな」
 あっさりと口車に乗った事に気付き、バルテロメは反射的に鉄格子から身体を離す。慌てた素振りで周囲の兵士に怒鳴りつけた。
「この男を殺してしまいなさい!」
「若様。どうかお控ください。守備隊長の指示がまだ……」
 牢番が何とか抑えようとバルテロメに近付くと、若い貴族はさらに激昂し、口を抑えて大きく身体を下がらせた。
「この薄汚いデイン人風情がっ。誰の許可を得て私に話しかけるのだ!?この男諸とも処刑しなさい、早く!」
 大貴族の命とは言え、さすがに同じ鎧を着た兵まで斬ってしまうのは気が引けるようだ。柄に手をやったまま顔を見合わせる。
「何をしている?デインの血が入っているにも関わらず、女神のお膝元にて碌を食ませてやった恩を忘れた下郎であるぞ」
 処刑命令と暴言に牢番は顔を青ざめさせて震えていた。ゼルギウスの身体の底からも、冷たいものが込み上げて来る。無意識に鉄格子が折れ曲がらんほど強く握っていた。この鉄の柵がなければ。剣があれば。いや、力があれば、こんな男がまかり通るのを許しはしないのに。セフェランはきっとこの様な、いやもっと酷い思いをずっとしてきたのだろう。
 ゼルギウスの怒りに気付かずに、バルテロメはさらにまくし立てる。
「人倫を忘れた半獣同様の者にかける情けなどはない。さあ早くなさい!」
「き、貴様……!」
 怒りに、鉄格子が曲がった―――訳ではなかった。がしゃりと鉄格子を鳴らしたが、その衝撃で懐から何かが落ちた。牢番に賄賂を渡そうと思ったが、中断され、懐の中身が中途半端に顔を出していたのだ。怒りはそれを気に留めさせなかったのだが、床に落ちた小さな袋は勝手に反応した。冷たい石床に白い粉が舞い、次の瞬間激しい光がゼルギウスを包み込んだ。薄暗い地下牢に慣れていた為、皆一斉に牢から顔を反らす。瞼を閉じて、腕で顔を庇っても、その強さは塞ぎ切れなかった。
 光がちらちらと残る目を懸命にしばたかせ、牢番は現状を知ろうとする。牢に一番近い位置にいた為に、光の矢は誰よりも彼の目に突き刺さっていた。
 ようやく見慣れた牢が視界に映ろうとした時、叫び声が響いた。
「バルテロメ様、いません!奴が消えました!」
 牢番も視線を驚愕する一行らから鉄格子の向こうへと向ける。確かに、一段と暗い牢には誰もいなかった。


 何が起こったのか、理解できなかった。
 ただ、光を放った「モノ」が自分の懐から出て来た事だけは理解できる。そして全力で走ったような、ひどい疲労感が全身にもたれかかっているいる事も。
 懐から本来出すはずだった財布はしっかりと納まっていた。神殿の庭園で兵に連行される直前に、シグルーンが何かを押しこんだ事を思い出した。
 ようやく視界が元に戻ると、そこは薄暗い地下牢ではく、優しい陽の光が差す小さな部屋だった。ゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。そこに見覚えがある。一人暮らしとは言え、いささか手狭さを感じさせる家。この空間からは想像もできない高官が住んでいるのだ。
 小さな家の、やはり小さな食卓には白い茶器が留守番をしていた。一枚の紙を机にはさんで。最初に見慣れた文字が己の名を綴っていた。


 親愛なるゼルギウス君

 これを読んでいるという事は、シグルーン嬢にはもう会えたのですね。
 かいつまんで説明しますが、彼女は神使とその孫亡き今、一番オルティナの血に近い方です。
 別にオルティナの血筋を探していたガドゥス公とその取り巻きが、それを面白く思わず、事もあろうかと命を狙っているのです。

 けれど、神使亡き後の議長は政敵であったガドゥス公と融和を図ろうとなさり、それを利用し面従腹背の体を取っているたぬ、いやガドゥス公を疑いもしません。
 シグルーン嬢はご領地に居ても命を狙われる身となってしまいました。だから人の目も多いマナイルに呼んだ次第です。
 どうか私のいない間、彼女を守ってあげてください。
 
 心強い装備も準備してあります。どうか頼みます。


 
 急いで書いたのか、黒く潰された後には必ずガドゥス公と書かれていた。そんなに書き難い綴りだろうかと首をかしげるが、それよりもシグルーンの身を案じなければならない。
 「心強い装備」に嫌な記憶が蘇り、見なかったふりをして外に出た。マナイル神殿が臨める静かな住宅街だが、騒がしい空気が漂っていた。同じく不穏に思っているようで、近隣の家々から人が顔を出して外をうかがっていた。
 大通りから慌ただしく駆けて来る一団が見えた。全員赤い鎧を身に着けている。恐らく、バルテロメが兵を出したのだろう。
 ゼルギウスは慌てて家に戻り、息を潜めて彼らが過ぎるのを待とうとした。
「神殿内に侵入した賊が逃げた!奴は貴族のご令嬢を誘拐しようとした極悪人だ!皆の者注意するように」
 壁を通して兵の叫び声が聞こえる。
 今出て行けば、間違いなく兵士に捕まってしまう。先刻の不思議な力を望む訳にはいかない。外からは、兵士らが家を一軒一軒「注意喚起」と称して改めているようだ。この家にやって来るのも時間の問題だろう。
 ふと、嫌な思い出が再びよぎり、軽く溜息をついて奥の部屋に入った。
 寝室となっているであろうそこには、思い描いていた通りの、いや、主の言葉を借りるなら「改良」された鎧が鎮座していた。
「前より大きくなってないか……」
 唖然として大きな鎧を見上げる。兜の先と天井には隙間がなく、突き破らんばかりである。三年前、これは真っ赤に塗られていたが、今度は再び主の言葉を借りれば「君の要望通り」、黒―――いや陽の元で紫色に光っていた。だが、鎧を縁取る金細工が蔦のようにうねり、真っ赤な宝石まで点在している。真紅に染め上げられたマントには、金糸の鳥が美しい羽根を広げていた。
「これ、誰が作ったんだ……?」
 芸術ならば、評価を受けていたに違いない。
 それを使わなければならない身は躊躇していたが、家の扉を激しく叩く音はそうさせてくれない。鍵は閉めてあるが、蹴破られない保証はない。荒々しい音を立てる扉と鎧を視線は何度も往復し、ゼルギウスは重い溜息を吐いた。

「入らせてもらうぞ!」
 乱暴な声と同時に扉が壊れんばかりに開かれたが、兵士らは、家に入る事は叶わなかった。むしろ、後方に大きくよろめき、尻もちをつく。
「どうしたんだ?」
 同僚の兵が腰を抜かした兵士に駆け寄る。震える人差し指の方角へ顔を向けると、屋内で窮屈そうに黒々とした鎧が歩いていた。
「な、何なんだ貴様はっ」
「うわ、うああああああああっ寄るな、寄るなあっ」
 ベグニオン兵士だろう、そんなに怯えるなよ……
 予想以上に恐怖に震えるベグニオン帝国の兵士に、落胆してしまった。だが、今の自分はラグズとは違った「異形」なのは間違いない。
「シグルーン嬢の、元老院議長様のお孫様の居場所を知っているか?」
 濃い紫の兜を近付けるも、兵士は青い顔で涙と鼻水を流しながら震えているだけだった。期待はしていなかったが、何よりこんなに怯えている様にゼルギウスは悲しみを覚えていた。

「……この、化け物めっ」
 だが、ここは喜ぶべきか迷うところだが―――彼に刃を向ける者は確かにいた。しかし、槍の尖った刃先は紫の大鎧に傷ひとつつかない。他の兵らも気を取り戻したのか、一斉に槍を繰り出してきた。
「継ぎ目だ、継ぎ目を狙え!」
 隊長格の男が後ろから叫んだ。同時に、兵らは狙い通りの場所をめがけて槍を突き出す。
 それでこそ、中央軍だ。
 ついにゼルギウスは剣を抜いた。鎧の隣に置かれていた剣を持って来ていたのだ。彼の愛剣は連行された際に取り上げられている。
 大きな鎧に振り回されていると頼りなげな細身の剣に見えるが、ゼルギウスの軽快な動きで、槍の穂先は次々と切断されて行った。隊長が退却を命ずる前に、兵士らはただの棒となった槍を捨て、狭い路地を一目散に逃げ出した。

「すげえ!」
「よくやった!」
 気が付けば、路地の脇には住民たちが人だかりを作っていた。日頃の兵士らの横暴な振る舞いに怒りを募らせていたせいか、得体の知れぬ大鎧に素直に歓声を上げる。おまけに、幼い子供たちまで笑顔で集まって来た。ゼルギウスの視界に万節の飾りが目に入る。
「凄い鎧だねえ」
「三年前にもあったな、半獣が暴れ狂ってた時に」
「でもあれは赤い鎧だったよ」
 そうだ。あの時も万節祭のさなかだった。苦い思い出が込み上げ、ゼルギウスは頬を引きつらせる。
 三年前と違うところは、この場にセフェランがいない事だ。場を納める者もいない以上、早く去らなければ、とゼルギウスは止める住人らの声を背に、大通りに足を向けた。
 
 もう人目を気にするのを諦めた。
 驚愕の悲鳴を上げる人間はもちろん、馬も犬も気味にいなないたり吠えたりしていた。ゼルギウスは構わずに―――兜で顔が完全に隠れているのをいい事に―――悠然と歩く。とにかく、シグルーンの居場所を突き止めるのが優先だ。
 途中、追加部隊が現れたが、彼らもゼルギウスの敵ではなかった。訓練されているとは言え、始めて見る相手に及び腰になっている軍隊では、ゼルギウスも易々と突破してしまう。
 しかし、マナイル神殿を目前に部隊は様子をがらりと変えた。騎馬兵も、魔道部隊まで揃えて大鎧を待ち構えていた。さながら戦争でも起こしそうな様子だが、こんな得体の知れない鎧をベグニオンの中枢へは入れる訳にはいかないのだろう。ゼルギウスは兜の下で自嘲する。
 三年前のような「女神の加護」にて戦斧や魔道を防ぎ切れる保証はない。セルギウスも剣の腕を磨いてきたが、こんな数の、しかも中央軍の勇士らを相手にどこまで立ち向かえるかわからなかった。
 やるしかない。
 ゼルギウスは剣を強く握り直す。
「行け―――生死は問わん、あやつの侵入をこれ以上許すな!」
 将軍と思われる騎士が右手を振り下ろすと同時に、中央部隊は一斉に動いた。雷がとどろき、その直後に軍馬が飛びかかる。ゼルギウスは双方ともに紙一重で交わす。後方の弓も騎兵や歩兵に当たらぬよう、見事な機と腕で放って来た。地方の私兵軍との合同演習とは比べ物にならないほどの統率力だった。
 鎧の継ぎ目に矢が刺さる。衝撃は軽いもので痛みもないが、そこに注意が行き、幾筋もの槍が兜や肩当てを突いた。ゼルギウスはよろめき、後方へ下がる。その隙を突いたように、魔道士が何かを叫んだ。間髪入れずに閃光が彼の上で弾ける。
 ゼルギウスは思わず腕で顔を覆う。ぴりぴりと鎧を通して電流のようなものが身体を走るが、それはいたく微弱であった。すぐに剣や槍を受け止めようと剣を構え直す。だが、次の攻撃は襲っては来なかった。ゼルギウスの周囲を取り囲んでいた兵士らは、一様に石の床に伏していたのだ。
 何が起こったのか、将軍もわからない様子で倒れた部下を凝視していた。ゼルギウスも周囲を見渡すも、魔道を放ったとみられる魔道士も木陰で伸びていた。先刻の叫びは、魔道の詠唱ではなく、危害を加えられた事による悲鳴だったようだ。
「貴様、それは光魔法だな……坊主の癖にそんななりを……」
 それに答えられるはずもなく、ゼルギウスは剣を構えた。
 敵の数は大半があの光魔法らしき閃光に倒れ、将軍とその護衛兵三人だけが残っているだけだった。この状況に将軍が気付き、歯噛みして後ずさる。
「将軍、ここは……」
「議員様直々にお命じになられたこの使命を放棄する訳には」
「分が悪すぎます!それに、あれが光魔法なら、分が悪すぎます」
 倒れている兵を青い顔で一瞥し、将軍は悔しさを隠しきれずにゼルギウスを睨むと退却だと呟いた。
「増援を連れて来る!これで終わったと思うな!」
 律義に攻撃予告をし、将軍と護衛兵は神殿とは別の方角へと馬を走らせた。あの方向は、中央軍の営舎がある。増援はきっと今回よりも数多くやって来るだろう。その前に、シグルーンを探さなければならなくなった。
 
「いやあ、もう少し耐えてくれると思ってたんですがねえ。これしきで気絶とは情けない」
 懐かしい声に、ゼルギウスは声のする方へ勢いよく兜を向けた。あの将軍が「光魔法」と言ったのだ。それを扱える人物で、ゼルギウスに味方する者は一人しか知らない。叫んだ主の名が兜のせいでくぐもった。
「いやいや、思ったより様になってますねえ。改良の甲斐がありましたよ」
 三年ぶりの再会は、呑気な空気の中行われた。しかし、一方はそうではない。
 何でこんな鎧を、と抗議したいところだが、今は何より先んじなけれはならない事がある。彼の言いたい事はわかるのだと、セフェランはあくまで穏やかな笑顔で頷いた。
「シグルーン嬢が連れ去られてしまったのですね。探しましょう」
 ゼルギウスも大きく頷くが、その場所が皆目見当がつかない。心強い相手と出会う事ができたが、不安は拭いきれなかった。

「おや、あれは何でしょうね」

 ずっと空を仰いでいたかと思うと、セフェランは急にゼルギウスに言った。
 主の指が示す先をゼルギウスも仰ぐ。目は良い方だ。晴れた空に、浮かぶ白い物体は雲ではなく、天馬だというのがわかる。
 その天馬は、マナイル神殿の一角の上空を旋回し続けていた。


 神聖なマナイル神殿にて、このような事許されるのだろうか。
 中年の貴族は複数の男たちの影で震えていた。望んでいた事とは言え、それは遠くの物語のように思っていた。目の前で実現してしまい、恐ろしさと罪悪感で染まっている。
 目の前には十歳ほどの少女が大人たちを睨んでいる。さすがは武勇に高い公爵令嬢と言ったところだ。宝石のような緑の瞳にからは憎悪があふれ、こちらがひるんでしまいそうだ。
 だがそれはこの男だけで、貴族の集団の頭目たる男は不敵な笑みで少女の睥睨を見下ろしていた。だが、最後の礼なのかわずかに残る引け目なのか、シグルーンの手足は自由にあり、椅子に座らされているだけだった。
「何か言い遺す事はございませんか」
「あなた方に神罰が下りますよう女神さまにお祈りしておきますわ」
「それはそれは信心深く感心しますな」
 男は褪せた金の髭に覆われた口をかっと開き、笑い声を上げた。
「ガ、ガドゥス公……年端もいかぬ子供を、女神のお膝元でとは、さすがに……」
 中年貴族はついに罪悪感にかられ、ありったけの勇気をと声を振り絞った。
「アカトフ子爵」
 しかし、ガドゥス公爵は改心するどころか、冷たい光を少女から中年の貴族へ向けた。
「どうか元老院議員の末席に加えていただきたい、と拙僧に親書を送ったのはどなたでしたかな」
 今まで議長へ何かと尽くし、色々と「心付け」までして来たのだが、努力は報われる事なく月日と金が流れるのみであった。手をこまねいている内に、老議長は突如現れた出自のわからぬ青年に入れ上げ、アカトフに見向きもせずに、彼を一人前の政治家にする事に腐心し始めたのだ。
 ゆくゆくはあの若造が元老院に名を連ねる事になるでしょうに。そうでなくとも、議長殿は伯爵位をお考えだとマナイルではもっぱらの噂ですぞ。
 いつだったか、シエネから視察に来た元老議員が彼にそう耳打ちし、気の弱い中年貴族は身ぶるいを抑えきれなくなっていた。そして、密かに議長の政敵であった副議長の許を訪ねたのだ。
「それに、貴殿の私兵がマナイル神殿内に足を踏み入れた上、事もあろうかとクルベア家の嫡男に無礼を働いたそうでしてな」
 アカトフは完全に縮こまってしまった。クルベア公爵家と言えば、元老院の中でも有力七議員のひとり。嫡男バルテロメはゆくゆくは父の跡を継いで元老院を担う若者だ。
 そうだ。三年前、突然件の若造から一人の男を私軍に入れて欲しいと頼まれた。それも彼が議長のお気に入りだから聞いた頼み事だったのだ。たのに、だのに、こんな形で泥を塗られようとは。
 堅い顔でじっと床を見つめているアカトフに、ガドゥス公は更に残酷な言葉をかける。
「と、言う訳でしてな。今回の件もあるゆえ、貴殿の"英断"をお見せいただきたい」
 ガドゥス公は髭の下から白い歯を見せる。その意味を汲み取れずに茫然としていたが、アカトフ子爵は急に首を振った。
「そんな、で、で、できませぬ……私は……」
「人の上に立つ身は、綺麗事だけ行っている訳にはいかんのです。クルベア公爵も、今回の失態を注がれれば、水に流してくれるどころか、元老院の件に力を尽くしてくれましょうぞ」
 他の貴族が、いつの間にか魔道書と短剣を手にしていた。ここは皇帝の一族の愛用物が納められている場所。人を殺める道具もそれなりに納められていた。始祖オルティナ自身が剣士だったのだから。 
「お好きな方でどうぞ」
 傍に控えていた貴族が陰湿な顔でそう告げる。司祭の位を持つガドゥスの完全な手足だ。
「アカトフ子爵。どうかお考えを改めてくださいませ。このような悪行、女神アスタルテは許しはしません」
 青ざめた顔はシグルーンに見向きもせずに光の魔道書を凝視していた。手習いでかじった程度の腕ではあるが、剣よりかは扱える。それに、刃物で人の身体を刺す感触もない。そうだ殺す姿勢を見せれば良いのだ。力の問題で命を奪い切れずにいる、だからきっと、後始末はガドゥス公か、手下が……
 震える細枝のような指が、魔道書にかかろうとしていた。修行を積んだ僧なら書がなくとも発動できるのだが、彼のような手合いでは魔道書に頼らざるを得ない。それが高位の魔道ならなおさらだった。
「子爵、このような事が祖父に知れれば、きっと悲しみます。どうか、考え直して……!」
 シグルーンの叫びは届かず、アカトフは魔道書を抱きしめた。ぶつぶつと何かを呟いている。シグルーンにはわからないが、他の貴族やガドゥス公の耳には光の精霊を呼び出す古代語が届いていた。ガドゥスはうすら笑いを浮かべる。
「女神に祈る時間は与えよう」
 アカトフ子爵の呟きは冷たい声に被さってしまった。シグルーンは固く目をつぶり、両肩を抱いた。
 何か固い物が割れる音がしたかと思うと、それが崩れ落ちた。
「うわ、何だ!」
 貴族らが慌てて背後に首を向ける。ガドゥス公もだ。シグルーンの目には、派手に崩れ落ちた天井と瓦礫の山だった。瓦礫の中から、黒い塊がのっそりと起き上がる。貴族も、シグルーンも驚愕に息を飲む。その塊が何かを投げつけ、しゃがみ込む貴族らを通り越して床に突き刺さった。シグルーンは一も二もなく柄を掴む。

「しまった!」
 構えるシグルーンに気付き、ガドゥス公は顔を歪めた。紳士精神を半端に出して、彼女を縛り付けなかったのが裏目に出てしまった。
「アスタルテがお怒りのようですわ。覚悟なさい」
 ガドゥス公は舌打ちしながら、背後の騒乱に目を向けた。黒っぽい大きな鎧を前に、貴族たちは腰を抜かして悲鳴を上げていた。アカトフ子爵などは失神している。
「何たる面妖……鎧の化け物が神聖な場に現れようとは」
 ガドゥス公は下げていた首飾りの宝石を口髭に寄せた。すると、宝物庫の扉が大きく開き、大きな獣が三頭姿を見せた。ゼルギウスは眉を寄せる。
 虎は咆哮を上げ、狂ったように突進して来た。このままでは、シグルーンはもちろんだが、貴族らも巻き添えを食らってしまう。この男たちは、平民を搾取し、政敵を汚い手で出し抜いて来たであろう事はゼルギウスも予想はついている。だが、それでも彼は虎の前に立ちはだかった。
 鋭い牙を鎧は弾いた。三年前同様の感触だった。だが、剣はなく、純粋な力のみの勝負は叶わなかった。大きく後ろによろめき、もう一頭が脇に頭突きを食らわす。ごろごろと重い石のようにゼルギウスの身体は転がった。

「化け物は化け物同士で食い合うと良いわ」
 ガドゥス公は鼻を鳴らし、混乱の隙をついて宝物庫の入り口を目指した。
「待ちなさい」
 ガドゥス公の鼻先に剣が突き付けられる。
「このような事をして逃げられるともで思って?」
「あの耄碌じじいが可愛い孫娘とわし、どちらの言を信じるかな」
 形勢逆転しているはずだが、ガドゥス公は平然と少女を見下ろしていた。彼の言葉がその証明だ。シグルーンは奥歯を噛んだ。手放しで可愛がられているとは言え、政治の場ではガドゥス公に秤は傾いているのは思い知らされている。
「約束しよう。その剣を納め、大人しく道を開けてくれさえすればそなたの命は金輪際狙わん」
「あなたの約束など、信じられるものですか」
「約束という形を取った方が、そなたにとっても都合がよいと言うのに。我ら側の後継者が天上の位を得るまで、そなたは命の危険にさらさられる日々を送るのか?」
 シグルーンは口をつぐんだ。
 広大な領内でも、住まう館ですらも、彼女は心安らかではいられなくなっていた。この狡猾な男と胸襟を開いたつもりの祖父の背後で、公爵家は徐々にガドゥス公の手の者が入りこんでいるのだ。
「聞きましたよ。ガドゥス公」
 ガドゥス公は慌てたように声の方へ身体を捻る。その際に、突き付けられていた切っ先が鼻を掠めたが、それどころではないと言った慌てようだった。
「き、貴様……北東部への視察はどうした?」
「終わったので帰って来たまでです。ところで、私はあなたとシグルーン嬢の会話全部聞いてしまったのですがね」
 さすがに議長の気に入りの秘書となると厄介らしい。渋面を隠さずにセフェランを睨む。
「ふん、ならば虎の餌となるがよい」
 まだ四十代半ばだというのに巨木の幹のような体躯は、見かけよりも素早く二人から離れた。宝物庫に無造作に立てかけられていた杖と取り上げると、金の髭は再び愉快そうに曲がった。
「あっ、ガドゥス公!」
「ほほう、リワープの杖とは。"我が子たち"に術の熱心な研究者がいるとは聞いていましたが」
 セフェランは感心したように顎に手を当てたが、隣のシグルーンにはその独白は聞こえていなかった。 




 光がほとばしり、その直後にガドゥス公が消えていたのを、離れた場所にいた者たちも見ていた。
 這いずり回りながら逃げ回る貴族らは、口々に彼の非情さを嘆く。ガドゥス公のように窮地を抜け出す宝物も手の届く場所にあるのだが、混乱した頭と目の前の凶暴な獣を前にそこまでには至らずにいた。もし思いついたとしても、彼らガドゥスのように杖や魔道書への研鑚は積んでおらず、使えるかどうかは怪しいものだが。
 ゼルギウスは虎にぶつかっては起き上がるのを繰り返していた。
 例え衝撃や牙に耐えられても、これだけはどうする事もできない。かと言って、大剣が飾られている場所へ走れば貴族らが危ない。
「目を閉じてくださいね」
 およそ現状にふさわしくないゆったりとした声がしたかと思うと、辺りが白い光に包まれた。声と、先刻の経験からゼルギウスの腕はさっと目を覆う。地下牢ほどではないが、陽の光が届きにくいこの部屋で突然の強い光は、夜目の利く虎には強力すぎたようだ。
 高い声を上げてゼルギウスから身体を離した。その隙を狙い、大振りの剣の一つを手に取る。大鎧同様、さぞかし重いと予想していたが、重さは気にならず、すんなりと彼の手に馴染んだ。
 怒りに拍車をかけた虎たちがゼルギウスめがけて飛びかかる。ゼルギウスが横にひと薙ぎし、刀身と同じ銀の線が弧を描いた。軽く威嚇のつもりで振り払ったはずだった。それなのに、三頭の虎は後方へ大きく吹き飛んだ。
 壁に衝撃が走り、虎と接触した場所は激しい亀裂が生まれた。宝物庫はしんと静まりかえる。ゼルギウスは肩当てを大きく上下させていた。右手に握られた剣を見遣る。宝物庫に納められているのだから、それなりの価値はあると考えていたが、まさかここまで威力があるとは。
「大丈夫。死んではいませんよ」
 セフェランはそう言うと、何かを呟きながら倒れた虎に手をかざす。そこから光が生まれ、虎に吸い込まれた。他の二頭にも同様の光を施す。すると、虎はみるみる内に獣の姿から人の姿へと変わって行った。だが、ひどい怪我を負っているのは変わりない。
「このラグズの方たちは、わたくしの領地で手当てしましょう。許してくれるかはわかりませんが……」
 悲しそうに睫毛を伏せるシグルーンに、セフェランは頭にそっと手を置いた。
 崩れかけた部屋かうっすらと光が差し、散乱した宝物が小さくきらめいている。その中で見目麗しい少女と青年がたたずむ姿は、神秘的なものを思わせた。
 それをかき消してしまうようで、ゼルギウスは二人に近付くのを躊躇っていた。しかし、がちゃりと鎧が無作法な金属音を鳴らすと、セフェランは彼に向けてにっこりと笑った。
「そちらの騎士殿。この度は、我が主のお孫様をお救いくださり、本当にありがとうございました」
 その笑みは喋るな、身元を明かすなと言っていた。恐らくこのシグルーン嬢には秘密にしておきたいのだろう。ゼルギウスは大きな兜をゆっくりと下げた。
「あ、そうだわ。ゼルギウス様!あの方が捕まって……」
「彼なら私が神殿の守備隊長に掛け合い釈放してもらいました。安心してください」
「でも、あの方はアカトフ子爵の」
「ええ。この件でアカトフ子爵は何らかの処分があると思います。ですが、彼はそのとばっちりを受けたに過ぎたまでですから……」
 セフェランは満面の笑みでゆっくりと、含みを持たせてそう言った。シグルーンは目を丸くしていたが。セフェランの意図を汲み取ると蕾を綻ばせたような笑顔になった。本人を目の前にして、かつ本人を蚊帳の外にしての会話を本人は茫然と聞いているしかなかった。



 その後。
 マナイル神殿の最奥にある宝物庫の破壊事件に、神殿内は騒然となった。ガドゥス公は得意の工作で責任を全てあの場にいた手下になすり付け、本人はのうのうと元老院副議長としてマナイル内で威光を放ち続けている。だが、責任転嫁にかなりの労力と金を使ったのか、あれ以来シグルーン嬢への攻撃はぴたりと止まったと、セフェランの家を訪ねた本人の口から聞いた。さらに彼女は、将来は天馬騎士になるのだと、可憐な顔を赤く染めた。
 アカトフ子爵は爵位の剥奪は免れたものの、神殿へ足を踏み入る事は禁じられ、領地の半分近くを失った。それゆえに税収も半減し、私軍の大半が解雇せざるを得なくなった。その中に、ゼルギウスはもちろん含まれている。
 ゼルギウス本人はシエネへ留まり、セフェランの小さな家に厄介になっていたが、さほど間も置かずに中央軍へと配属へと沙汰が来た。セフェランではなく、議長、いや彼の孫娘の口利きによるのは言うまでもない。縁故に近いのだが、議長の溺愛する孫娘の命を救ったという功績は確かにあるのだ。
 中央軍へ配属される事は喜ばしいが、ゼルギウスの心は重いままだった。その原因は、厄介先の奥に秘められている鋼鉄の像のような鎧だった。
「もう着ませんからね」
 そう強く釘を刺しても、主は意に介さずに改良の話をゼルギウスにする。主に外観の話だが。
「あなたの意見に譲歩して黒に見える濃い紫にしてみたのですがね。気に入りませんでしたか」
 心底残念がっていない顔で、セフェランは頬に手を当てる。
「そんなに黒じゃないと嫌ですか?」
「色の問題ではありません」
「黒が好きだなんて、あの人と同じ事を……」
 そう呟き、懐かしそうに鎧の脇に向けて目を細めている。ゼルギウスの視線でセフェランはすぐに穏やかな笑顔に戻った。
「人の話を聞いてますか?」
「ええ、黒にしろという話でしたよね?」
 ゼルギウスは盛大に溜息をついた。
 ひとまずの役目を終えた鎧の脇には、騒ぎのどさくさに紛れて持って来てしまった大振りの剣がある。明るい陽の元でも美しい銀の刃を持っていた。後にセフェランより、対となっている金の大剣を渡されるが、その時は「ゼルギウスの要望通り」漆黒の鎧が用意されていた。それはかなり後の話である。
10/11/19   Back