モンスター デア リューストゥング

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 ああ、そうか今日は万聖節であるのか。
 彼の祖国より、南に位置する土地であるが、海からの風はひやりと肌を撫でた。長い徒歩で火照った身体に、冷たい風はありがたいものだった。
 冬を運ぶ風と、新しい年を迎える準備で、街は騒然としていた。
 デインでも、その頃が近付けば、街や家々はその準備に追われる。アスタルテ教会の総本山であるこの国ならば、万聖節のにぎわいはなおの事だった。
 行きかう人々は、忙しそうにしながらも、浮き足立っているように見えた。民衆の絶対的な支持を受けていた神使ミサハが亡くなり、数年経た今だが、彼女の御魂を慰めようとしているのか。子ども達は、夜を待ち切れずに仮装しながら通りを練り歩いていた。無邪気な様子に、ゼルギウスは口元を緩ませる。
 途中、数台の馬車とすれ違った。恐らく貴族の物であろう六頭立ての馬車は、人の多い通りに、無理やり道を開けさせる。薄汚い旅人どころか、迷惑そうに脇による人々など、目にもくれない。
 彼の故郷にも、貴族という身分は存在した。彼らを護衛する任務にも就いた事もある。しかし、ベグニオンという国は、女神アスタルテに仕える高位の神職がその身分に座っているはずではなかったか。
 窓から垣間見えた老年の男は、彼の脳裏にある徳の高い僧侶とはかけ離れた身なりをしていた。彼の国でも見られる王侯貴族や富豪を思わせたのだ。
 しかしそれが、ベグニオンという国なのだと、彼は後に思い知らされる事となる。


 数年前に一度だけ訪ねた事のある場所を、彼は慣れた故郷のような足取りで進んだ。人の賑やかな大通りから、住宅街へと続く小さな道へ曲がる。そこは万聖節を祭る飾りつけはとりどりだが、人の姿は落ち着いて、大通りに比べれば静かなものだった。
 大小の家々が立ち並ぶ、比較的裕福な者が住まう区画。そこに、ゼルギウスの求める人物は住んでいた。この場所を知った時、彼は二度驚いたものだ。
 最初は、博識の賢者がベグニオンに住まうと聞き、彼を求めて訪ねた時。賢者とは、浮世を離れ、ひっそりと山木に紛れて隠遁しているものだと勝手に想像していた為、こうして多くの人の中に居を構えているとは想像もつかなかった。もう一つは、訪ねた後、彼がベグニオンの政治の要にある元老院議長の秘書を勤めていると知った時。議長の秘書となれば、それなりの屋敷を下賜されてもおかしくはないのだが、彼の住む家は小さく、そして、使用人の一人もいない。


「よくいらっしゃいましたね」
 その小ぢんまりとした家から、ゼルギウスが賢者と呼ぶ男が出迎えてくれた。数年前と変わらず、長く黒い髪は漆黒の絹のようであり、すらりとした長身からは、穏やかな気を湛えて、逢う者を安心させる。ゼルギウスは、その前に膝を折った。
「ようやく、お志のお手伝いをする日がやって参りました。微力ではありますが、どうか、存分に……」
「お止めなさい。こちらこそ、あなたがやって来るのを心待ちにしていたのです」
 賢者、セフェランは身を屈め、ゼルギウスに頭を上げるよう促した。
「さあ中へ」
 かたじけない、とゼルギウスは小さな家の扉をくぐった。
 ゼルギウスに椅子を勧めると、セフェランは台所に立った。彼の家は、やはり以前訪ねた時と変わらず、使用人も、弟子の一人もいないようだった。部屋は二部屋しかなく、最低限の家具があるのみで、怪しげな薬や書物などといった類はない。知らぬ者が見れば、駆け出しの若い学者か教師の家だと思うだろう。御伽噺とはかけ離れた存在だった。

「明日から、とある子爵家の私兵団へ入ってもらいます。もどかしいでしょうか、事は段階を踏まないとなりません」
「御意」
 かく言うセフェランは、突如元老院議長の目に留まり、異例の速さで片腕にまで成り上がっていた。
 私兵団長との話はついているから、まずは新しい生活に慣れて欲しい。と、セフェランは芳しい香りのカップを傾けながらそう告げた。ゼルギウスは強くうなずく。この身体に流れる咎ゆえに、苦しんできた半生。その苦しみを討ち払うべく、彼に付いて行くと決め、敬愛する師の許を離れたのだ。

「さあ、冷めないうちに。今日は狭いですが、我が家―――」
 まだ熱い陶磁器に手をかけようとした時、外から悲鳴が聞こえた。大通りの喧騒とは違う類だとすぐに気付く。
「表で何かあったようですね」
「―――私が見てきましょう」
 家を飛び出すと、恐怖に青ざめて走り出す人々の姿があった。人の流れてきた方角へ顔を向けると、大通りは更に騒々しく、物が壊れるような、崩れるような音が、悲鳴に混ざって見えた。
 人を掻き分け、土埃と泣き声の舞う大通りへと駆け出す。市街地が、突如いくさ場になったかと目を疑った。店や露店の並ぶ通りを暴れ狂う獣。それを追い立てるのは、赤い鎧を着た兵士たち。巨大な箱が横倒れ、それに繋がれている馬は、起き上がれずにもがき、中には獣に踏み潰されてしまう馬もいた。
 ゼルギウスは思わず頬を歪ませる。暴れている獣は、ラグズと呼ばれる異種だ。虎や猫、獅子の姿に身を変え、女神から与えられた人倫を忘れて本能のままに破壊する存在。そう話に聞いているだけで、目の当たりにしたのはこれが初めてだった。腰の剣を抜こうとするも、ぶつかるまでに逃げ来る人々で、それは叶いそうにない。それに、情けない事だが、巨大な獣らを前に、ゼルギウスは及び腰だった。
「ゼルギウス」
 背後で、落ち着き払ったセフェランの声がした。
「セフェラン様。ここは危険です」
 ゼルギウスの諌めも、人々の恐慌もセフェランは意に介していないようだった。
「ゼルギウス。ひとまず私の家へ」
「ですが、そこも安全とは言えません」
 セフェランの身も心配であるが、大通りにはまだ人が大勢いるのだ。中には、幼い子までいるだろう。破壊の手から救い出せる確信はないが、放っておけるような性ではなかった。
「とにかく。この騒ぎを救い出せる手があります」
 その言に、ゼルギウスはセフェランを見やるが、彼は己の家へいざなうだけだった。細身のセフェランを庇うように、小さな家へと急ぐ。
「これは……!」
 家に着くなり、彼のもう一つの部屋の扉が開かれた。ゼルギウスは、外の喧騒を忘れ、それを仰ぎ見た。狭い寝室を文字通り占拠している巨大な深紅の鎧を、口を開けて仰ぐ姿は、さぞかし間抜けであろう。だが、その自覚すら忘れていた。
「さあ、これで」
 謳うような声で、ゼルギウスは我に帰る。もう一度、天井を突き破りそうな鎧を仰ぎ見、セフェランに向き直った。まさか、これを。
「できません!できません!」
「女神の加護を受けているのです。滅多に傷つく事はありませんよ。それに、万聖の仮装に紛れてと思えば」
「そういう問題ではなくて……!」
「これからベグニオンの軍属になろうという方が何ですか」
「帝国軍のは、ここまで赤くないですよね?」
 真っ赤な全身鎧は、天窓からの真昼の陽を受けて輝いていた。デインは、外装の美しさより、実を取るきらいがある。ゼルギウスも多分に漏れずそう育ってきた。幼少時から軍に属していた身ならなおの事である。セフェランと出会い、ベグニオンの軍に身を寄せると決めたが、ベグニオン軍の赤い鎧には、多少の抵抗があったものだ。
「今でもラグズの獣たちは我を失って暴れているのですよ。時間がありません」
 そう釘を刺されると、抵抗の隙間もない。事実、剣には覚えのあるゼルギウスだが、初めて邂逅する相手を前に、そして、ベグニオン兵の苦戦ぶりが、自信を揺さぶっていた。
「……わかりました」
 応、と答えるより先に、セフェランは踏み台に昇り、鎧の留金を外していた。
「此度、此度だけですから」
 重々しく吐き出し、ゼルギウスは外套を外した。
 

 鎧は見た目に比べて遥かに軽く、まるで彼に誂えたかのように身体に合っていた。そして、愛用の剣ではなく、別の長剣を渡され、ゼルギウスは颯爽と大通りに出る。
「うわっ……何だ!」
 ベグニオンの兵士からのものであろう驚愕の声に、後悔の念を覚えるも、ゼルギウスは店舗を縦横無尽に破壊していく虎たちに立ち向かっていく。逃げ惑う通行人らも、彼の姿に目を見張り、幾度も振り返っていた。
 いいですか。決して、ラグズ達を必要以上に痛めぬよう。動きが鈍くなればよいのです。大通りへ出る際、セフェランはゼルギウスに強く念を押した。 
 与えられた剣も、木製かと思わんばかりの軽さだった。威嚇の唸り声に一瞬だけ怯むも、気を引き絞って大きく前へ出た。
 真紅の鉄が大きな牙を跳ね返し、その隙に黒縞の腹に、渾身の一撃を食らわせた。虎の身体は大きく後ろに跳んだ。殺さぬよう、とセフェランから言われているが、初めて見える相手に加減できようはずもない。
 約束を違えてしまった。胸中で心を沈ませるも、すぐに背後の殺意が精神を引きずり出す。堅い物がぶつかる音が肩で鳴ったが、ゼルギウスの身体どころか、鎧自体にも何も変化はない。「女神の加護」はセフェランの言通り、どんなに鋭い爪や牙も、傷ひとつ付ける事はなかった。

「凄えよ!あのでかぶつ!」
「仮装にしちゃあ、よく出来たもんだ」
 ラグズの数が減るにつれて、兵士の驚嘆の声が大きくなっていた。この戦いが万聖節の祭りの一部かの如く楽しむ者も出てきたのだ。大通りに、群集が戻っているのがわかる。
「がんばれ!赤いよろいのひとー!」
「がんばれ!」
 子どもの無邪気な声援まで聞こえてきた。
 鎧の下で、冷たい汗が流れるのを感じた。この目立つ格好も、混乱に紛れて事態を収拾し、去って行けば、人々の心に残るまいと考えていたのだが。
 
 最後の猫が倒れると、拍手が沸き起こった。
 子ども達がわあっと寄って来る。冒険劇や、騎士道物語の主人公を見るように、瞳は純粋に輝いている。
 止めてくれ。
 声を出したくとも、それを喉元で止める。明日は軍隊に入る身。正体が知れる片鱗は、一片たりとも見せたくはなかった。

「そこの兵。これは何事であるか」
 人だかりの中から、セフェランが颯爽と出てきた。彼に助けを求めようとしたが、セフェランは、巨大な鎧など目にもくれずに、ベグニオン兵の方へ歩み寄った。
「秘書官どの。お騒がせして申し訳ありません。実は……」
 遠くで兵士がセフェランに何か耳打ちしているのを、ゼルギウスは眺めていた。離れた場所にいるので、言葉は全て聞き取れない。
「……伯の……れいを運ぶ……馬……荷馬……」
 耳打ちされているセフェランは、冷たく、ゼルギウスの知っている穏やかな面とは別人のようだった。これ以上彼に近付くのも憚れるような。
「事情はわかりました。死者が出なかっただけでも幸いです」
 セフェランは冷たい顔と声のまま、兵士に幾つかの指示を出した。兵士らは散り散りに、負傷者や破壊された建物へと走っていく。それを見送ると、ようやくゼルギウスの方へ向き直った。
「騎士どの。この度の助太刀、誠に感謝いたします」
 セフェランはにこりと笑ったが、それは賢者のものではなく、あくまで帝国の文官のものだった。
「それで、もう一つお頼みしたい事がございまして……厚かましいとは存じますが、何分、こちらも人手が足りない現状なのですよ」
 周囲の目があるゆえに、初見のふりをしているのは明白だった。だが、それでも冷たい気迫に押されて、ゼルギウスは無言で真紅の兜を下げる。


 陽は西の空に傾き、人々の熱気はいよいよ増して行く。点在する灯篭も火が点され、家々からは、芳しい匂いが立ち上っていた。
「この辺りでいいでしょう」
 街から少し離れた野にて、ゼルギウスは馬を止めた。御者台から降りると、その弾みで台がぎしりと鳴る。続いて、セフェランも。
 横倒しになっていた荷馬車は、車輪軸が折れただけで、ほとんど無傷だった。街にいた大工に修理を頼み、その足でゼルギウス―――他の者からすれば、真紅の大鎧の男―――は荷馬車の手綱を持った。
「さあ、行きなさい」
 セフェランは荷台の中の者達に、扉を開け放った。先刻の大暴動の影はすっかりひそめ、ラグズたちは縮こまっていた。彼らは、茜色の光に、戸惑いの顔を照らしていた。
 襲い掛かってくるラグズらに、加減なしで剣を奮ったのだが、セフェランから与えられた剣のせいか、彼らは強く打っただけで、大した怪我はなかった。
「あなた達は自由です。どこへでも行きなさい」
  ラグズたちは互いの顔を見合わせ、荷台から飛び降りた。二人には何も言わず、ひたすらに駆けて行く。
「セフェラン様。良いでのですか?」
 ラグズたちが小さくなって行くのを見届けると、ゼルギウスは赤い兜を取った。
 街外れまでの道中、セフェランから聞いた、ラグズ奴隷という存在。帝国内で、先帝が崩御する直前までその存在は横行していた。奴隷解放令が敷かれているが、それは名目上だけで、今でも貴族や富豪のほとんどは召抱えているらしい。彼自身、奴隷と聞いて胸が悪くなったが、議長の秘書官が法に基いての事とは言え、貴族の荷を放つなど、後の立場を危惧してしまう。
「ラグズは、女神が創られた命。奴隷など、あってはならないのです。それが、先帝の遺された意志ですから」
「しかし、あなたは」
「……今回は奴隷そのものが問題ではなく、彼らを買った貴族に対して、まあ、ちょっと」
 表面的なものだけでは仕方がない、とセフェランはゼルギウスに本心の片鱗を見せた。赤く染まっている不敵な笑みを見せながら、議長のお気に入りは、下手な貴族よりいい身分でしてね。などと誰にでもなく呟いていた。
「ところで、その鎧どうでしたか?」
「はい。見た目よりも軽く、動きやすいです」
「それは良かった。女神の加護のお陰でしょう。あなたが中央軍へ配属される前に、さらに改良しておきますからね」
「は、はあ……って、また着なければならないのですか!」
 慌てるゼルギウスを前に、何か問題でもあるのか、とばかりにセフェランは目をしばたかせていた。
「私は、騒ぎを収める為に着たまでです!こんな派手で目立つ鎧など!」
「うーん、そんなに派手ですかね。紅蓮の騎士、とか名乗ったら格好いいと思うのですが」
 何だその二つ名は。
 ゼルギウスは反射的に首を横に振った。意外とわがままなお人だ、とセフェランは眉を寄せるも、すぐに明るい顔になる。
「わかりました。デイン出身のあなたに免じて黒くしておきましょう。私黒好きじゃないんですけど」
「そういう問題ではないです!」
「漆黒の騎士。どうですか」
「どうもこうも!よくないです!」
 赤い空に、ゼルギウスの叫びがこだまする。
 しかし、その叫びも空しく、中央軍に配属され、シエネに戻って来た矢先、彼の目前に黒々とした重厚な鎧が用意されていたのだった。
 


2009/11/14 TOP

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