幼子の歌

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 その子供は、ベグニオンで生まれた。
 その誕生に、祝福を充分に享けた子供だった。女神の愛を誰よりも与えられるだろうと司祭からの言葉を添えられて。

 その言葉通り、その子供は自ら言葉を発せられる歳になる頃には、周囲の大人を驚かせる日々を送っていた。


 …な…い……だれ……で……
 ………アウタ、テ……る……
 ……ない……る……
 ……アウターテ……

 まだ完全な単語も発せられない時期の幼児だった。だが、神官を初めとする大人たちは皆、その子が発した単語が「アスタルテ」なのだと、疑いもしなかった。
 もっと、もっと言って。
 その期待に応えるかのように、子供は小さな背を懸命に大人たちに向け、小さな口を開いた。


 ……で……ねがい……
 ……わた……ここ……る……

 名詞と思わしき単語以外は、誰にも、乳母にすら理解が叶わなかった。いや、彼らの都合のよい言葉以外は無視されたのだ。二歳にもならぬ時より、我らの女神の名を呼んだ。この子は、間違いないのだと。周囲の大人たちは、その子供を中心に期待の渦を作っていた。


 ただ一人だけ、その子供への賞賛を喜ばなかった者がいた。
 その人物はその子に近しい間柄であり、その子供の成長を誰よりも暖かく見守っていた存在だった。その子を産湯に浸からせ、名を与えたその人であった。だが、その子が太陽の下へ生まれ出でた瞬間から、その子供が特別な器だという事に気が付いていた。だからこそ、他の者に気付かれるのを恐れていた。

 なぜならば、この子はわたしと同じなのだから。
 そう思いながらも、その人は膝にすがりつく小さな頭をいとおしそうに撫でた。

 
 期待の視線は薄れる事なく時は流れた。
 その子供もあの時から成長し、語彙も発音も明確な発育を見せ、次代を担う存在として周囲の大人たちを満足させていた。しかし、言葉を話せるようになった時に見せた、あの歌うような言葉は発せられなかった。ただ一人を除いてそれは忘れられているものだが。


 




 廊下を歩く足は重くもあり、だが磨かれた石を踏みしめる度に、意思は強くなりつつあると実感していた。
 足枷を外すのだ。
 それは、玉座についた時からの彼女の積年の夢だった。その決断の後押しに、まだ五つにも満たない子供の意思を選んだと周囲が知れば、彼女を支持する者でも呆れ果てるだろう。だが、彼女はそれが馬鹿げた事などと微塵も感じていなかった。だから、こうしてその道のりを歩んでいるのだ。しっかりとした足取りで。

 中枢部から離れた特別な居住区の一室にて足を止める。扉の両脇にて守護していた兵が緊張の面持ちで背を正した。
 扉の取っ手に手をかけんとした従者を制し、彼女は一人で樫の扉を押し開ける。窓からの明るい日ざしが存分に部屋中を照らし、暖かな空気を作り出していた。

「おばあちゃま!」
 扉を開けた瞬間、小さな影が飛び出した。背中まで伸ばした髪が陽光を受けてきらめき、彼女の体にすっぽりと納まる。愛しい子は、いつもと変わらない笑顔で迎えてくれた事に、思わず凝り固まっていた心が溶けていく。
 従者を外へ残し、彼女は孫を連れて奥の部屋へ進んだ。室内にいる侍女や乳母までも遠のけ、祖母と孫娘、二人だけの空間が生まれた。多忙であまり顔を見せない祖母とともにいられ、孫娘はにこやかに祖母の手を握り、歌を歌っていた。

「あなたは歌が好きなのね」
 揺り椅子に腰を下ろすと、孫娘はその膝にちょこんと座る。身体はまだ軽く、老年の域に入った彼女でも充分に受け止められた。例えどんなに成長しても、命ある限り、抱きとめていこうと誓ったのだ。
「うん。だっておばあちゃまがおしえてくれたもの」
 何の疑いもなく、まっすぐに孫娘は応える。彼女は思わず目を細めた。
 違う。あなたは、わたしが教える前に歌を知っていた。それを隠すかのように、色々な歌を教えたの。
 あれに戸を立てるように、土で埋めてしまうようにしたのは自分。だが、今その封印を押し解こうとしているのだ。何て身勝手なのだろう。

「おばあちゃま、どうしたの?」
 気が付くと、目の前で不安そうにしていた。なんでもないの。と銀の髪を撫でる。
「ねえ。おばあちゃまに歌って欲しい歌があるのよ」
「うん!なんのおうたがいいの?」
 きらきらと輝く瞳は、太陽のような金色をたたえていた。それに罪悪感を肥大化させながらも、彼女は大きく息を吸い、金の瞳の向こうに語りかけるように言った。
「こころ。あなたの心を歌って欲しいの」
「わたしの、こころ」
 呆然とそれを反復していたが、幼い孫娘はやがて小さな口を動かした。以前に周囲の大人たちを驚かせたあの言葉を乗せ、旋律が生まれる。
 それは遥か遠くの祖先が紡いでいた言葉。彼女を初め一部の者だけが知識として知っている程度で、今は誰も使ってはいない言語だった。だが、それを教わっていないはずの少女が、確かにそれを紡ぎ出す。


 泣いているの 誰も知らない場所で
 アスタルテ アスタルテ
 わたしはここにいるの
 空を飛ぶ鳥も、地を駆ける獣もわたしには見えない
 遠くへ行かないで お願い
 わたしはここにいるの
 アスタルテ アスタルテ
 わたしを慰める歌を翼にして あなたの許へ飛んで行きたい

 
 単調な旋律が止むと、金の瞳には瞼が閉じられ、銀の髪は祖母の胸にもたれかかった。温かい肌に気持ち良さそうに規則正しい呼吸を始める。
 その頭を撫でながらも、彼女の瞳は強い光を放っていた。
 やはり、未だ「彼女」は求めているのだ。解放を。女神は未だ「彼女」を許してはいないのだ。そして、やはりこの子が次の器なのだと。

 女神の意思を聞き、地上の民を導く使命を持つ巫女。それがベグニオン帝国の神使だった。それだけではなく、メダリオンに閉じ込められた女神の半身の声をも聞こえていたのだ。いつか、二人が一つに戻り、世界に真の安寧がやって来るその日のために。神使は二人の女神を媒介する器なのだ。

 眠りの世界に浸る孫娘を抱いたまま立ち上がり、彼女は日の差す部屋をゆっくりとあるいた。乳母の手を借りながら、起こさないように慎重に寝台に寝かせると、その足で向かった。帝国の政治の中枢部、マナイル神殿へ。絶対に成功してみせる。例え、何年かかっても。足を繰り出す度に、その思いは強くなる一方だった。


 ラグズ奴隷を全て無条件で解放する。
 神使の言葉に、その場にいた元老院議員、末席の秘書官全てが凍りついた。その後に、最初に言葉を投げかけたのは誰であったかも、彼女は覚えていない。だが、あれほど主張し続けてきても体よく流されてきたこの意思は、孫娘の歌の確信もあっての事か、いささか強引ではあったが可決に結びつきそうな気配が生まれた。達成されるのに何年かかるかはわからない。だが、大きな一歩ではあるとの自身はあった。
 


「おばあちゃま、うれしそうね」
「あら、わかった?」
 寝台で祖母と並んで横になる孫の髪を撫で、彼女はこう言った。
「あなたのおかげよ。あなたの歌で、世界は幸せに一歩近付いたのよ」
 世界の平穏が、女神アスタルテのただ一つの望みだった。それを乱す者は何人たりとも許さない。例え、己の半身であろうとも。先日、その半身の叫びがはっきりと聞こえたのだ。それは、世界のひずみが大きいままだと表している証拠だった。安寧への道の一つとして、彼女は国内で奴隷とされているラグズたちの解放を選んだ。
「ラグズはわかるかしら?」
 予想通り、孫はわからないと金の瞳が語っていた。彼女が物心ついた時から不思議に思っていたラグズの存在。彼らは首に鉄の輪を着けられ、鎖で繋がれていた。話かければびくりと肩を震わせ、身の丈の倍もある大きな身体のはずなのに、まだ少女だった彼女に怯えていた。それを彼女の祖母に伝えれば、悲しい顔で首を振るだけだった。そして、彼らの話をしてくれた。

 明るい月明かりの夜だったはずだが、一瞬で暗闇に覆われた。
 半身を起こして窓に瞳を向ければ、大きな翼が窓枠一杯に広がっていた。いけない。彼女は考えるより先に寝台から降り、窓の鍵を外した。影が揺れ、満月の淡い光が輪郭を映し出す。それでも、黒い翼は月明かりに染まる事はなかった。
「歌に惹かれて、ここへ辿り着きました。昼間にお邪魔しては、ご迷惑かと思いまして」
 穏やかな声が部屋に広がる。寝台のもう一人の主は、すでに安らかな寝息を立てていた。
「あなたは……そう、オルティナの……」
 彼は答えなかった。詳しく問いたださなくてもすぐにわかった。黒い翼と黒い長髪。柔らかな物腰。祖母から聞いた話が次々に脳裏に蘇り、目の前の人物と重なっていく。長年の思いの足がかりを得、その夜に自分の祖と出会う。何と幸運な事であろうか。
 青白い手を取り、自分の手を重ねる。彼女よりずっと長い時を歩いてきたのに、彼の手はすべらかだった。
 彼は、泣いていた。
 涙は流してはいない。だが、心は確かに喜びの涙を流していた。彼女にはそれがわかる。なぜならば、彼の本来持っていた力を受け継いだのが、彼女だからだ。愛していた者と結ばれ、子を成した事が罪だとわかり、妻から去ってしまった彼には思いがけない贈り物だったようだ。
「ですが、あなたは居たたまれなくなって来てしまったのでしょう?あの子の歌が、ユンヌがまだ泣いているという事を知って」
 その言葉で彼は悲壮な顔となり、力なくうなずいた。
「あの方の苦しみを歌う声を聞き、それがベグニオンの中枢にいると知った時は驚きました。けれど、今は納得しています」
 二人の視線は、同時に後方の寝台で眠る少女に向けられた。
「あの子は、本当に素直でやさしい子です。わたしは、あの子にはベオクもラグズもない国を受け渡したい。もう誰も憎みあわないように。種族を超えて、そう、わたし達も胸を張って生きられるように」
 それが実現すれば、自分たちはもう器ではなく、人になるのだ。女神の媒体ではなく、ただの人に。
 出会えて良かった。彼女は心からそう思い、再び始祖の手を取った。今の彼には、人の心を汲み取る力はないかもしれない。だが、伝わったようだ。彼女のもう一つの決心を。苦しそうに首を振るが、もう決めた事だ。もう誰も欺きたくはない。嘘はつきたくない。そして何より、未来のあるあの子に胸を張って欲しいのだ。ベオクのオルティナと、鷺のエルランの子孫なのだと。

「願いましょう、あの子の口からではなく、ユンヌ自身から喜びの歌を聴ける日を」
「そして、アスタテューヌが再び生まれる日を」
 眠る幼子を見ながら、二人は誓い合った。願いが確かな可能性と変わった特別な夜だった。


09/03/15戻る

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