流動




 灼熱の山が見下ろすのはごつごとした岩ばかりの、赤銅色の大地だった。そこに緑らしいものはほとんどなく、点在する灌木も季節の流れを知らぬようで、わずかな葉がいつまでも姿を変えることなく風に揺れていた。

 それは、まるでこの大地の住人たちのようだと、彼は思う。いや、外界に住む者たちから見れば自分も同じなのだが、この大陸で最も長い年月を歩むのは、間違いなくこのゴルドアの一族なのだ。
 見目の問題ではない。時は人の心を変えていく。だが、竜鱗族は自らの意思を悠久の日々の中で貫かせている。火山の膝元で緑なす事を拒むように。例え、他のラグズからも化石のようだと評されようとも。

「七百と二十年は経ったかな」
 褐色の肌は少年の頃のような張りを失い、代わりに年季を感じさせる気をどっしりと纏っていた。その気と荒い粒の砂を踏む音で、彼がゴルドアの王だと知った。
「そうでしたか。いちいち数えてはおりませんでしたので」
 棘を含んだ声に、王は肩をすくませる。あの時、女神と約束をしたのがおよそ七百と少し。「約束の日」まであと二百五十年あまり。それの日がどれだけ待ち遠しいか、それは彼が一番強く願っているはずだった。それまでの年月を数え忘れるはずはないはずだ。
 絶望。
 希望に満ちた彼の矢先に降りかかってきたのは、まさにそれだった。身も心も傷つき、王の許へやって来た彼の姿に、王は二の句が告げなかった。王の許で介抱し、ようやく言葉を交わせるようになっても、かつての友人同士のような会話は出ては来なかった。女神と交わした約束も、あの戦いも、封じたもう一人の女神も、そして、彼女の事も口の端に乗せる事はなかった。何気ない穏やかな日々を送る彼に、その話を紡げば、また打ちひしがれてしまうのではないかという懸念があったからだった。

 だが、世界もこのゴルドアのように永遠に穏やかであって欲しいという願いに、ほころびが生まれているのも確かだった。
 それでも、王は彼にそれを告げるのをはばかった。しかし、鷺の民である彼にはきっと、王が気付く以前よりわかっていた事であろう。しかし、彼の口からも、その事が話題に上がる事もなかった。
 女神が眠りに就き、彼女の希望のために新たな世界を築いて行こうと誓ったのは、間違いなく彼とその友らだった。しかし、時が流れるにつれ、外界から隔たれたこの国からですら、世界の安寧が歪みつつある気配は強くなる一方なのは感じていた。ベオクとラグズはかつて二人の女神が分離した時のように対立し合い、背を背け、不可侵の国境を築き、一方を隷属するまでに至ってしまった。もはや種族を超えた公平な世界などとは、口が裂けても言えぬ状況となっていたのだ。
 
「私は憂いてなどいません」
 王の心を悟ったのか、鷺の友はかつて少年だった男に言う。私は、人を、女神の子を信じているのだと。いつかは自分の愚かさに気付いてくれるのだろうと。
「嘘であろう」
「私が嘘をつくとお思いですか。デギンハンザー」
 子供に諭すように、黒い瞳は覗き込んできた。鷺の民は嘘などつけない。それは、長く彼らに接してきた王も熟知している所だった。例え、鷺の力を失おうとも。王は一糸もない頭を何度も振る。
「言い間違えたようだ。そなたは試しているのであろう」 
 次は、沈黙が返ってきた。
 竜鱗族は、同族同士の不言の疎通はできようとも、鷺のように細やかに心を読み取る術はない。今までも、二人には幾度も沈黙が流れた。だが、今ほどこれが不確かで不安なものに感じたのは初めてだった。


「あの山は、最後に噴火したのは二百年前でしたね」
「ああ」
 空を突かんと高く伸びる山は、今は静かだがその内部では煮えたぎる岩漿がうごめいている。一度この火の山が怒り狂えば、噴き出される岩漿に全てが飲み込まれてしまう。それが収まった後も、熱の世界は消える事なく、所々で炎と煙が残り、再び命が現れるのに数十年の時がかかる。
 若くして王となった彼も、大地の破壊と再生を何度も目の当たりにしてきた。しかし、この土地と火山を忌みた事は一度もない。それをじっと耐えられる時を竜鱗族は生きて行ける。ゴルドアの民はそれを信じて疑わなかった。この土地を出ようと言い出す者は誰もいない。新しい世界となる時、王を中心として一族で決めたものが彼らにはあるからだ。

「アムリタが火山に行きたがっていましたよ。私に昔ほど飛べる力があれば、あの火口を見に行けたのに。残念です」
 突如娘の名を出され、王は太い眉を寄せた。そして沈黙を生む間もなく黒い口ひげを動かす。
「あれは好奇心が強くて困る。弟もそれに影響されてしまうのではないかと心配でならん」
「まるで、朱に交われば何とやらと言いたげですね」
「誰が朱かわかっていればよいのだがな」
 彼の翼には触れる事はなかった。いや、できなかった。彼の子が原因で、彼は鷺の力を失ったのだ。彼の背を覆う黒い翼は、以前のように、もう空を羽ばたく力は残っていないらしい。
 友の深い知識と情は、この国の子供たちにとってとても良い影響となっている。だが、彼が王の子らを可愛がってくれるたびに、王は深い森と業火の洞窟に隔たれた先にいたもう一人の友とその子を思う。その二人も、もう冥府へ旅立ってしまったのだが。ベオクとラグズの婚姻により生まれた子が、人々の垣根を取り払う役目を担ってくれるに違いない。あの時は、祝福した誰もがそう思っていた。

「そう悲しまないでください。あの子には、オルティナがいました。ベグニオンの民も祝福してくれました」
「だが」
 寄せられた眉は、より深いもの、そして別の意味をたたえていたのに彼は気付いていた。翼よりも深い闇色の髪を揺らし、また上を見据える。
「私の子孫はこれからベオクとして生き、ベオクとだけ結ばれればよいのです。私の血など、今ではもうほとんど感じられない。もう誰も悲しまなくて済むのです。種としての交わりはなくとも、心は通い合える。それで、いいではありませんか」  
 彼の視線はずっと空にあったと思ったが、それは高くそびえる赤銅色の山にあったのだと王は気付いた。この山に深くうごめく岩漿ではなく、雪山から流れ、やがては海へたどり着く清流のように彼の血が希釈されていけばいいのだと彼は思っているのだろうか。
 この世界が望まぬ方向へ進んでいると気付いたと同時に、王はさらに別の不安を感じていた。この鷺の友の内面にある思いそのものが、煮えたぎるほどの高熱を持っているのではないかと。時に、彼の中で濁流のような轟音が聞こえているのだ。いつしか、それはあの山のように噴出してしまうのではないか。それがこの世に流れ出て、全てを溶かさんとしているのではないだろうか。

「約束は、違えぬ。決して」
 それが近い将来である気がしてならなかった。それを塞ぐように、王は呟いた。
 隣にいた彼は、優しくゆっくりと美しい顔を揺らした。



 それでいいのだ。
 彼は無言で褐色の肌の友にうなずいた。
 不変。
 眠りに就いた女神が望むのは、まさにその一文字。だが、例えどんなに正義と安定の理を敷いても、変わって行くものはあった。生ける者の変化は、常に女神の手のひらを超えて行く。ベオクとラグズの血の交わりが、このような事態を起こすなど、誰が想像できたであろうか。国の設立者たちの理念と制御の手綱も利かず、女神の子らが種族内外でいがみ合う事など、あの頃の自分たちに予想できたであろうか。それが命だと悲しそうに微笑んでいた彼女はもういない。

 膨らみつつある憎悪の念と、ユンヌの悲しみは、彼には痛ましいほどに届いていた。力を失った事への傷は癒えても、迫り来る負の気が心を晴らす事はなかった。渦巻く負の気配は遠くからなっている。時から置き去りにされたような不動の大地だからこそ、彼にある行動を与える気力を作り出していた。
 約束は違えない。
 それは竜の友と同じく、彼も信念としていたところだった。だが、それとは別の部分で、彼はまだ信じていたかった。歌を失った自分がメダリオンに封じた彼女の悲しみを慰める術は、あとひとつしか残ってはいないのだと。これは、最後の機会なのだと。冥府で、彼女はどう思っているのだろうか。それだけが気がかりであった。しかし、もう戻る気はない。

「あなたの言葉を信じますよ。デギンハンザー。だから、私は行こうと思います。ベグニオンへ」
 不動の友は、彼の言葉に息を呑む。流れがより激しく動き出したのだと。
「ならん」
 語気も強く、彼の言葉を否定するが、止めるには余りにも脆弱すぎると自ら感じていた。全ての種族の力の頂点に立つ竜鱗族の王は、非力な鷺の前には無力だった。
「これから私の行いを、どうか許してください。いや、許さなくてもいい。ただ、あなたはあの日の約束を守ってくれればいい」
 彼が何をしようとするのか、王には理解が行き届かなかった。だからこそ、それを制止する力もない。王は幅広い肩を落とし、首を振った。自分の役目は、女神との約束を違えぬ事。二人の女神の眠りを決して覚ましてならないのだ。そう決めたのは、七百年以上も前ではないか。
「アスタルテの名の下に」
「アスタルテの名の下に」
 空を仰げば、ゴルドアを見下ろす火山の山頂から、灰色の煙が立っていた。


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