手のひらからすり抜けて



 ベオクより、ラグズの人数の方が多い軍の中にいて、オスカーと言えども常に平穏ではいられなかった。異種の中は、異国にいるよりも精神を疲弊する。ましてや、この戦争は獣牙の国に雇われるまでまったく影すら見えなかった突然の知らせであった。さらには、現在の風向きはこちらに芳しくない方向に吹き始めているらしい。軍の上部が時折顔色を悪くして軍議用の天幕から出てくるのを見てきた。

 習慣や価値観の違う者と長い期間寝食をともにすればそうなる事は予想していた。だが、三年前のデイン=クリミア戦役での経験がかえって仇となり、予想以上に気をすり減らすはめになってしまった。あの時分、圧倒的に少数派だったのは向こうの方で、オスカーはただ異種間交流の体で彼らに接していたのだ。
 今回もオスカーはラグズに対して敵対心と拒否感を肚に接していた訳ではない。その逆だった。彼らが、オスカーたちグレイル傭兵団のベオクたちへ不審と嫌悪を露わに視線を送ってくるのだ。
 


 そんなオスカーの見えない疲労を他所に、新たな心労の種が突如舞い込んで来た。本来なら、来なくてもいいはずのもの。無視しても構わなかった、はずだった。
 真夜中の任務を終えて、日が昇って久しい頃。天幕の入り口の辺りで、猫の戦士らが眉目を寄せて囁き合っていた。長身の男たちの林の向こうで、女の甲高い声がする。通りがかったオスカーの眉間も、無意識に皺が寄った。

「何と言われようが民間人は立ち入り禁止だ」
 明らかに困惑の色を混ぜた声で、恐らく目前にいるのであろう女に言い放つ。意図せず立ち止まって耳に入れてしまった声は、鼓膜を叩けば叩くほど、確信へと変わって行った。少女と言っても過言ではなかった頃の、オスカーの父に浴びせていた悲鳴とあまり変わってはいなかった。もう名実ともにいい大人になっているはずだが、感情的な部分はそのままのようだ。
 早く立ち去った方が良いのではないか。
 そんな意志が脳裏をよぎる。最もだ。本来、あの女はここにいるべき者ではないのだ。自分の幸せを考えて、小さな手を離したのは彼女自身ではないか。
「だから、ここは軍隊の駐屯地なんだ。民間人は立ち入れないんだ。帰ってくれないか」
 獣牙の男は、なおも帰るよう女に告げる。穏かな口調だが、苛立ちを孕んでいるのは目に見えていた。戦闘に長けた彼らと言えど、相手は非戦闘員である、しかも女には到底扱いに困っているようだった。例えそれが、心の隅で嫌悪するベオクだとしても、戦い以外では乱暴にはできない。

「あ、あなた……?まさか……」
 女の声色が急変した。ほら、すぐに行ってしまえばよかったのに。後悔はいつも遅れてやってくる。体格のいい、だが、しなやかな体つきの男たちの隙間に、オスカーの姿が見えたようだ。猫の民たちは一斉に女の声と視線を辿る。オスカー、すなわちベオクの姿を見つけ、安堵が広がった。
「ああ、あんた、丁度いい。この女が入れてくれと言って聞かないんだ」
 対応のしようがないベオクには、同族であるベオクに任せてしまおうという魂胆が言わずともわかる。首を上げ、入り口に細い目を遣れば、見覚えのある女が立っていた。記憶よりかなり大人になっていた。だが、まだ若いと言える見目だ。おかしな感想だとは自分でも思う。あの時から、並んでいれば姉弟にしか見えなかったのだ。
「ああ、やっぱり!オスカー、オスカーなのね……ああ、女神さま!」
 大きくなって、と涙声に混ざった呟きが聞こえた。彼女も、オスカーと同じ感想を持っていたらしい。だが、それは感動を呼び起こすものではなく、かえって嫌悪に近い波が押し寄せてきた。
「知り合いか」
 安堵に輪をかけたような気を向けられ、ようやくこみ上げる感触を抑える事ができた。
「そう、そうよ!オスカー、お願い。あの子に、ヨファにどうか―――」
「いい加減にしろ!」
 新たな声が、女の訴えを遮った。いつの間にか上の弟がそこにいた。怒りを隠す事なく奥歯を噛み締めて。
「ボーレ、あなたも……」
「帰れよ!どの面下げてここへ来たんだ!」
 ボーレの怒声に、短い期間の母親は息を飲んだ。成り行きを見ていただけの戦士らも、困惑を浮かべて仲間と視線を交わしている。
「わたしも辛かった。でも、頼るべき夫を失って、小さな子どもを抱えて、女ひとりでどうやって生きていけばいいのか」
 それは、オスカーが大人になった時、ふと彼女の事を思い出して見つけた回答だった。答えは、ぴたりと当たっていたのだ。まだ若かった。そんな中、子ども三人を抱えて生きて行くのに不安を覚えた。涙混じりに紡がれる言葉は、彼の中でそうだろうと脳裏の隅に押しやった事ばかりだった。
「あなた達にした事は本当に申し訳ないと思っているの。だけど、ひと目だけでも。お願い……!」
「ふざけんなっ。あんたの勝手のせいでおれ達がどんな目に遭ったのか知ってるのか!」
 しかしそう決着をつけたつもりでも、ボーレの怒りはオスカーの胸の奥底を代弁しているようにも思えた。三度も妻を迎えた父の事、若すぎた母の事。それが原因で故郷を離れた事。それはまだ若いオスカーにとっても遥か昔の事ようにぼんやりと残っているだけのつもりだった。なのに、弟の憎しみを含んだ声は、父親の死体と一緒に土に埋めたはずのそれらを、一気に掘り返す。
「帰れよ!あんたにその資格はねぇ」
「ボーレ、後生だから……」
「いい加減にしないと」
「ボーレ、止めなさい」
 考えるより先に、オスカーの大きな手が弟を止めていた。いくら短気な弟でも、簡単に女性には手荒な事はしない。だが、今のボーレは明らかに頭に血が上りすぎていた。相手が相手でも、それはやってはいけない事なのだ。それに、弟を止めたのにはもう一つ理由がある。彼女の目的は自分たちへの謝罪ではないのだ。
「ここで待ってて下さい」
「兄貴っ!」
「オスカー!ありがとう!」
 二種類の正反対の感情が同時に彼に向けられる。オスカー自身は、その間に立ち、極めて冷然としていた。
「勘違いしないで下さい。私もあなたを許した訳ではありません。ですが、それを決めるのはヨファ自身です。弟が否定すればあなたは大人しく帰って下さい」
 わかったわ。と、感嘆の声を背中で聞き、捨て台詞を吐こうとするボーレを制しながら本陣の奥へと向かって行った。

「兄貴、何でだよ!」
 土を踏む荒々しい音は、二重となって次第に早くなる。正直、なぜあのような条件を出したのか、オスカー自身も不思議だった。だが、声に出して提言してしまった以上引き返す事はもうできなかった。後はヨファの心次第だ。
 逢わせたいか、逢わせたくないか。
 自分自身なら、もう親への心積もりは片付いている。だが、父親が死んだ当時は生まれて間もない赤ん坊だったヨファの、親に対する感情はオスカーでも察せない。育ててきた身として、兄としての身から見ても、それは図り知る事ができなかった。だが、一つだけわかるのは、彼はまだ子供ではあるが、もう自分で考えられるまでに成長しているのだ。早すぎる成長だと、周囲の者は口を揃えて言う。感心と、憐憫を含みながら。オスカー自身もそう思う。物心ついた時分から傭兵団にいて、年端もいかぬ頃より戦場に立ち、己で生きる術を学んできた。いささか早すぎる流れに身を置かせてしまったと自己嫌悪に陥る事もあった。だが、同年代の子供と比べて、精神面はずっと大人になってしまった事実は取り返せない。
 だから、彼自身の気持ちに委ねてみようと思ったのかもしれない。逢いたいかと訊いて、応と答えても否と答えても何も口を挟まないつもりだ。ボーレにも、そう強く忠告した。上の弟は心底不満そうだったが、やがてオスカーの心中とヨファを察したのか、憮然としたままだがうなずいた。


「逢わないよ」
 末弟の返答は、意外なほどに呆気なかった。ボーレですら、先刻のやり取りを忘れたかのように「いいのかよ」と慌てた声を上げている。
「だって今さら。顔だって覚えてないのに」
 そう言うと、すぐに兄たちに背を向けて矢を番える。訓練用の矢は、弦の音を短く奏でて指から離れ、丸太の的に命中する。オスカーが以前見た時よりも、その距離は離れているように見えた。
「ヨファ、てめえ……!」
 実子が継子らよりも平然としているのに我慢できなかったのか、ボーレが一歩歩み出る。それをオスカーは黙って肩に手を置いた。首だけ振り向くボーレに、ただ首を横に振るだけだった。
「もういい。ヨファが決めた事だろう」
 そう諭すと、二人を残してオスカーは野営地の入り口へ一人で引き返した。矢が空気を切り裂く音が遠くでも聞こえてきた。
 あっさりして、即決の答えだが、意外と苦渋の決断なのかもしれない。踵を返した末弟の背中は、まだ小さいがぴんとしていた。二人の兄とも、父親とも似ていない後ろ姿。幼さが強いせいもあるが、どことなく女性的な、彼の弓の師に近い雰囲気を持っていた。
 思えば、彼を激流のさなかに投げ入れたのは自分ではないか。三年前も、強く止めれば素直な末弟は戦場に出るのを待ったかもしれない。だが、突然戦場に現れても、それを咎めずに認めたのも自分だ。その時の理由も、「ヨファが自分で決めた事だから」と言った。本心であったはずだったのだが、なぜか今間違ってしまったのかと疑問が残る。今回も、入り口で否定すれば、彼^に決断をさせる羽目にならなかったのかもしれない。あの背中に、自分はさらなる重い物を乗せようとしているのか。オスカーの胸がちくりと痛む。罪悪感と言う名の矢だった。


 この件は、それ以来兄弟たちの間で口の端にも上らなかった。三人の、他人には図り知れない共有する感覚が、彼らを不文で包んでいた。
 だが、一度だけ珍しく深酒を仰っていたボーレがオスカーにもたれかかって来た事があった。
「ムギルの駐屯地襲った時によ、偶然逢ったんだって」
 オスカーの背中に額を押し付け、ボーレは唸るように声を出した。誰が、誰になど問う必要はなかった。ムギルを制圧した後に、あの出来事があったのだから。
「兄貴があの女説得している時に聞いたんだ。真っ暗な中、敵に吹っ飛ばされて民家の中に転がったんだと。その民家に……」
 オスカーは黙って弟のうめきを聞いていた。ムギル襲撃の場面が、まざまざと蘇る。月のない夜だった。そんな夜だからこそ、この作戦をセネリオは選んだのだ。馬を駆け、篝火を消して回ったのはオスカーの任務だった。
 記憶の中には、真っ暗で怖かったと笑いながら帰還したヨファがいた。その時、何か変わりなかったか。それを気付かない自分は何のためにいるのか。任務を遂行する事が最優先された状況だったが、それでも弟の様子に目を配れない自分を責めやる。オスカーも少し、酒精に身体を侵されていたせいもあるかもしれない。
「兄貴があの女追い返してる間にさ、あいつおれに言ったんだ。ボーレは大切な兄だって」
 酒精が身体全体に回りきったボーレは、不意に話をムギルから、夜が明けた駐留地の話になっていた。長年の慣れのせいか、オスカーには何の齟齬もなく伝わっていたが。
「そうだろう」
 自分とは違い、ヨファのボーレに対する態度は完全に同等か、それ以下のものに見える。傍から見れば。だが、十近く年上の男に、しかも礼儀正しいと言われる末弟がああもなれるのは、ボーレがヨファの兄だからに他ならない。
 だが、そんな仲だからこそ、胸の内の想いを吐露されてボーレは正直戸惑っているのだ。
「ちゃんと逢わせてやった方が良かったのかもな。あれな、きっとおれ達に気ぃ使ってたんだぜ。きっと」
 ボーレの吐き出すような呟きに、オスカーは相槌すら打たなかった。薄暗い天幕の中、少し丸めた背中に弟の体重を感じる。ボーレの戸惑いは酒が混ざった熱い息となり、末弟の行く末を案じていた。

「ガキだチビだ言ってるうちに、おれらの知らない所で大人になっちまったんだよ。あいつ」
 それはお前にも言えるよ。
 言葉にもならない独り言だった。
 

 翌朝は日が顔を見せ出した頃から進軍の準備に追われていた。このまま進めば、ベグニオン帝国中央軍とぶつかる予定だった。天幕を片付け、荷馬車に積むのも手ずからやらなければならない。
 街の市場に似た喧騒が一帯を包む。だが、商業街の忙しさと違うのは、これから後数日も経てば大規模な戦闘が待っている事だった。陽気な騒がしさの中に、緊張が漂い始めていた。
 片付け作業の嵐の中央で、別の騒ぎのような歓声や怒声が響き渡った。さすがにこれは何かある。オスカーはふと手を止め、獣牙族の男たち声がする方角に首を向けた。事故でも起きたのか。不安と懸念がこみ上げてきた矢先、見知った顔が青ざめた顔で小走りにやって来た。
「オスカー、大変なのよ」
 至極落ち着こうとしてはいるが、グレイル傭兵団副団長の声は明らかに困惑していた。
「何がですか?」
「ヨファがね―――今すぐ行った方がいいわ」
 説明する間ももどかしい、と言った様子で、ティアマトがオスカーの背中を促す。ヨファがどうしたんですか。向かっている最中にそう訊けば、ティアマトは「ヨファが喧嘩してるのよ」と短く答えた。喧嘩?誰と?相手がボーレとなら、彼女はここまで血相を変えないだろう。こうして慌てて自分の許へやって来るのだから、相手は……そこで、オスカーは先刻の獣牙族たちの声を思い出した。
 予想通り、獣の耳と尻尾に囲まれて弟はいた。いや、彼らはただの野次馬で、その輪の中央で末弟と似た年頃の見た目の虎族が取っ組み合っていた。大人たちは止めるどころか、喧嘩を盛り上げようと方々でけしかけていた。
「ヨファ、止めないか!」
 オスカーの制止の言葉は男たちの囃し立てにかき消されてしまう。中へ割って入ろうと試みても、屈強な獣牙の戦士らを押しのけて行くには至難の業だった。それどころか、「これから面白くなってくるぜ」と彼の行く手を阻む者もいた。
 争いの原因を尋ねても、ティアマトも近くの獣牙族も首を横に振る。オスカーが来た当初から痣だらけにしていたヨファの肌は、更に赤黒くなり、血を滲ませる箇所を増やしていた。一刻も早く止めなければ。自分たちは今から戦地へ赴くのだ。しかも相手はベオク屈指の軍隊。無駄な暴力と内輪揉めで戦力をくじく訳にはいかないのだ。
 今までやられっ放しだったヨファが、相手の隙を付いて動きを見せた。今までとは違う素早い動作に慌てる少年をよそに、ヨファは背格好も近い虎族の身体に突きかかる。形勢が逆転し、歓声が沸いた。虎になれば見事な銀の毛並みになるであろう髪に土埃の化粧がされ、縞の走った頬が赤く膨れていく。負けじと広い額で応戦しようとするが、ヨファはそれを巧く避け、反対に耳の先に噛み付いた。少年の悲鳴が大人の野次を掻き分ける。
「ヨファ、ヨファ!いい加減にしなさい!」
 強引に筋肉の壁を押しのけ、オスカーはようやく輪の中央へ躍り出た。その頃には、相手の負傷はヨファのそれを超えていた。突然の中断に周囲は不服の声を彼に投げかけるが、彼らには目もくれずヨファの脇を抱え、虎の民から引き離した。ヨファの目はオスカーに一瞥もくれず、ただ目の前の相手を睨み付けていた。その瞳は誰でもわかるほどに憎悪に燃えていた。今まで見た事のない、弟の他人に対する激しい感情に、オスカーの胸にも戸惑いが生まれるのを感じた。





「―――本当に、申し訳ありません」
 まだ片付けられていない天幕の入り口をくぐるなり、オスカーは軍の幹部らに頭を下げた。しかし、午前中の光を通して明るい天幕内は、それほど不穏な空気とは言えなかった。上層部の大半がオスカーら兄弟の見知った面々、いや家族同然の仲間だという事がその理由の大半であった。

「しかし、あのおチビちゃんがなぁ」
 ライなどは嫌味でもなく素直に感心したような笑みを浮かべている。その隣で大将スクリミルは、途中で止めたという事に対して不満の意を述べてライに窘められていた。
「子供の喧嘩ですが、軍の足を止めた事は事実です。後々になりますが何か懲罰を考えないと」
「それは重くはないかしら。せめて双方の言い分を聞いてからでも遅くはないと思うのだけど」
「行く先には帝国の中央軍が待ち構えているのですよ。ここは学校じゃない。軍隊です。自分たちのした事を軽く考えないようにさせないと」
 ティアマトが難を示すが、これはセネリオに分があるようにオスカーは思えた。彼らの話し合いに口を挟む権利はオスカーにはなく、ただ、頭を下げて処分を待つのみである。
 ライが一息つき、オスカーの肩に手をかけた。
「あいつも今回が初陣でな。気が立ちすぎている節があったようなんだ。だが、ベオクの友兵に突っかかったのは確かだ。キサにきつく指導するように伝えるよ。まあ、理由如何によるけどな。今は一刻も早く鷹王たちと合流しなくちゃいけないんだ。許してくれ」
 ライの言葉を皮切りに、天幕内では無言の同意が広がった。セネリオもそれほど不服と言った顔でなく頷いた。先刻の彼の言葉通り、軍律を乱したとは言え、それに時間を割く暇が惜しいのだ。
 

 オスカーは一礼し、天幕を去ると、獣牙族の天幕があった平地から悲鳴が聞こえた。だが、それが先刻のような深刻なものとは思えなかった。それに隠れて、落ち着いた大人の声で「これくらい我慢しろ」という声が耳に入ったせいかもしれない。あの少年か。反射的にそう答えを出し、同じく治療されているだろう弟を探そうと周囲に首を巡らしたが、先ほどの少年の声のすぐ傍で、弟のうめき声らしきものが鼓膜を響かせた。
 数人の大人に囲まれて、二人の少年が胡坐をかいていた。彼らは今は野次馬ではなく、ベオクも混ざった保護者、いや上官だった。

「な、なあ。ベオクにはライブの杖ってもんがあるんだろ?あれって痛くな……いてぇっ」
「ライ隊長からの心遣いでな。とびっきり効く薬を使ってやれとさ」
 男の腰の皮袋から新たな薬草が取り出され、豪快に手の中で磨り潰して虎の耳に押し付けた。食いしばった鋭い犬歯が痛みを噛み締めようとするが、巧くはいかないようだった。
「さあ次はベオクの小僧だ」
 大人の虎の広い手が、腰の皮袋に滑り入る。ヨファの顔が一瞬強張ったが、その時オスカーと視線がぶつかった。すぐに、ヨファは兄から顔を逸らすように両目を固くつぶる。オスカーはゆっくりと近づいて、弟の手当ての様を眺めた。
「おう。兄貴が来たぜ」
 腰に手を当てて様子を見ていたシノンが片頬を上げた。オスカーは親類だが、戦場の上官に当たるのは、彼なのだ。喧嘩の事は上官として報告されたのだろう。良薬の痛みに耐えるヨファを背に、オスカーはシノンを少し離れた場所へ連れ出した。
「喧嘩の原因?ああ、何でもチビだとかニンゲンだとか言われたらしいぜ。あんなんで切れちまうとは、まだガキの証拠だ」
 シノン自身、ラグズ連合軍の獣牙族たちと小さな諍いを起こして上層部に逐一報告されている。オスカーは軽くため息をついた。
「それで、かっとなって先に手を出したのはヨファの方なんだね」
「みたいだな」
 獣牙族の中に、十数名のベオクが参戦する。ベオクに対する嫌悪の目は、下部に行くほど強いとライから聞いていた。初陣の少年が、今まで悪意の篭った伝聞でしか聞いた事のないベオクを目にし、しかも共に戦うとなれば自然と偏見を持つのはわかる。しかもその矢を受けたのは子供であるヨファだ。自分もだが、あの子が今まで接してきていたのは、ベオクに友好的なラグズたちばかりだったのだ。
 
「しかし、意外なもんだな」
 シノンはしきりに背後を気にしながらそう言った。
「おまえの下の弟。上の弟はまあアレだけど、案外まだガキらしいとこ残ってたって言うか」
 ヨファは、彼に憧れて弓を持った。オスカーは始め、言動も決して良いとは言えず、団長に反発ばかりしているシノンを師とするのには難色を示していたが、弓の腕は確かな事は知っていた。だから、口には出して異を唱えた事はない。時折彼を真似て口が悪くなるのには閉口するが。
「まだ子供だよ、あの子は」
「お前ね」
 シノンは腰に手を当て、鼻を鳴らした。
「いつまでもそんな事言ってっと、愛想つかされちまうぜ」
「どう言う意味だよ」
 どう言う意味って言われてもなぁ、とシノンは腰にない手で赤い髪をかき上げる。
「干渉のし過ぎはかえって悪い方向に育っちまうって事だ。おれみたいになっちまうぞ」
 手をひらひらとさせ、シノンはそう残して去って行った。「後はよろしく」と捨て台詞もつけて。

「ガキだチビだ言ってるうちに、おれらの知らない所で大人になっちまったんだよ。あいつ」
 ボーレの言葉と、先刻のシノンのやり取りが重なった。
 


 オスカーが再び治療されている少年たちに近づいた時には、二人とも包帯の武装を完了していた。傍にいた虎の上官―――キサ小隊長は、深々とオスカーに頭を下げる。長身の虎族の下げられた銀の頭に、オスカーは慌てて首を振った。
「弟君への無礼、なんとお詫びを申し上げたら」
他の獣牙族の粗野でくだけた雰囲気とは違い、キサはベオクのオスカーから見ても礼儀正しい、いや固いと評せる人物だった。灰色の耳と尻尾がなければ、ベオクの軍人と言っても通じるだろう。
「そんな、最初に手を出したのは弟の方で」
「しかし、暴言を吐いたのはこれの方でして」
 ちらりと治療済みの子供たちを見れば、ばつの悪そうな顔で周囲に視線を巡らしていた。だが、意を決したように虎の少年がオスカーに向き直る。
「そうだよ。ヨファに酷い事言ったのはおれの方だ」
「でも、最初に手をだしたのはぼくで―――」
 堰を切ったように、虎の少年が自分が悪いとオスカーに告げる。それを庇うかのようにヨファもたたみかけた。それから、「おれが悪い」「いや、ぼくが」の応酬が繰り返しが続いた。
「―――あんたたち、いい加減にしなさい!」
 キサの叱咤で、それはぴたりと止む。だが、いくらかの間を置いて響いたのは笑い声だった。
「まったく、この子たちは……」
 獣牙の小隊長は、あきれながらも先刻の軍人然とした固い雰囲気はすっかり消えていた。それにつられたのか、オスカーにも思わず笑みがもれた。


 
 かなり時間を浪費してしまったが、本来の作業にヨファを連れて戻る事ができた。怪我は見た目より深くはなく、今後の進軍と参戦には何ら問題はなかった。
 その短い道のりで、ヨファはオスカーの胸の辺りでぽつりと声を出した。
「弓は卑怯だって言われたんだ」
 横にいる弟は、小石を蹴っていた。
「武器を使うのは非力なニンゲンのやり口だ。その中でも、弓は遠くから相手を狙い討つ卑怯中の卑怯な武器だって」
 恐らく、ヨファの口から出た本当の諍いの理由だろう。彼の弓の師に言えば、不快に思うとの気遣いだろうか。もっとも、あのシノンがこれ位で心を傷つけるはずはないとは思うのだが。
「ヨファ」
 弓は大切な戦略の一つだ。だが、それは本人もわかっている。シノンの腕に憧れ、傭兵団の力になりたくてここまでやってきた。それを否定された事、そして、獣牙の少年の理も理解してしまった事。二つがせめぎ合って罪悪感のような塊を胸に残しているのだろう。だが、
「彼もきっと知る事になるさ。ベオクの武器も捨てたものじゃないって」
 オスカーと交流のあったラグズの戦士も言っていた。「鉄の武器は役に立つ。好きにはなれないが」と。
「なに。彼は今回が初陣なんだろ。お前が見せてやればいいさ」
「そうだね」
 ヨファは屈託のない笑顔でうなずいた。すでにあの少年とは打ち解けているのだ。これ以上のなぐさめも必要はないだろう。代わりに、と萌木色の頭に手を置いこうと右手を動かしたが、それは最後まで成し遂げなかった。
「あ、ボーレだ」
 視線の先にボーレの姿を見つけると、ヨファは手を振った。困ったような、呆れたような顔で次兄は弟を迎える。背は気が付けば小さくなり、弟たちは談笑に花を咲かせていた。
 まだ彼らの背がもっと低かった頃、不安そうに駆け寄る頭に手を置いて、何度も飽きる事なく撫でていた。それを苦にした事もなく、ただそれが自分の使命なのだと成して来ただけだった。
 最後に弟たちの髪に触れたのはいつだったか。決して滑らかとは言えない自分の手を見やる。オスカーの大きな手のひらには、大きな余裕ができたのだと、ようやく認める事ができたのだ。


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