見上げた空に



「あの日」から、空がやけに綺麗になったと感じていた。特に、ここ数日続いていた晴れ空は美しい。だが、レオナルドはその薄水色の空を、決して長く見る事はなかった。
 澄み切った空を突くように、巨大な塔がそびえている。それが嫌でも目に入るからだ。
 
 交代の合図を受け、レオナルドは小鍋を取りに天幕へ足を向けた。布陣の片隅に設けられた火場に、それを吊り下げる。火をおこそうとすると、先客が残した灰が舞う。思わず目を背けると、荘厳な空気を纏う塔が視界に入ってきた。少しの間それを眺めると、レオナルドは舞い上がる灰を手で振り払いながら、顔を焚き木に戻した。吊り下げた小鍋に水を注ぐ。裁きの塔を後ろにしても、その威厳はいつまでも背に降りかかっているように感じていた。
 ベグニオン帝国の象徴、「導きの塔」。この美しいまでの静寂とは反対に、今、あの巨塔の中では熾烈な戦いが繰り広げられているのだろう。まさしくこの世界の運命を左右するような。熱により空気が泡立つ鍋を、レオナルドはじっと見つめていた。
 塔の中では、どのような事が起こっているのだろうか。皆はもう女神に相見えているのだろうか。負の女神ユンヌに選ばれた仲間は、無事だろうか―――
 

「レオナルド」
 思い描いていた、塔の内部へ消えた者達の背中は、明るい声にかき消された。その声は何年も前から聞き飽きていたのでさして驚きもしない。レオナルドはそのまま、野菜を切った。
「ここいいか?」
 レオナルドの返答を聞くまでもなく、焚き木を挟んだ向かいにエディは座った。手にはパンとチーズ。これが許可証だとエディは告げていた。そして彼もまた、レオナルドの傍に積まれていた根菜に手を伸ばす。二人は黙々と、湯が沸き立つ音を聞きながら、野菜を小さく切り刻んだ。
「ミカヤ達、無事でいるかな……」
 しばらくの沈黙の後、エディはそう呟いた。レオナルドはそんなエディに一度顔を向けるが、再び視線を小鍋に戻す。切った根菜の淵が透き通って見えたので、血抜きして切り分けておいた兎肉を放り込む。見回りの前に捕った獲物だ。その桃色の塊が、うっすらと白く変わり、泡を纏って浮いて来た。
「無事じゃないかな」
 大分遅れてレオナルドは返答した。その声で再び思い描かれた姿のせいだ。屈強なラグズの王達、それにも劣らぬ傭兵団長。ベグニオン帝国皇帝。それに、ミカヤ。彼らを中心に選ばれた者達は、皆武に卓越した者ばかりであった。レオナルドの胸中に「あきらめ」という言葉が浮かんで来るような。
「お前さ、ミカヤ達が塔の中に入ってから機嫌悪いだろ」
「うん。そうだね」
 レオナルドの木杓を持つ手はそれでも止まらなかった。エディの手から放り込まれたチーズが、ゆっくりと溶けて広がっている。
 
 諦めていたのに。
 
 選ばれなかったのは自分の力が足りないのだから。それも、圧倒的に。敵対していた時は全く感じなかったのに、共に弦を引くようになってから、自分の腕は彼らよりも未熟なのだと思い知らされた。
「エディは悔しくないの?」
 エディは塩を加えていた手を止め、屈んでいた半身を起こす。
「確かに、悔しいよな」
 しばらく「うーん」と唸った後に答えが出た。
「デインでベグニオンと戦った時さ、ツイハークさん見て凄げえって思ったよ。それに、あの漆黒の騎士!まじで敵わねぇよなーって諦めかけてた」
 そう言いつつも、きらきらと輝かせるエディの青い瞳を、レオナルドは直視する事ができなかった。
「それでも、おれも頑張んなきゃ、あの人達みたいにならなきゃ!って思ってた」
 
 そうだろう。ぼくもそう思ったよ。でも―――
「でもさ、デインがラグズ連合と戦争した時、どうしても駄目だって思った。アイク団長……ううん、グレイル傭兵団って本当に強いのな」
「そうだね」
 小鍋のスープがこぽこぽと音を立てて、所々に厚い膜の気泡を作っていた。湯気とともに、濃厚なチーズの香りが立ち昇っている。
「サザがあの人を尊敬するだけの事はあるよな。本当に敵わない」
 そう呟くと、エディは持っていたパンを二つに割り、レオナルドに差し出した。ちらりと見たその先には、今までのエディには感じかなった、落ち着きや穏やかさを見て取れた。
 グレイル傭兵団のアイク。つい最近まで、敵の大将だった男。強さも然る事ながら、種族を乗り越えた信頼が彼に集まっていた。確かに、彼に張り合おうなどという気すら起きない。
「だからさ、おれ、ここでおれができる事をやるんだ」
 「トパックと一緒にさ、最強の『凡人』目指してんだぜ」と屈託のない笑みを見せる。うらやましい。だけど、エディらしい。
 レオナルドは後ろを振り向き、天高く伸びる塔を見る。神々しい塔。自分はまだ見出せていないのだ。消えてしまった己の価値観を。その反面、この大陸の信仰だった―――瞬時に人を石にするような超人的な能力を持った者―――女神に相対する事なく安堵している事に気付いてしまった。それが、自分の底の浅さなのだとも。

 では、自分も友に倣おうではないか。このテリウスの命運は卓越なる者に任せ、自らは小さな力でいいのだ。その力が、微力ながらも支えになっている。そう信じてもいいのだ。
「お、レオナルド。やっと笑った」
 エディ自らもにやりと両の口端を上げた。芳しい湯気に気付き、木杓に手をかける。いつの間にか、彼は左手に椀を持っていた。
「エディ」
 静かに親友を呼び止めると、いざ盛らんとする手が止まった。
「そっちの肉はぼくのだ。取るなよ」
 
07/12/16   Back