噂花




 そ、それは本当か?ユリシーズ」
 ジョフレは身を乗り出して友人に詰め寄った。動揺を隠せないクリミア王宮騎士団長とは対照的に、クリミア王国宰相ユリシーズは口髭を悠然と動かす。
「兵士らの立ち話をしていたのを耳に挟んだので詳しく訊いてな。何でも、毎夜毎夜、我らが陛下の天幕から、悩ましいお声が聞こえるとか……」
 小さな燈篭が照らす天幕には絶望が広がっていた。ユリシーズの言葉を、現実を打ち消さんばかりにジョフレは首を振り、叫ぶ。
「まさかっ、まさか……!」
「落ち着きたまえ。夜半は声が響く」
「だが」
「あくまで噂やもしれん」
 そう諭すも、落ち着く方が無理だと、せわしなく外を振り向く彼の体が示していた。その落ち着きのない様子にユリシーズは肩で一息吐く。無理もない。物心つく頃から傍にいて、誰よりも大切に思っていた主君が、自分ではない誰かと恋仲にあるなど。さらには褥を共にするような仲である事など。宮廷の色話に慣れたユリシーズでさえ、その話を初めて聞いた時はうろたえたものだ。
 やはり、伝えたのは良くなかったかと、整えられた顎鬚をさする。
「姉さんは知っているのか。この話を……」
 ジョフレが、しばらく考え込むように頭を抱えてから、そう口を開いた。ルキノは、後からメリオルより発ったユリシーズ達よりも主君の傍にいた。件の話を彼女に問えば、知っているとあっさりと告げた。彼ら同様、噂の域を出てはいなかったのだが。姉弟ともども、事実を知るのが恐ろしいのか、それとも、乳兄弟である女王の自主性を重んじてか。少なくとも、弟の方は違う事は明らか。

「ならば」
 端正な面立ちを青く染めている友人を前に、ユリシーズは立ち上がる。ユリシーズの顔を見上げるジョフレの瞳は、この先を受け入れたくないと語っていた。ユリシーズは親友に向けて肩をすくめた。
「君がいつまでもこの噂を引きずっていては戦いに差し支えるだろう。この際はっきりとさせて、堅忍不抜な君に戻るがいい。宮廷騎士団長殿」
 痛い場所を突かれたのか、ジョフレはユリシーズから目を逸らし、口を真横に結ぶ。少し時が経つと、「わかった」と虫の音にも劣るような声がした。


 クリミア女王が眠る天幕へ足を向けたは良いが、ユリシーズの背後を歩くジョフレの足取りは誰が見ても重く、親友に溜息を吐かせた。

 さて、どの殿方が我が陛下の御心を奪ったのか―――
 夜の森の中、天幕が肩を寄せ合うように張られている。一国の女王の天幕であるにも関わらず、見張りが一人もいない。置く必要がないと言った方が正しい。
 今、この大陸に生を成しているのは、ほんの一握りの者だけだった。一般市民もさる事ながら、先刻までのベグニオン帝国とラグズ連合の戦いに従軍していた兵士たちもほとんどが石と化してしまった。「裁きの光」から逃れたのは、ほとんどがユリシーズの知るものばかりなのである。
 
 近くの茂みに身を潜めながら、ユリシーズとジョフレは主君がいるとされている天幕を目指していた。三年前の戦役では、かのグレイル傭兵団のアイクへの思慕が見受けられたが、彼は現在は別部隊にいる。つまり渦中の人物は同部隊にいるという事にも、ユリシーズの興味を引かせていた。背後で「誰なんだ、誰なんだ……誰なんだ……」と呪文のように呟く声が聞こえるが、ユリシーズは構わずに意識を目的の天幕に向けた。
 息を潜め、天幕により近い茂みに身を隠す。天幕に意識と耳を傾ければ、ざわめく木の葉に混ざってか細い声が聞こえた。上ずったような小さな呻きには湿りを孕んでいる。ユリシーズは、乾いていた自らの唇を軽く噛んだ。
「ライ、様……お願い……」
 聞き間違いではなかった。確かに女王の声は、ガリアの戦士の名を呼んだ。
「ライ殿……?」
 主君に負けない程の震える声で、ジョフレはその名を反芻した。この調子では、身体も震えているだろう。早まった事を防ぐ為に、ユリシーズは後方のジョフレへ身体を向ける。
「落ち着きたまえ、ジョフレ」
 まさか、あのガリアの戦士だったとは。
 予想の範疇外であった事のに驚きを隠せないが、噂の元を知る事ができたのだ。目的は達成されたと、ユリシーズはこの場を去る事をジョフレに告げる。しかし、魂が抜けたように、クリミア王宮騎士団長は座り込んでいた。目が死んだ魚のようだ。
「辛いかも知れぬが、受け入れるのだな。我が主の御心を思えば、我らはその許で剣を振り盾と徹するのが勤め」
 酷ではあるが、乗り越えてもらわなければ。その願いを込めてユリシーズは親友を諭す。だが、天幕からさらに続く途切れ途切れの声には固まった。
「ライ様……お願いです……化身、してください……」 
 化身の状態が良いのか。
 ユリシーズは無意識に振り返る。王女の願いに応えるように、天幕から会話が続けられる。
「まあ、いいですけど……本当にこっちの方が好きなんですね」
「はい……お手数かけますが」
「うん、エイミもねこさんがいい」
 主君の秘め事には看過できる宰相だが、同じ天幕内から聞こえた声には眉を寄せずにはいられなかった。確かに聞こえたのだ。ユリシーズ達がメリオルから連れて来た、カリルの娘の声が。
「エリンシア様!そんな、エイミも交えてだなんて……ああ!」
「口を慎みたまえ、何て事を言うのだ」
 非難がましくジョフレに告げる。クリミア貴族社会においても、変わった嗜好を持つ者―――中には常人には身の毛もよだつような趣味を―――ユリシーズは何人も知っている。だが、それが一国の王ではいささか外聞が悪い。
 内心で冷や汗をかきつつも、浮き足立つジョフレをなんとか諌める。しかし、天幕へ新たな来客が視界に入った時その動きは止まった。
「おう、やってるな」
 鍛え上げられた身体。それに見合う大きな翼。夜の森をものともせずに歩いているが、見まごう事はない。明るい調子で悠々と天幕をくぐろうとするのは、フェニキスを束ねる男だった。ユリシーズの動きよりも先に、ジョフレが抑えきれずに茂みを飛び出す。
「何て事だ!エリンシア様……!こんな男達と……!」
 一つ一つの文節を叫ぶように言い放つ。ティバーンはその状況がつかめずに訝しげな表情をジョフレに向けている。溜息を吐いて、ユリシーズも茂みから立ち上がった。その姿を見たティバーンは、慌てもせず、普段どおりの気の良さを見せた。
「クリミアの騎士団長に宰相ときたか。お前さん方もやってくかい?」
「なっ……我々も加われと言うのか!そんな変態な趣向に……!」
「変態とは失礼ですね」
 さすがに外の会話が聞こえたらしく、天幕内のライが不機嫌そうな声を放った。ライに聞こええいるという事は、自分の声が、エリンシアにも聞こえているはずだ。そう気付き、ジョフレの片頬が引きつった。近付いてきたユリシーズが目に付くと、自棄になったのか、突然勢い良く詰め寄った。
「ユリシーズ!大体、姉さんはっ、姉さんは何処へ行ってるんだ!?姉さんが傍にいておきながら、何故こんな事に……っ!」
「我輩に言われても困る」
 そんな二人にに構わず、ティバーンの無骨な手が天幕の入り口に垂れ下がっている幕を上げた。天幕内を照らしていた燈篭の光が、わずかだが外へと漏れる。

 そこでユリシーズははっきりと目の当たりにした。天幕の中央でうつぶせに寝そべっている主君を。懸念していた身体には軽装だが、衣服を纏っている。その脇には巨大な青い猫が座り、器用に前足をエリンシアの背中に押し当てている。エイミはライの反対側に行儀良く座っていた。ユリシーズは安堵で胸を撫で下ろした。同時に、不埒な妄想を巡らてしまった事を主君へ詫びた。
「何を騒いでいるのですか」
 エリンシアはゆっくりと起き上がると、天幕の外へ歩み寄った。
「陛下、いや、その、申し訳ありません」
 ジョフレは慌てて跪く。下に向けている顔は、赤く染まっていた。その横で、事情を察したらしいフェニキス王が口に手を当てている。
「いやいや、この軍に来たばかりの宮廷騎士団長殿は、女王様が何をなされているか非常に気にしておられるらしい」
「フェキス王!」  ティバーンの言葉に、ジョフレはうろたえながら立ち上がる。しかし続いた言葉は「いや、その」と、上手く言い訳が思い付かないようだった。そんなジョフレの愚想を知ってか知らずか、エリンシアは朗らかに説明し始めた。
「ライ様と一緒に行軍するようになってから、度々こうして肩を揉み解してもらってるの。特に肉球でしてもらうと気持ちよくて……」
「にくきゅう、やわらかくてきもちいいんだよ!」
 黙りこむジョフレを前に、エリンシアはうっとりとその様子を語る。エイミも元気良くエリンシアに呼応した。その後ろで、ジョフレに変態呼ばわりされたライが、呆れ顔で化身を解いていた。
「そう言う事でしたか。ライ殿、機会があれば是非我輩にも」
 笑顔で取り繕い、ジョフレの肩を押してその場を去ろうとした。主君、それに他国の重鎮たちを前にかなりの失態ではあるが、それを槍玉に挙げるような面々ではないだろう。
 友を強引に退場させようとしたその時、エリンシアの天幕から少し離れた場所から土を蹴る音が聞こえた。
「何の騒ぎ?」
 ジョフレの叫び声は宿営地中に響いたらしかった。しかも、エリンシアの天幕の辺りから聞こえたとあらば、ルキノが駆けつけない訳がない。ユリシーズは焦がれていたルキノの登場にもかかわらず、彼女の姿を見た途端に口ひげをぴくりと動かす。慌てて駆け付けて来たらしいその出で立ちは、少し乱れているように見えたのだ。汗ばむ額も、駆けて来たからではなさそうだ。日々の任務の傍らでも、鈍らせまいと剣を振っていたのだろう。ユリシーズは、無理矢理そう答えを出して心中を落ち着かせた。だが、そう思えば思うほど、彼女がしきりに開いたt胸元やうなじに手を当てている様子が嫌でも目に付く。薄い月明かりで、白いうなじが所々赤く色付いているのが残酷な現実を告げていた。
「いや、大した事ではないのだよ、ルキノ殿。さあ、行こうか我が友よ。それでは失礼つかまつる」
 心中の嵐とは裏腹に、自分でも驚くほどに平然とした声が出た。羞恥で混乱するジョフレを引きずりながら、ユリシーズは己が天幕を目指す。
 以前より、薄々は感付いてはいたが、まさかそこまでの関係だったとは。
 無言で歩くも、悶々とした負の思考ばかりが渦巻く。それを振り払うように、頭を強く振った。
「ジョフレ」
 とぼとぼと後方を歩く親友に、ユリシーズは振り向かずに呟いた。
「飲むぞ。今夜はとことん付き合っていただこう」  

08/04/08 初出 15/02/12 加筆修正   Back