陽動作戦



 敗走する軍を追っているとはいえ、慣れない深い森の行軍は、熟練した兵でも疲労が増すものだった。空をも隠す木々が、少し拓けた場所を見つけると、停止の合図が鳴り響き、鳥たちの鳴き声を、安堵のため息で覆い尽した。
 だが、それでも全ての兵が身も心も休むわけにはいかない。急いで平地に天幕を設営し、この軍の最高司令官の安息の場と、軍議用の天幕を確保しなければならなかった。祖国を離れて長い道のりを歩く兵士たちを、馬上から見下ろしながら不平を喚く最高司令官の機嫌を、これ以上損ねたくはなかったからだった。
 
 だが、その最高司令官が天幕に潜めば、兵士らに沈殿していた気は暗い空に溶け込まれていく。あちこちで松明が灯され、栄養のあるスープ鍋を囲んで、兵らの笑い声が兵士らが森に響いた。
 その中を歩く誰よりも慕う中央司令官が、見張りの彼らを労うと、彼は軍議用の天幕へ副官とともに消えて行った。その背中を心からの敬礼で見送ると、背中から、女の声がした。見張りの兵は、慌てて振り返る。

「驚かせて申し訳ございません……」
 か細いが、その声は若い兵の耳にはしっかりと届いた。女は外套のフードを外すが、兵は身構えるのを止めなかった。ラグズ連合軍を討伐するために編成されたこの軍には、女はいない。給仕係も、軍付きの娼婦も中央司令官ゼルギウスは、編成を拒んだのだ。
 松明の橙色の明かりに照らされて、女の顔は青白く浮かんでいた。美人の部類には入るだろうが、年増ではあるな。見張りの兵は胸中で感想を述べた。
「お前は誰だ」
 仲間を呼ぶべきか、彼は判断に迷っていた。女は震える声で、一人の男の名を呟く。兜の下で、兵の眉がにわかに動いた。
「その者が、どうした」
 先刻の緊張した面持ちとは別に、詰め寄るように兵は女の肩をつかむ。その力が強すぎたのか、女は夜の空に届くような悲鳴を上げた。それはすぐに野営地に広がり、素面の者から、酒精を満たした兵まで二人の周りを囲んだ。
「どうしたんだ、一体……」
 訝しがる顔、女の姿に脂ぎった視線を投げる顔、様々な男たちを前に、見張りの兵は険しい顔つきで事情を話す。すると、他の見張りの兵どころか、酒で顔を赤らめていた兵までもが、怒ったような、戦場にでもいるような顔つきになる。
「確かに、そうなんだな?」
 それは確認というよりも、女に怒りをぶつけるかのような声だった。それに怯えているのか、女はうつむいて何度もうなずいた。




 
 城下町メリオルでは、迫り来る戦争の影の影響か、活気を店の中にしまい込んだようだった。露店どころか、外を歩く人もまばらだった。通りのある一角にある酒場は、元より昼は人気が少ないのだが。その日の労働の労いとして酒を飲みに来る客は大けれど、昼食を摂りに来る客は滅多にいない。ましてや、太陽が高いうちから、酒瓶を傾けようとする者など、ごくわずかだった。
「もう、そうじのジャマ!」
 その「極少」の人間の足を、酒場の一人娘が箒で叩いた。わずか五歳ながらも、その働きぶりはこの男の人生のそれを凌駕すると、旧知の者はこぞって言う。
 店主と対面する席に、伏せるようにしている男の周りにはすでに二本の酒瓶が転がっていた。昼の客はいない(目の前の男は客と思っていない)ので、夜の準備をしている店主が、わざとらしくため息をつく。
「いい加減にしたらどうだ。集合の時刻までもう間もないだろう」
 店主の低い声に、半身をうずくまらせていた男は勢い良く顔を上げる。
「な、何で知ってんだよ」
「うちのかみさんも手伝うんだよ。ほら、とっとと行って帝国軍の連中の十や二十追っ払って来い」
 太い指が、男の目の前の瓶やグラスを摘み上げていく。未練がましく、男はグラスを庇うように腕を回した。
「なあ。あともう一本、いや、一杯だけでいい」
「馬鹿言え。大体お前さん、うちのツケまだ一度も精算してねえじゃねえか。さ、とっとと行けって」
「後生だから……なあ、エイミ、お父さんに何とか言って……」
「しょうぐんとこまらせちゃダメだよ。おーきゅーきしなんだから」
 少女の救援も絶望的になり、マカロフはがっくりと髪を揺らす。何とか出撃を逃れる術を、酒精の入った頭でぐるぐるとかき回すも、上手い案が出てくるはずもなかった。こうなっては、急病案を使うしかないと、腹痛を訴え始めるもそれが彼の性格を知悉している人間に通じるはずもなかった。それどころか、新たな攻撃に身体をびくりとさせる破目になる。
「おや、あたしが首根っこ捕まえて行こうかと思ったけど、上手いことお迎えが来たじゃないのさ」
 奥で準備をしていたカリルが、紅を引いた唇を曲げて入り口の方を見やった。マカロフも、恐る恐る振り向くと、思ったとおり、いや想像以上の剣幕で彼の妹が扉を開け放っていた。その背後で、控えめに黒髪の女騎士もいる。
「兄さん!いい加減にしなさいっ!」
 懇願というよりも、悲鳴に近い声が酒場に響く。他に客がいないのが幸いだった。ただ、この情景は、他の常連客もすでに日常の一部として傍観していたが。
 兄妹の屁理屈の怒号の応酬を背に、カリルは夫と娘へ店を頼むと言付けた。「任せておけ」と、二人は満面の笑みでカリルを見送る。二人とも、彼女が戦闘で命を落す事など、少しも考えていなかった。家族で誰よりも機転が利くカリルは、何があっても生き延びるだろうと信じているのだ。
「あ、そうだ。それと……」
「それなら大丈夫だ。組合の連中にもちゃんと言ってあるよ」
 夫の返答に、カリルは満足気にうなずいた。流れ行く時間を忘れ、言い争う兄妹に、半身を向ける。
「さ、そろそろ行こうかね。将軍がお待ちだよ。マカロフも、今回の分は無事に帝国の奴らを追い出したらチャラにしてあげるよ」
「えっ?ホント?」
 妹の怒りの叫びをよそに、マカロフは目をきらきらとさせて振り返った。三人を除く周囲の者は、露骨に渋い顔をしたが。
「カリルさん!兄さんを甘やかさないでください」
 怒りの矛先を向けられたカリルは、マーシャにひらひらと手を振った。
「まあ、いいじゃないか。今回の分だけだしね。それより、ステラお嬢さん。このごくつぶしを連れて行ってくれないかい?」
 突然名を呼ばれ、兄妹のやりとりと見ていたステラは、慌ててマカロフの元に駆け寄る。出撃に渋るマカロフも、ステラが絡めばさすがに強く抵抗できなかった。彼女とともに、大人しく外に繋いである愛馬の許へ歩いていく。酒には弱い方ではなかったので、酒瓶二本ではまだ足取りはしっかりしていた。マーシャの声で酔いも醒めたと言った方が正しいが。
 二人が陽の光も明るい通りへ消えて行くのを見送ると、マーシャはがっくりと肩を落とした。
「ほんっとに、どうしようもない兄で……」
「それはとうに慣れてるよ。ところで、やっぱりあたしの思った通りだったね」
 にんまりと笑うカリルにつられるも、疲労を隠し切れないマーシャは、ひきつった笑いしかできない。
「ええ。それが余計に腹立たしくて……」
「ま、作戦が上手く行きそうじゃないか。あたしたちもそろそろ行こうかね」
 マーシャの肩をぽんと叩くと、カリル颯爽と店を出て行った。慌てて、マーシャも彼女に続く。跡には、店主父娘が残るのみだった。
「おとうちゃん。さくせんってなあに?」
 無邪気に疑問を投げかける娘に、ラルゴは大きな手を乗せた。
「将軍のお手伝いさ。いいか、もうすぐ外が騒がしくなるが、絶対外へ出ちゃいかんぞ」




 再三の領土通過の許可と、物資補給の申請を、クリミアは無視してきた。それは、ベグニオン帝国ラグズ連合討伐軍の最高司令官たるクルベア公爵バルテロメの神経を逆なでするのには充分な対応だった。彼の言い分では、宗主国たるベグニオンが「要請」した事自体クリミアにとってありがたい温情であった。本来ならば、ベグニオンの進軍に対して、属国であるクリミアは、低身低頭討伐軍に尽くさなければならないのだ。
 ゼルギウスの進言を振り切り、バルテロメは駐留地の近隣の村へ兵糧を集めよと兵らに命令を下した。それは、クリミアとの無用な軍事衝突を招くと、ゼルギウスを初め他の将軍たちも公爵を諌めたが、小国の軍隊なぞ恐るるに足らぬと彼は声を張り上げ、最高司令官、ひいては元老院議員たる彼を誰も止めることは叶わなかった。
 

 物資現地調達の任を仰せつかったのは、ラオという壮年の将軍だった。下級貴族だが、露骨な元老院派のきらいがあり、その功績ゆえか、とある末席の議員の私兵から中央軍の隊長にまでなった男だった。バルテロメが討伐軍と合流する際、議員たちから「よしなに」と渡された名簿録の中にも、彼の名は連ねてあった。
 食糧の調達及び、クリミア軍との戦闘に勝利したあかつきには、領地と爵位を与える。命令とともに、バルテロメはそうラオに告げた。
 莫大な報酬。それだけではない。元老院の中でも有力なクルベア公爵の目に止まれば、出世も富も天馬のように羽ばたくであろう。
 だが、勇んで任務に赴くも、二刻近くの時を無為に流していた。ラオは、苛立ちを懸命に抑えながら、部下の報告と物資を待っていた。しかし、届くのはわずかなカラス麦のパンと不収穫の報告のみ。これでは、手柄どころか、クルベア公の不興を買うだけである。苛立ちも頂点に立ち、本隊からの使者が来る前に、最後の手段を取ろう。焦る心は、人道よりも彼の背後にいる貴族に秤が大きく傾いていた。
 副官に決断を告げようとした時、早馬がラオの許へ蹄の音を立てていた。
「他の者はどうした」
 ラオに代わって副官が若い兵士に声をかける。兵の馬には荷はなく、兵の兜の下は顔は焦りが浮き出ている。糧食を積んだ馬車が後続している訳ではなさそうだった。不機嫌さを隠さずにラオは若い兵士に視線を送る。彼が告げた報告は、壮年の将軍を驚愕の汗を一気にふき立たせた。
「我が軍の半数近くが、命令を無視して、王都メリオルへ向かいました……!」
「何だとっ」
 怒りで言葉を失ったラオの代わりに、怒声を兵士に浴びせたのもまた副官だった。しかし、まだ十代後半であろう兵士は、上官の怒り、同僚の行動の不可解さを一度に浴びてうろたえる。自分の半分しか生きていないであろう新兵に怒鳴っても仕方がないと我に返った副官は、掴んでいた兵士の肩を盛大なため息とともに解放した。
「将軍、いかがいたしますか?小官は、第五分隊をもって収拾をすべきかと」
 しかし、ラオは歯軋りで返答するのみだった。
 よりによってメリオルとは。
 ラオ率いる部隊が食糧を調達している間、クルベア公爵は、ゼルギウスを伴ってメリオルへ向かい、かくも無礼な女王の吠え面を見に行く算段だった。それは、将軍や司令官らの副官にしか伝えられていない話であった。現在、クルベア公爵はメリオルへ向かっている途中であろう。分隊の暴走が彼の耳に入れば、その責任は免れない。例えメリオルから体よく食糧を大量に運び出して、クルベア公の不興を逸らそうとも、軍規を逸した行為とみなしてゼルギウスが黙ってはいないだろう。軍の責任者の名において、処罰を下すのは目に見えている。それを、クルベア公が庇ってくれる見込みは薄かった。
「貴様」
 ぎろりと、鋭い視線で射抜かれた兵はびくりと肩を震わせて膝を折る。
「調達に向かった半数が、命令を無視したと言ったな」
「は。主に第二分隊と第六分隊がメリオルへ向かったと思われます。ただ今、自分が所属する第三分隊と、第四分隊が収拾に努めております」
「ならば第三、第四分隊の隊長に早期の収拾を伝えよ。聞き入れぬ者には手荒な手段を取っても構わぬ」
 若い兵は、短く返事をし、馬に飛び乗った。
 ラオの判断は決して間違ってはいない。そもそも、不可解な暴走自体が命令違反なのだ。それを、大隊長たる彼が処罰しても何の問題もない。
「しかし、なぜメリオルに……?」
 その疑問を答えられる者はこの場には誰もいなかった。ラオもそれを追求しようと思考を巡らせるも、新たな知らせにそれは吹き飛ばされた。
「クリミア軍が向かってきます!その数、およそ五百!」
 ラオを中心に、その場にいた副官や部下にも緊張が広がる。だが、報告の数だけならば互角。本陣にはその十倍もの兵がいる。敗退などという道は自分たちにはないはずだった。
「第五分隊で食い止めよ。残る兵は補給に当たるんだ!」
 メリオルから暴走している部隊が一部でもやって来れば、それで勝利は確実となる。ラオは後の武勲への褒章に、浮き足立つのを感じた。





 同時刻、王都メリオル近郊。
 整然とした街並みを背後に上空から見下ろしながら、天馬騎士マーシャは息を飲んだ。まさか、ここまで上手くいくとは考えもしなかったからだ。
 初めに作戦を持ちかけられたのは、マーシャにだった。だが、それは多くの民間人を巻き込んでしまい、危険すぎると彼女は渋面を作った。だが、作戦の発案者カリルは、そんなマーシャに片目をつぶる。
「きっと上手く行くさ。まあ、下準備は必要だけどね」
 カリルの言を、マーシャは恐る恐るジョフレに告げたが、返ってきたのは、マーシャと同じ反応だった。だが、カリルは真面目な騎士団長に強く詰め寄る。絶対に王都の民間人を傷つけはしないと。さらにカリルは、ジョフレの執務机の前に、一枚の紙を置いた。その文章に、マーシャは勿論の事、ジョフレでさえも言葉を失った。さらに驚くべき行動の報告を聞き、呆れとも戦慄とも取れる震えを彼に襲わせた。ジョフレはしばらくの沈黙の後、「わかった」と力なく呟き二人に退室を命じた。それからたった一日で、カリルは彼女の言う「下準備」を行ったとマーシャに笑顔で告げた。


 野牛の群れのごとく王都を目指す帝国軍二百あまりに、マーシャは思いため息を禁じえない。城下町へ侵攻する帝国軍にではなく、ジョフレの隊ととともに略奪者討伐へと向かっている彼女の兄にであった。
「よくもまあ、あれだけの人数に……!」
 だが、帝国の一部の兵に告げて、この数である。恐らく、全ての数はあれではすまないだろう。カリルが騎士団長の執務室で疲労した数字が確かならば、小さな村が一つ買えるのではないか。そんな思案が嫌でも浮かんでくるのだ。
「討伐隊じゃなくて、城下町、じゃない。いっそあの中に放り投げれば全て丸く収まるんじゃないかしら」
 兄の苛立ちが、恐ろしい思考を生む。だが、クリミア軍の責任者は、原因である男を自分の隊に組み入れたのだ。カリルも、本人の姿は余計に混乱を生むとジョフレの編成に賛同していた。
 ジョフレ将軍は優しいんだから。
 そう呟き、予定通りに突進する軍の視界に入るべく天馬を降下させる。街道の脇には、クリミアの王都守護部隊が息を潜めていた。

「あれは……!」
「あいつと同じ色の髪の天馬騎士!」
「クリミア軍にいるっていう噂は本当だったんだ」
 馬の上で、兵士らは言葉を発する。無我夢中で債務者を追ってきたが、その手が届く所まで来たのだと、男たちは歓喜に胸を弾ませた。

「待ってくれ!」
 自分を呼ぶ声を、マーシャは背中で聞いた。「マカロフは、どこにいるっ」しかし、マーシャはそれに答えもせず、天馬の翼を止めもせずに飛び去る。彼らが必死で自分の後姿を追っているのがわかった。城下町の門を眼下に捉え、手綱を持つ手に力を入れる。
 カリルは身一つで帝国軍の野営地に赴き、マカロフの名を出した途端に軍内にただならぬ戦慄が走ったと聞く。それほどの悪名だったのは、マーシャが聖天馬騎士団に所属していた頃から知っていた。訓練が終われば、騎士が気まずそうにやって来る事も珍しくはなかった。お陰で、天馬騎士団内で罪な女とあらぬ揶揄を飛ばされ、その手の事に厳しい副長に呼び出された事もあった。
 苦々しい思い出を振り切り、マーシャは見慣れた通りの上空を走らせる。マーシャやジョフレの危惧は裏切れられ、カリルの予想が的中する。マーシャ、引いては彼女に繋がる債務者を求め、帝国軍の兵士らは街に傷一つ付けてはない。
 天馬の蹄がついに敷石の上に降り立った。好機とばかりにまっすぐにそれを目指す。だが、先頭の馬が天馬の尾に食いつかんとばかりの距離で、再び天馬は敷石を蹴った。
「待て!」
 捕まえ損ねた先頭集団が舌打ちし、すぐに天馬騎士の背中を追う。そこは細長い裏通りだった。先走った、者たちは、すぐさま引き返そうと馬首を巡らしたが、背後で悲鳴を聞く事になる。
「畜生!謀ったな!」
 この集団の中で、一人でも冷静な者がいれば、王都に引き込まれた事自体に疑問を持っただろう。だが、決して小銭とは言えない額の金銭を貸して長年姿をくらましている相手の名を聞いて、平然と対処できる兵はいなかった。中には、積もり積もって一年分の給与に値する額を貸している者もいるのだ。カリルはろくでなしの騎士と、苦労を被さっている妹の事情を知っていた。




 作戦の発案者カリルは、本来の仕事場に戻っていた。戦いはあっさりと収束し、メリオルの城下町も普段どおりの活気を取り戻している。この酒場も、己の家に潜んでいた男たちが「帝国軍撃退の祝い」として酒盃を上げに来ていた。
 しかし、その席でも憮然とした表情を崩さない者が二人いた。
「辛気臭い顔しないでさあ。無事に追っ払った訳だし」
 間の抜けた声に、その一人がぎろりと冷たい視線を投げかける。
「誰のせいだと思ってるのよ」
 兄の借金の額は、以前借金取りが提示したものも二人の支払能力を超えていたが、今回知った事実はそれを遥かに凌駕するものだった。それをいずれは返さなくてはならないのかと、兄の事ながら気が重くなるのだ。クリミア騎士団内でも、出世はおろか、在籍しているのもやっとという状態。給金も、支給された瞬間に酒と博打で吹き飛ばすのだ。
「あの、お金を借りた方の中で、わたしの知り合いがいるかもしれません。わたしがお話したらどうにかなるのではないでしょうか」
「えっ?そうなの?」
「だめ、駄目っ!」
 マーシャは元ベグニオンの伯爵令嬢に、強く首を振った。クリミアでまともになると信じていたマーシャだが、その望みは露と消え去った。その一端を彼女が握っていると、マーシャは疑ってならない。
「ステラさんがそうやって甘やかすから、兄さんが付け上がるの!今月もかなり貸してるんでしょ?」
 えーと、幾らくらいだっけ?ええと……数えていないので、と暢気な声に、マーシャの頭は徐々に重くなっていくのを感じた。だが、急に冷たい顔はそのままに、声だけが以上に明るいものへとなった。
「そうだ。ジョフレ将軍。この際兄さんを捕虜収容所勤務にしません?」
「それもいいかもしれんな」
 もう一人の憮然とした顔の持ち主が、彼は暗い声だが、そう答えた。マカロフは、「それは絶対にごめんだ」と引きつり始めた。
 裏通りに追い込まれた帝国兵らは、皆投降し、捕虜としてクリミアとガリアの国境近くにある捕虜収容所に収監されている。そこへマカロフが赴任されれば、飢えた獣の群れに肉片を投げ入れるようなものだった。
「戦いは嫌だってんなら、そういうのもいいんじゃないの?」
 ジョフレとマーシャの話に乗って、カリルは口角を上げた。
「姐さん、勘弁してくれよ」
「カリルが推してるんだ。おれも前向きに検討してみよう」
 次第に本気になって行くジョフレの顔に、マカロフの額に酒ではない液体が浮かび上がった。


09/01/20 戻る

-Powered by HTML DWARF-