手の甲にくちづけ
床に伏してからどれ位の時間が経ったのだろうか。視界の隅のカーテンからは光は漏れず、薄い闇を透かしていた。静かな夜。慎ましやかに顔を出す美しい月。その淡い光を横切る黒い影に、反射的にアルテナは身体を起こした。頭ではそれが蝙蝠だとわかっていても、夜空を舞う二頭の騎竜に見えてしまう。こんな夜には、困った顔をした兄を強引に誘ったものだ。夏でも凍える風を受け、月明かりの下のトラキアの大地を臨んだ。父と兄と共にこの国を豊かにする事を思い描きながら。
好きにしろ―――
兄からの最後の言葉。
自由に生きて―――
弟から手を差し伸べられての言葉。
重たい腕を上げて、アルテナは額に手を当てた。
育ちの国は王を失い、戦の混乱の中にさまよっていた。それに加担したのは自分。父に真実を突き付けられ、自ら望んで解放軍に加わった。だが、その現実にアルテナの覚悟は見事に瓦解してしまった。父と信じていた男は倒れ、兄と信じていた男は生死不明。そして自分はその血を継ぐものではない。裏切り者、と赤い大地が叫んでいる。慣れているはずの血と肉塊が飛び散る光景と断末魔、そして二人の「兄弟」の言葉がアルテナの頭の中で渦巻いていた。
けだるい身体が、急に落ち着かなく疼く。アルテナは身体を寝台から解き放ち、勢い良く扉を開けた。レンスター王家に割り当てられたこの一画に、彼はいるだろう。
「フィン!フィン!」
自分は愚かだと思う。だが、叫ばずにはいられなかた。絞り出された高い声は、廊下の先の闇に吸い込まれていった。
間もなくその闇から扉が開く音がした。
「アルテナ様、いかがなさいましたか?」
家臣の姿が見えた途端、アルテナはその胸に縋り付く。震える肩の理由を、フィンはすぐに察した。一度に余りにも重い真実と現実を突き付けられたのだ。これで参らない方がおかしい。
「取りあえず中へ……」
半開きの扉の中へアルテナを促す。手を添えた肩はとても細く感じられた。
アルテナを寝台へ座らせると、水を汲んだ杯を差し出す。アルテナは受け取っただけで口は付けなかった。フィンにはかける言葉がなかった。この度のトラキア制圧、国王トラバントの討伐長年の彼の悲願であった。トラバントが倒れた時、戦場のさ中であったがフィンは涙を隠さず天に祈りを捧げた。しかし、この主君の姫の前ではトラキアの事を口にするのも憚っていた。アルテナの武勇と、トラキアへの誇りが彼女へ込められた「父親」の愛情を垣間見たからだった。
「トラキアは、これからどうなるのでしょうか……」
その掠れた声にフィンは伏せていた顔を上げた。弱い月に照らされた横顔は、亡国の王女そのものであった。
「トラキアの民には何の罪もございません。セリス皇子のお計らいで早速復興計画が立てられているようです。すぐとはいきませんが、きっと平和な時が来るでしょう、きっと」
「……トラキアの民には本当に悪い事をしたわ」
「アルテナ様のご決断はトラキアを思えばの事。そこまで苦しむ事は……」
アルテナの手の中の杯の中が激しく波立っていた。それを握る手首は濡れていた。
「……ン……」
「アルテナ様……」
「フィン、言って。命令して。わたしに『ここに居ろ』って言って・・・!」
自分の好きなように生きろ、自由に生きろ、その言葉は今のアルテナにとって残酷な言葉であった。兄から否定され、弟からも拒まれるに等しい言葉だった。上辺だけでも自分の居場所を肯定してくれる言葉が欲しかった。
「アルテナ様。覚えていらっしゃいますか?私はアルテナ様がご幼少の頃にあなたの騎士であると誓った身。それは今でも変わりません」
ようやく顔を上げてみれば、フィンの穏やかな笑みがあった。哀れむような、慈しむようなものであったが、なぜか懐かしさが込み上げて来た。きっと記憶のどこかと呼応しているのだろう。
「ごめんなさい。覚えていないわ。・・・だから、もう一度誓って頂戴」
「仰せのままに」
そう言うとフィンは跪き、アルテナの手を取った。小さかった柔らかい手は、女性のそれへと成長していた。
「私、騎士フィンはアルテナ王女殿下の御身を守る盾となり槍となり、この身が朽ち果てようともお仕えする事を槍騎士ノヴァに誓います」
数十年前と一句違わぬ誓いと唇が手の甲に落とされた。フィンがゆっくりと顔を上げると、困ったような、微笑んでいるような表情をしたアルテナがいた。
「お帰りなさい。アルテナ様」
この言葉を言えるのはこの世界で自分しかいないのだ。フィンは自分の胸で嗚咽を上げるアルテナの頭を撫でながら配慮のなさを悔やんでいた。
フィンの胸がアルテナの体温を受け取る。以前は全身を抱きとめていたが、今では半身しか抱き締める事ができない。だからその分、アルテナを包む腕に力を込めた。
いつの間にか肩の震えはなくなり、嗚咽も聞こえなくなった。時折鼻を啜る音と大きめの息継ぎがフィンの耳に入った。
「フィン、ごめんなさい・・・」
「謝る事はありません」
二人の腕が離れたかと思うと、フィンはアルテナの身体を寝台に横たえた。手慣れた、ごく自然の動作だった。
「フィン」
「何です?」
「思い出したの。寝る前にあなたがいつもしてくれた事。こんな歳になって変かしら?」
家臣を覗き込む眼は、歳不相応のあどけなさと期待を含んでいた。
「仰せのままに」
躊躇いなく額と手の甲に口付けされ、アルテナは嬉しさよりも恥ずかしさとくすぐったさを感じた。子どもの頃とはいえ、これをほぼ毎晩ねだっていたとは。胸の高鳴りを鎮める為に眼を閉じる。さすがに昔のように一緒に寝て欲しいとは言えなかった。
微睡みの世界に入っていくアルテナを見送ると、フィンはもう一度額に唇を落とした。