家系の継続

「……お館さまのご容態は……」
「今は安静にするだけだと侍医が……ここ数日このような調子だが……」
「お館さまの側近らが最近忙しないと聞いている。デカンゼに使者を送ったとの噂も……」
「あの家には若く有望な子弟が多くいるからな。お館さまの男爵の覚えも明るい。お館さまは、あの家から選ぶおつもりか……」
「いや、私のつかんだ情報によれば、オルテーヌ家にも使者が来ていたとの事。しかも、直接お館さまとラギス卿と何やら話し込んでいるとか……」
 
 
 家臣らはここ最近、侯爵家の風向きに敏感になっていた。小さな領地ではあるが、安定した土地は豊かな収入をもたらしている。治める領主の体調が思わしくないと知れば、彼に仕える貴族らが顔色を変えるのも無理もない。
 老主人の家系は極めて乏しく、直系は一人娘の遺した同じく娘、つまりは孫娘一人しかいない。数年前まで弟が「いた」が、彼は家督を焦るばかりに姦計を謀り、件の孫娘の刃に斃れた。結果的に、ハウゼン侯の後継は孫娘であるリンディス一人が残ったのだ。
 それは屋敷内、リキア諸侯にも反対の声は上がってはいない。だが、彼女が侯爵を名乗るにはひとつ問題があった。孫娘リンディスは十五の歳にサカから呼び寄せられた娘である。侯爵としての教育どころか、リキア貴族の教養すら覚束ない。侯爵家を取り囲む貴族たちは、リンディスが侯爵になったあかつきには、摂政する者が必要だと自然に感じ取っていた。そして、その地位に預かる者は、リンディスと姻戚の関係になるだろうという事も。その架け橋となる配偶者が、どの家から出るのか。侯爵家に仕えるS貴族らにとっては高みに上るまたとない好機であると考える者が後を絶たなかった。


 この数日、リンディスの胸が晴れる日はなかった。
 元々健康状態はよくはないと言われてきた祖父であった。だが、リンディスが侯爵家に迎え入れられてからは、顔色はすこぶる良好で、屋敷外へ出る事も少なくはなかった。しかし、近頃は頻繁に不調を訴え、寝込む時間は次第に増してきている。ハウゼン候がそうなってから、リンディスはずっと寝台のそばで回復を祈り続けている。
 孫娘の願いは早々に届くこともなく、老侯爵は静かな呼吸を繰り返すだけだった。
 主人の身体もそうだが、孫娘まで倒れてしまう、と心配した従者や侍女らが、自室で休む事を勧めるが、頑として看病を続けている状況だった。
 祖父が気がかりでもあるが、寝室から一歩出れば、見舞いと称した貴族らと顔を合わせるのが億劫だった。侯爵の身体を気遣う家臣らに感謝の言葉をかけなければならない。それは親族代表として当然の礼儀だ。だが、その裏に打算を抱えている者は一人や二人ではなかった。政治や宮廷劇に疎い、いや、目をそらしているリンディスであっても、彼らの本音は祖父の身体の安泰ではない事など嫌でもわかる。
 おじいさまが臥せっている時に、後継者の話など、聞きたくない。
 祖父を心配する傍ら、もう長くはない事も重々承知している。老いた祖父は、病気でもなく、ただ命が尽きようとしているのだ。
 自分がこの家で生まれ育ったら、男であったら、寿命を迎える祖父の前で、やがて訪れるであろう侯爵の椅子の事を冷静に考えられるのだろうか。
 日に日に弱くなっていく祖父を看ながら、リンディスはぼんやりと考えていた。祖父はやがて死ぬ。それが生きとし生けるものの命運だとしても、やっと出会えた肉親と別れられるほど、リンディスは強くはなかった。山賊の卑劣な手段で両親を喪い、偶然と言えど出会えた母の父。だからこそ、サカの風の匂いが遠くになろうとも、彼と過ごす日々を選んだのだ。
 
 侯爵家に仕える貴族たちは、そんな彼女をサカへ追い返すよりも、取り入る道を選んだようで、根回しは遠回りながらも早くからリンディスへ向けられていた。祖父が臥せる時間とともに、彼らの接触も増しているのが気に入らない。今も扉の向こうで、数人の貴族が待機しているようだ。

「お嬢さま。リンディスさま」
 祖父の手を無意識に握り、思いつめていたようだ。従者に呼ばれ、飛び跳ねるように骨ばった手を離す。
「ラギス卿が控えの間に来てほしいと」
「……わかったわ」
 祖父の側近中の側近である男の名を聞き、リンディスの身体をたゆたっていた疲労が緊張に変わった。顔を眠っている祖父へと戻す。歳を重ねた小さな顔は、穏やかに眠っていた。それが唯一の救いだった。ラギスが何を言わんとしているのか、それは言われるまでもない。
 しかし、祖父の執務室の隣にある控えの間へ行くとなると、この寝室を出なければならない。首を振って立ち上がると、侍女がすぐさま扉を開いた。廊下の窓から差す光は明るく、その下に長くいたであろう貴族らが弾けたようにリンディスを取り囲んだ。
「お嬢さま、本日はまことに……」
 機嫌がいい訳ないでしょう。
 そう怒鳴りつけたい衝動を抑え、目ねつけて世辞を阻む。侍女が必死でお嬢さまはお疲れでいらっしゃるのですと諭しているが、そこで引き下がるような彼らではなかった。
「我々は本当に心配でならないのです」
 口々にそう訴えるが、壮年の貴族らが連れているのは皆青年たちで、しきりに彼らにも声をかけるよう促していた。
「どいてちょうだい」
「お疲れでいらっしゃるなら、今度我が荘園にでも……」
 いい加減にしてくれ―――溜まりに溜まった鬱積は解放を望んでいた。堪りかねて吐き出してしまおうと肩で大きく息を吸う。しかし、それが吐き出される前に、ひとつの影がリンディスの前に出た。
「お嬢さまはこれからお休みになれなます。お嬢さまへのお言付けは私が受けたまわりますが」
「騎士風情が、わしらを何と心得る」
 背の高い影は、リンディスを安心させるのに充分だった。阻まれたのが、若い騎士だったのが気に障ったらしく、壮年の顔が引きつるようにゆがむ。
「私はお嬢さまのお世話をお館さまより仰せつかっておりますゆえ」
 咄嗟に侍女や近くにいた使用人らも、彼に呼応してハウゼン候の名を出すと、不快感を隠さずに貴族たちは押し黙った。この赤い鎧にすがってしまいたいと思うも、侍女を連れて貴族の輪から抜け出る。
 ありがとうケント、と足を忍ばせながら心中で呟いた。


 控えの間は、侯爵へ面会に赴いた客の為に作られてある。小さいが、執務室より豪奢な調度品を備えてある。日差しを目いっぱい入れるよう設計されてあるが、明るくとも、そこは重々しい空気に支配されていた。
「お呼びだてして申し訳ありません」
 ラギス卿はリンディスの姿を見るなり深く頭を下げた。
「いいのです。頭を上げて」
 この老年の側近は、代々キアラン家に仕え、祖父が最も信頼を置いている貴族だった。リンディスがキアラン家に迎え入れられた時も、彼女のために用意したものは数多くある。屋敷で働く使用人や侍女らに、よく仕えるようにときつく言ったのも彼だ。
 連れてきた侍女が二人に紅茶を用意する。彼女が去ったのを確認すると、白い口ひげが動いた。
「大分お疲れのようですな」
「ええ。でも、おじいさまのお体を思えばこれくらいは」
「それに、貴族らにも辟易している、と言ったところで」
「そう。それが頭痛の種だわ。なぜこんな時に彼らは」
 ため息と同時にそう吐き出すと、老貴族の目が鋭く光った。
「こんな時だからです。彼らとて、以前よりあなた様に取り入ろうとしていた。だが、あなた様はまったく気付くご様子もなく。サロンでも壁の花。誰との浮名も流すわけでもなく」
「……だったかしら?でも、こんな時に仲良くしようと言われても……」
 ラギスは眉間の皺をさらに深めて言った。
「率直に申し上げます。おひとりでご領地を治めるご自身は?」
「ラギス卿……!」
 がたん、と椅子を蹴って立ち上がる。だが、ラギスはそれに臆する風でもなく、じっとリンディスを見ていた。それでリンディスは気付いた。彼は、あくまでも「キアラン家」の重臣であって、ハウゼンひとりの臣ではない。友であっても、いち個人の家来ではなかったのだ。
「あなたは、わたしを助けてはくれないの?」
「無論、微力は尽くしましょう。ですが、あくまでキアラン家の家臣として。キアラン家の長として、領民を守るのはあなた様。わたくしめは、そう思っておりまする」
 立ちすくんだまま、リンディスは老家臣を見つめていた。紅茶の良い香りが立ち上っているが、それを楽しむ余裕はない。
「失礼します」
 紅茶の匂いが張り詰められた空気に、ケントの声が響いた。
「ご苦労だったな、ケント」
 リンディスの許に彼をよこしたのもラギスのようだ。相変わらずの手際のよさだとリンディスは思う。自分の、ケントを想う気持ちも含めての指図だったのだろうかと疑ってしまうほどに。だから思い切って、老家臣に申し出てみた。
「お願いラギス卿。少しの間、席を外してくれないかしら」
「それは……」
 髭と同じ色の眉がぴくりと動いた。
「ケントはおじいさまの命により、わたしをキアランに連れてきてくれた騎士です。だから、信頼を置いている騎士として意見を聞いておきたいの」
 困惑の色を見せる老家臣だが、頭を下げるリンディスに何かを悟ったようだ。わかりました、と短く告げて控えの間を出た。
「リンディさま。セインも呼んで参ります」
 そう言って立ち去ろうとするケントの腕を引っ張った。思いつめたようなリンディスの顔を見て、ケントは身体を向き直す。
「リンディスさま。少しお休みになれた方が……」
「ケント」
 鈍いのか。それともわざと気付かぬふりをしているのか。疲労と苛立ちを含んだ声は、短く騎士の名を呼んだ。
「誰も彼も、皆次の侯爵の事ばかり。おじいさまのお体を本当に案じている人は、この屋敷にはいるのかしら」
 苛立ちをさらに濃くして、リンディは奥歯を噛んだ。ラギスにそれをぶつけても、キアランの事を第一に思う老人には泥沼に杭を打つようなものだった。ケントならばわかってくれるかもしれない。リンディスはその期待が胸にあった。
「リンディスさま。お気持ちはよくわかります。ですが、家臣がキアラン家を心配するのも最もな事」
 彼の応えは、リンディスを失望させるには充分だった。キアラン家に仕える者として、主個人より、その後の家がどうなるかの危惧が先立つのは当然だ。それはリンディス自身も重々に理解していたはずだった。わかってはいるが、信頼と思慕を寄せている者に面と向かって告げられるのは、胸に痛みを覚えてしまう。
「リンディスさま」
 暗い影が全身に落ちているようだ。だが、ケントはリンディスの血の気を失った手を取る。
「サカを出、キアラン家に入った時に、このようなお覚悟はできていると思っておりました」
「覚悟って言われても……」
「お館さまがこの様な状況であるからには、リンディス様へ次代の期待が集まるのは至極当然。お身内を亡くされる悲しみの前に、領主として立っていなければならない。それが貴族社会というものです。それがお嫌ならば、お帰りください。サカへ」
「……!」
 サカへ、と強く告げられたと同時に、リンディスの右手はケントの頬を打った。今さらサカへ帰れだなど、どの口が言うのか。
 火に油を注がれたような心中だったが、それはすぐに鎮まった。祖父に出会い、その後キアランに残ると決めたのは他でもない自分だった。サカへはいつもで帰る事はできたのだ。
「ケント、ごめんなさい」
 はじけた感情をぶつけた箇所に触れる。赤くなっている上、熱を持っていた。
「私の方こそ、ご無礼が過ぎました」
「ううん。違うの。ケントは正しい。リキア貴族になろうと決めてここにいるのに。おじいさまも気を遣ってくださっているのに、それを無碍にしてしまう所だった」
 老ハウゼンが孫娘可愛さに大量の宝飾品を買い与え、一流の講師を招いて淑女の嗜みを身につけさせようとしていたのはリキアの他領でも有名だった。リンディスもそんな祖父の思いに応えようと、必死に貴族の令嬢になろうとしていた。慣れぬ文化もひとえに祖父のため。祖父とキアランの名を汚さぬよう努力してきたつもりだ。
「リンディスさま。そのお心があれば、キアランを安泰に治めて行けるでしょう。このケント、不肖ながらもお力添えになれば」
「ええ、あなたの援けが必要だわ。ケント」
 リンディスの手がケントの頬にずっと置かれている事、ケントも冷たい主の手のひらに、自分のそれを重ねようとしていた事に二人同時に気付き、慌てて体ごと離れた。
 謝るのもおかしな空気が流れ、気まずそうにめいめい別の方角へ視線を向ける。
「ケント、あのね」
「はい」
「さっき、わたしを貴族たちから助けてくれた時……おじいさまからわたしの『お世話』を仰せ遣ってるって言ったわよね……?」
「は、あ、あれは……!」
 ケントの顔が動揺を現していた。少しではない期待を込めて、騎士の顔を覗き込んだ。
「貴族からリンディスさまを引き離す口実でして」
 もごもごと口の中で言い訳する姿は、先刻までの、主人に意見物申す騎士とは別人に見えた。リンディスは噴出しかけた。笑うのは何日ぶりだろうか。
「口実だけなの?」
「それは……」
 頬は張られた以上の赤みを帯び、表情も硬いものへと変わって行く。やがて主に向き直ったかと思うと、急に膝を折った。
「リンディスさま。私は、何があってもあなたのお味方です。あなたをお守りいたします」
 どうやらそれが精一杯のようだ。固まった体から、これで許してくれという念が痛いほどわかる。リンディスの唇は弧を描いている。彼女にとっても、それで充分なのだ。



 ハウゼンはその後、幾刻か目を覚ましてはまた長い眠りに就くという生活を繰り返した。侍医も手の施しようもなく、ただゆっくりと過ごされよと述べるばかりだった。
 リンディスが暖かい陽が差す窓を開くと、待ちかねていたように風が飛び込んだ。勢いよく部屋に吹き込み、庭から摘んできた花束が手を離れてしまった。
 花を散らばらせてしまった。そう思うより先に、意識が遠くに行ってしまいそうな感覚に襲われた。窓枠に切り取られた世界には、青い空と緑がどこまでも続いている。考える隙もなく、その先にある世界を凝視していた。
 気を持ち直して、リンディスは屈みこんで花を拾い集めた。暖かい空気に紛れ、穏やかに鼓膜を打つ声。
「リンディス」
 慌てて立ち上がり、目を覚ました祖父の許へ駆け寄る。
「ごめんなさい、風が」
「うむ、いい風だな」
 出会った頃よりさらに痩せこけた祖父は、この風に吹き飛ばされてしまうかと思われた。ゆっくりと抱き起こされている間も、皺だらけの瞼は、外をじっと見ている。先刻のリンディスと同じように。
「サカも、こんな風が吹くのかい?」
「え、ええ」
「マデリンも、草原の風に惹かれてやまなかったのだな……」
 リンディスの母は、サカではない人だと、漠然と考えているだけだった。顔立ちは他のサカの女とは違えど、ロルカの中に溶け込んでいた。大勢の使用人に囲まれた、何不自由のない屋敷で育ったとは想像もしなかった。
「いずれ、お前とサカへ行きたいと思っていたのだよ。だが、それも叶いそうにない」
「そんな……おじいさま、元気になったら行きましょう」
 ハウゼンは首を振る。
「リンディス。大分無理をさせてしまったようだね。すまなかった」
「おじいさま!」
 食って掛かるようにリンディスは祖父の肩をつかんだ。
「お前と過ごして、幸せだった。だが、幸せのあまり、また間違いを繰り返そうとしていたのだ。リンディス」
「いや、だめよ。おじいさま」
 頬が熱くなる。懸命に涙をこらえ、祖父の次の言葉を否定しようとした。ハウゼンは、乾いた手を自分の肩の上の孫娘の手に置いた。
「草原の風は、どこまでも自由に吹くのだよ」
 リンディスは祖父の肩を抱きしめた。
 最初に会った時も、小さな人だとは感じていたが、今ではさらに小さな存在に感じる。だが、包み込むような暖かさは、背の高かった父を思わせた。
 風は老人の部屋へと吹き込み続けている。一度築いた侯爵家への覚悟を吹き飛ばしてしまうかのように。


 

 東から吹く風は、まるでリンディスを誘っているかのようだった。木々を騒がしく揺らす風は数日間続いている。そんな中、リンディスは厩へ急いだ。
 風が草の匂いを運んでいるのか。胸の中が掻き立てられるように忙しない。厩舎の番をしている使用人が、リンディスの姿を見ると飛び跳ねて小屋の奥へ走った。
 馬に乗るのは半月ぶり。しかも、貴族の令嬢の嗜みとしての馬術だ。キアラン領の東までは、すっかり足が遠のいてしまっていた。
 東―――つまりはサカに一番近い崖はより一層風が強く吹き、草原の匂いを孕んでいた。草原はもっと草いきれに包まれていたのだと思い出す。包(ゲル)があって、男たちは馬に乗って狩りへ行き、女と子どもは羊を追う。しばらく時が流れたら、別の草原に移動するのだ。どこへ行こうとも、家族で力を合わせて生きていた。
 蹄の音で、リンディスは一人の世界から戻った。ケントだ。迎えに来たのだろうか。
「急に出て行ってしまってごめんなさい」
 侍女と馬丁には遠乗りへ行くと告げてはあったが、ケントの姿を見た途端に口から謝罪の言葉が出ていた。
「この風です、お気をつけて」
一人で遠出した事を責めている様子ではないようだ。
「あのね、ケント」
 驚くだろうか、失望するだろうか。彼はキアランの騎士だ。自分がキアラン侯爵のただ一人の孫だからこそ、ここまで仕えてきてくれたのに。そんな思いが、喉を痞えていた。だが、それでも自分の口から伝えておきたかった。
「ケント、わたし」
「草原へ、お帰りになるのですね」
「ごめんなさい」
 やはり怖かった。ケントの顔を見れずにいる。
 俯いていた目線に、ケントの赤い髪が飛び込んだ。
「私こそ、リンディスさまのお気持ちも考えずに無礼を申した事、深くお詫びします」
「違う。侯爵家を継ごうと決めたのも本、当……なのに……やっぱり、わたし……」
「良いのです。あなたにはそれが一番なのだと、ご決心がされたなら。それを止める事は誰にもできません」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ケント……わたしにずっと仕えてくれると、助けてくれると誓ってくれたのに……」
 お願い、頭を上げて、とつかえながらリンディスは言う。もうケントに跪かれる権利はないのだ。
 ゆっくりと身を起こしたケントが屋敷へ戻る事を促す。祖父の身も案じ、ケントの言に従う事にした。
 馬に揺られての帰路は長く感じた。夕方の空に蹄の音だけが響いている。ケントは許してくれたのだろか。それは気がかりであるが、きっと内心では失望しているのだと気を重くする。
 キアランへ来てからも、何かと世話を焼いてくれた騎士だった。彼と離れてしまう寂しさはきっと風がさらってくれるだろう。馬に揺られる赤い鎧の背中を見ながら、リンディスはそう考えていた。





 風が穏やかになって来た頃を見計らったように、ハウゼン侯爵は永遠の世界へ旅立った。
 最初、リンディスはそれをしばらく絵空事のように受け止めていた。呆然と窓の外を眺めていたが、家臣らの葬儀の準備に追われている様子を見ると、ふいに生気が戻った面で立ち上がった。

 ほどなくして侍女が部屋に入り、続いて喪章を着けたラギス卿がリンディスの許を訪れた。
「ハウゼン様より、これを預かっておりまして」
 懐から取り出したのは、一通の手紙だった。
 羊皮紙に綴られた文字は、間違いなく祖父の手によるものだった。優しい祖父の匂いを感じる手紙には、自分の死後のキアラン家の事が事細かに記されていた。リンディスは深く息を吸い込む。
 そこには、キアラン領の裁量が、すべてリキア盟主オスティア家へ委ねられると書いてあった。オスティア。それはかつての仲間であったヘクトルが統治する領地だ。ハウゼンの言葉で、それらの仔細はすでにヘクトルと話がついていると語られている。祖父はずっと前から考えていたのだ。リンディスを草原へ返そうと。
 その後の文章を追う余裕はなかった。震える声で、老家臣の名を呼び、手紙を差し出す。
「わたくしは、以前よりハウゼンさまより聞かされておりました。ヘクトル候との領地委譲についての幾度かの会見も同席しております」
 その上で、以前あのような質問をしたのか。青ざめた顔は、不審そうにラギスを見た。
「わたくし一個人としての意見は、お嬢さまがキアラン家を継ぐ事だと。ハウゼン様にも重ねて申し上げて参りました。しかし、お館さまは、リンディスさまのご意思を優先するとの一点張りでございまして」
「試していた、という訳ね」
「申し訳ございません」
 ラギスは白髪を下げるが、彼に恨みなど最初からなかった。いいのよ、と短く告げて羊皮紙に視線を戻す。リンディスの危惧を払拭するかのように、家臣らや使用人の処遇が書かれている。後は、臨時当主がヘクトルと微細の調整を行うようにと。
 
 我が孫リンディスよ。お前の望むままに生きなさい。ありがとう。
 
 手紙は、最後にそう締めくくられていた。リンディスは目尻をぬぐうと、ラギスに向き直った。
「行きましょう。おじいさまにお別れを」
 颯爽と部屋を出て行くリンディスの背中に、老家臣は強くうなずいた。
 

 


 葬儀は粛々と行われ、ハウゼンは屋敷から離れた場所にある霊廟にて、妻の隣で眠った。
 それからの数日は、領民はもちろんの事、鳥獣すらも悲しんでいるかのように、キアラン全土が静まり返っていた。
 喪が明ける前、リンディスはオスティア領のヘクトルを訪ね、前領主の提案通りキアラン全権を譲り渡すと申し出た。
 そう告げられたヘクトルは、会議用の長机を挟んで、リンディスを飄々と眺めている。突飛な話だが、半年近く前よりハウゼンより言われていた事ゆえに、平静でいられるのだろう。それどころか、その準備を確実に進めている。
「……おじいさまから言われた時、驚かなかったの?」
「正直、驚いたさ。お前がサカへ行く事はおれも予想していたけどな。だが、何も領地ごとくれてやる事はないのにな」
 友の前のせいか、元来不行儀な若侯爵は口調も荒く、詰襟を外し始めた。何かと礼儀に口うるさい家臣は、今は同席していない。
「考え直さないかって何度も言ったんだ。それは孫が決める事だの一点張りだ。―――万が一お前が侯爵家を継ぐって言い出したらいつでも取り消しはするが」
 眼前で組んだ両手の姿勢から、ヘクトルの瞳が光った。が、それはすぐに消え失せた。
「ああ。わかったよ。面倒だからキアランの家臣や騎士はそのままキアランに置いておくからな。ついでに統治もお前んとこのラギス卿やデカンゼ男爵やらに丸投げしておくからな」
 やけに芝居がかった大仰な素振りで、ヘクトルは言い放った。
「ありがとう、ヘクトル候」
「候はよせ、候は。構ってられる余裕ないからハウゼン候の言う通りにしてるだけだ。あ、あとおれは忙しいから見送りはエリウッドにでも頼みやがれよ」
 

 ラギス卿を始め、デカンゼ男爵やオルテーヌ子爵など、ハウゼンをよく補佐していた貴族らが先達ち、前侯爵の遺志を他の貴族らに諭す努力は地道に行われていた。始めは反発も少なくはなかったが、理解は小さな種が根を張るように次第に広がり、受け入れられるまでになった。
 オスティア領の一部になると言っても、統治権や騎士団、キアラン貴族の特権などはほとんど以前と変わらないのが大きな理由なのだが。ヘクトルもキアランの民や貴族の混乱を避けるために、あえてオスティアから高官を出さなかったのだろう。


 東から風が吹いている。出立はそんな日と決めていた。草原の民の勘はすっかり彼女の中に戻っていた。
 キアラン騎士、ヘクトルはもちろん、エリウッドの見送りは断った。いずれ草原に帰るとだけ手紙をよこしただけだ。キアラン候女ではなく草原の民に戻るのだ。紳士の護衛など必要あろうか。
「おじいさま。では草原に帰ります」
 リンディスは首飾りを胸元から取り出した。銀で造られたそれは祖母から贈られたというもので、祖父が常に身に着けていたものだ。たった一つだけの祖父から受け継いだ物だった。

 キアラン家から馬を一頭譲り受ける手はずだった。だが、厩舎の入り口にいたのは、見知った馬丁ではなく、もっと見知った騎士だった。
「ケント」
 見送りはしないでと告げていた。困ったように眉を寄せる。どんな顔でサカへ行けばいいのか。別れを告げればいいのか、リンディスはその方法を考え始めた。
「ご命令に背く事をお許しいただければ」
「キアラン候女である事を捨てたわたしに、もう仕える必要はないわ」
「私がお仕えしたいと思うのは『キアラン候女』でないと申しても、ですか」
 その言葉の意味を飲み込んだ瞬間、息がつまりそうになった。
「以前も申し上げました。何があってもあなたのお味方だと、あなたをお守りすると」
「だ、だめ」
 かたかたと音がせんばかりにリンディスは首を振った。ケントもまた、真っ赤な顔を上げた。
「なぜですか……!」
「草原で生きて行くのに、誰かに仕えるとか、従うとか言ってられないもの。みんなで助け合って行かなければ、草原で一緒に暮らす意味はないの。だから……」
 生きていく。一緒に。
 自分で言ったにもかかわらず、リンディスは思い切った事を言ったと顔を赤らめた。そして、ケントもそれに気付いたようだ。
「私も騎士ではなくなりました!草原で!生きていきます、あ、あなたと……!」
 震える声を疑った。キアランの騎士に誇りを持っている事は、リンディスも良く知っていた。だが、嘘をつくような性格ではない事も。それに、こんなにも赤面しているではないか。信じるなと言う方が無理だった。
「ほ、本当に……?」
 それでも、真意の確認を口にせずにはいられないのだが。
「本当です!」
「結構不便よ」
「心配いりません!」
「『リンディスさま』は止められるの?」
「…………っ」
 そこで始めてケントは押し黙った。
 それは躊躇するのか。
 半ば呆れながらも、リンディスは次第に笑みを見せる。膝をつくケントの手を取り、立ち上がらせた。
「行きましょう。ケント」
 颯爽と馬に乗ると、リンディスは空を仰ぎ、目を閉じた。空と大地がどこまでも続く故郷。そこに、二人で立っている情景を思い浮かんでくると、胸が高鳴った。サカの自然はきっと、彼を受け入れてくれるだろう。馬に乗って、羊を飼い、機を織って生きるのだ。
 東からの風はずっと吹いていた。サカを目指す者たちを導くように。
10/05/09   Back