2 大円舞の夜

 木々のざわめきも梟の声も、館から流れる弦楽器の音にかき消されていた。数え切れぬ程の獣脂と蝋燭が迎賓館のダンスホールを照らし、真昼とは違ったまばゆい世界を作り上げていた。
 その非現実的な空間に埋もれ、頭に霞がかった感覚から逃れようと、フィンはそのにぎやかな大ホールから中庭へ突き出たテラスへと出る。熱くなった頬に、夜の冷気は心地良かった。
 華やかな世界を振り返れば、彼の主君が従兄弟と杯を手にしていた。フィンの目には随分と楽んでいるように映る。それならば、とばかりにフィンは襟元を緩め、テラスを縁取る手すりを乗り越えた。酒がもたらされる場である。周囲にいた貴族達も、フィンの行動を酒に酔ってのものだと、自らも酒精に頬を赤らめながらそれを見ていた。

 軽快な旋律も、笑い声も遠ざかっていくのがわかった。迎賓の館の中庭の東には小さな森―――この館の主、グランベル国王が妹の為に作ったと言われている―――がある。ほぼ闇の世界であるそこを抜けると、先刻の迎賓館までとは言わないが、豪奢な屋敷が見えた。本来、迎賓館へ行くには別の道がある。兵士に見つかれば面倒だとばかりに警備の目をかいくぐりながら来客用の屋敷へ戻った。
 宛がわれた部屋には彼の従者がいた。留守番を労い部屋へ戻させると、安堵の溜息を吐く。主君の父キュアンの従者の頃から社交の場へ赴くようになったが、何度出席しても居心地の悪さを感じてしまう。胸中で主君に詫びながら、フィンは卓上の燭台に明かりを点けた。溶けた蝋に浮かぶ芯がちりちりと音を立て出す。
 私物の鞄から、ひと束の書類を取り出す。トラキアからグランベル王都バーハラまでの長旅で滞る業務を少しでも緩和する為に持ち込んだ物だった。友好関係の国とは言え、自国の極秘業務は避けてはいる。雑務に近いものだったが、夜が白むまでの時間を過ごすならば、この方が自分に合っている。元より、夜会が閉幕する頃には戻るつもりだった。橙色の光に照らされた文字をなぞりがら、フィンは筆を取った。


 森の向こうからわずかに聞こえる曲が、二、三度代わっていた。バルコニーが続く窓辺へと歩み寄ると、夜の黒い森を挟んで迎賓館のテラスが照らされていた。二人は充分に楽しんでいるだろうか。フィンはダンスホールにいるであろう主君と彼の姉の姿を思い描いた。
 今夜の月の光はぼんやり見える。この晩餐会の無数の光のせいだろうか。その頼りなさげな月に、黒い影が浮かび上がる。

 随分と大きな蝙蝠だな―――

 フィンはそう感想を呟いたが、その影が徐々に大きくなって行くにつれ、眉間に皺が刻まれる。急いで窓を開け放つと、吹きすさぶ冷たい夜風にも構わずに、バルコニーのタイルに膝をついた。頭上で、重たげに羽ばたく音が聞こえる。
「もう、頭を上げて」
 タイルの床に降り立つ足音と共に、非難交じりの声がした。ゆっくりと顔を上げると、間違いなくフィンの主君の姉だった。消極的に寸法を測らせていた襟ぐりの大きく開いたドレスに、無骨さを感じる外套を羽織っていた。
「アルテナ様。なぜ、騎竜に―――?」
 立ち上がり、正直な疑問を主君の姉―――アルテナに投げかけた。トラキアからグランベル王都バーハラまでは、馬車での長旅だったが、「王立軍との訓練」と称して騎竜も連れて来ていた。しかし、今夜は軍事訓練ではない。この来客用の館から迎賓館へ共に出向いた時も、馬車だった。
「一通り挨拶を終えたら、抜け出してこの子と一緒にいたの」
 薄く紅を引いた唇に笑みを湛えさせながら、アルテナは竜の鱗に覆われた首を撫で、ねぐらへ戻らせる。密かに騎竜を迎賓館へ連れ出していた事も告げた。主君に同行して旧知へ挨拶を交わしている間に出て行った事も。フィンはアルテナにわからないように、小さく息を吐く。
 今夜の夜会は、グランベル王からレンスター家の姉弟へ招待状へ送られた。しかし、社交の場をフィン以上に嫌うアルテナはそれを固辞していた。弟リーフは純粋に同行を請い、家臣達はある思惑を含ませて説得していた。

「フィン殿、すぐには結果は望みませぬ。せめて、良い方向に持って行けるよう頼みますぞ」
 出立前に、文官の一人からそう耳打ちされた。
 達成できるよう努力する方法をフィンは知らなかった。トラキア王国の王女であり、ノヴァの血を受け継ぐアルテナはそれだけで人々の関心を引きつける。現に、大ホールへと入った時から、貴族の子弟達は彼女を壁の花とする事を許さなかった。家臣達の望みは、この王女の意向次第でどうとでもなると言っても過言ではない。

「フィン」
 名を呼ばれて、立ち上がる。月明かりの影で、王女の表情すらも翳るように映し出される。父親譲りの濃い茶色の瞳は、じっとフィンを見据えていた。フィンもその姿にまぶしそうに目を細める。
 恐らく、彼女は気付いているのだろう。家臣達の思惑を。そして、それが己の責務だという事を。
 フィンはゆったりと腰を折り、アルテナの前に手を差し出した。
「どうか私と踊っていただけますか」
 フィンの手に重ねられた手には、戸惑いなど微塵も感じられなかった。取った手を高く上げて、深く頭を下げる。迎賓館から流れる音は小さく、踊るには狭すぎるバルコニーではあるが、二人には充分だった。

 いつか「その日」が来るまで、二人で踊り続けよう。
 決して口にはしない約束が交わされた。
08/02/23戻る

-Powered by HTML DWARF-