身を賭して



 溜息は、何回目だろうか。
 無意識に息を吸い、ゆっくりと吐き出す前にそれが溜息なのだと気付く。だから、引き戻せないそれをわざと盛大に吐き出すのだ。
「……フィン」
 ごろりと寝返ると、搾り出すような声がした。恨みがましさを目一杯含ませて。
「もう、大丈夫だから……」
「その状態のどこをどう見れば大丈夫なのか、臣には図りかねます」
 あからさまに「嫌味です」と言う声色が傷身のアルテナを襲う。アルテナは溜息を喉下で堪えた。吐いてしまえばこの家臣と同様だと。
 目覚めた時から渋面を崩さぬ騎士を横目に、アルテナは己の左手―――正確には左手に巻かれている包帯を見た。左手だけではなく、額と、肩から背中にかけて白い布はアルテナの身体に巻きついている。その下で、白い肌に刻まれた傷と痣が未だにずきずきと痛む。それも戦いに出る身ならば覚悟の上なのだと、この男はどうしたら理解してくれるのだろうか。

 
 養父トラバントの元では、深窓の姫でいる事など許されなかった。アルテナも、それに疑問を持つ事なく竜に跨った。それから、戦に出る気概になんら変わりあろうか。

 ごろりと再びアルテナは身体の向きを変える。意識を戻してから、居心地悪そうに何度も体勢を変えていた。それでも、決してフィンが座る方向に向く事はなかった。レンスターの騎士は自国の王女のその姿を、憮然とした表情で見ていた。
「余計な事だったかしら」
「その様な事はございません」
 呟きに、フィンは否定の言葉を重ねる。
 ノヴァの継承者という要素を抜きにしても、この王女の槍の腕は確かであった。素質なのかそれとも環境なのかは不明だが、彼女が生を受ける前から槍を握っていた身としては焦りを感じる程である。それに、一国の王女らしからぬ戦慣れした振る舞い。傭兵で身を立てているトラキアらしいと言えばそうなのだが。それでもアルテナは王女で、フィンはその臣下。フィンにとって守るべき存在なのだ。
「ただ、ご無理をなされては困ります。それだけです」
「無理?」
 ようやく、アルテナはフィンへと顔を向けた。
「確かにあの時は迂闊ではありましたが、アルテナ様お一人であの数も突撃なさるには」
「だって!」
 深い傷も忘れて勢い良く跳ね起きた。直後にアルテナは自分の身体を覆っているのが、包帯と膝までの薄布だという事に気付く。慌てて毛布をかけ直そうとしたが、先刻の勢いで寝台の下に落ちたらしい。取ろうと腕を伸ばすも、傷の痛みにそれもならない。
「それも無理だと申すのです」
 アルテナの姿に眉一つ動かさず、フィンは落ちた毛布を手にアルテナの肩に掛ける。それに身を隠すように、アルテナは毛布の端を握り締めた。
 戦場では我を忘れてはいけない。これは養父からも、兄からも強く刻まれていたのだと言うのに。単身で敵に囲まれたフィンを見た時、なりふり構わずに文字通り「突進」してしまったのだ。今更ながらに恥ずかしさで身が焦げる。
 
 濃い茶色の髪越しに、溜息が聞こえた。それから、しばらく部屋は無音となる。その沈黙を破ったのはフィンだった。
「アルテナ様がご無理をなされば、この私の身が持ちません」
 ゆっくりと髪と同じ色の瞳が向けられる。
「ですからどうかご無理はなさらないで下さい」
 明るい青の髪が揺れる。目を瞬かせながらそれを見ていたアルテナは、うっすらと笑みを浮かべた。
「それは、誰からの『お願いかしら』?」
 その笑みに多少の驚きを見せながらも、フィンは思考を巡らせるまでもなく、幼かった王女の笑顔を思い出す。「それは、誰からのお願いなの?」小さな姫はよくこう言っていた。
「もちろん、あなたの騎士からのお願いです」
 そう答えると、包帯に巻かれていない右の手の甲に唇を押し当てた。


08/03/01TOP

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