許されぬ想い

 冷たい風が、頬と濃茶の髪を撫でる。 

 豊かな北トラキアに思いを馳せるも、やはりこの南トラキアが好きだった。特に、こうして空から見る赤い大地は。

 わずかに緑成す畑から、領民が空を見上げる。視線が捕らえた飛竜がアルテナだとわかると、満面の笑みで手を振った。アルテナも、それを同じくして返す。

 ゆったりと旋回し、居城へと翼をはためかせた。トラキア半島が統一されても、この地は肥える事はない。しかし、それでもアルテナは戦の影のない今を慈しんでいた。


 居城は長年吹きすさぶ風が運んだ赤い砂に染まっていた。砂埃を舞い上げながら、飛竜は執務室と続くバルコニーへと降り立つ。待ち構えていかかのように、従者達が部屋から姿を現した。


「レンスターから、フィン様がおいでになられています」
「フィン?」

 従者の一人の報告にアルテナは来客の名を繰り返した。手綱を従者に託すと、アルテナは彼がいるであろう客間へと向かう。弟の下で新生トラキア王国の治政に携わっている彼がどうしたのかと心が逸る。自然と繰り出す足は速まっていた。


「フィン!」
 扉を開けると、フィンは膝を折った。騎士の身分であるから当然とは言え、毎回のように見るその姿に、アルテナは内心で溜息をついた。幼い頃は、どんな時でも笑顔で迎えて入れてくれたのに。

「フィン、顔を上げて下さい」

 非難めいた叫びは喉までせり上がるが、それを抑えるようにゆっくりと言葉を選ぶ。その声で、彼はようやく立ち上がる。

 それでも、向けられたのが忠臣の顔でも、焦がれた姿だった。だが、アルテナはこの臣を南トラキアのいち領主として迎え入れなければならない。もう昔とは違うのだと何度己に言い聞かせただろうか。

「遠路ご苦労様です。して、如何なされたのですか」
「はっ……」
 短く返事をすると、フィンは手にしていた書簡をアルテナに差し出す。トラキア王からだという事も付け加えた。

 羊皮紙に綴られた文字をなぞると、アルテナは了承の言葉をフィンに伝える。フィンはそれに深く頭を下げるだけだった。

 彼に気付かれぬように、アルテナは苦い笑みを浮かべる。彼は、トラキア王の片腕たる家臣なのだ。王の姉とは言え一地方にまで書簡を届ける役目など、他の者でも勤まった。これがトラキア王のはからいだと、彼は悟っているのだろうか。


「フィン、折角トラキア―――じゃないわね、南トラキアまで来たもの」
 ならば、弟の「はからい」に甘んじさせてもらおうと、アルテナは視線を目の前の騎士から壁に掛けられている槍に移す。その意図を察したフィンは、明るい青の髪を軽く下げた。



 中庭の一角に、城主の訓練場がある。石壁に無造作に立てかけてある槍は、刃先が丸くなっていた。アルテナはその一本を手に取る。

 二人は十七年ぶり―――アルテナが解放軍に加わった時から、槍を交えて来た。その時から、この時間がアルテナは嬉しかった。今も、目の前には一人の騎士としてフィンが槍を構えている。彼も、この時ばかりはアルテナを「王女」としては見ない。同じ槍を使う戦士としての目を向けてくれるのだ。アルテナは、この目が好きだった。

 それでも、自分が幼かった時分と比べてしまう時があるが。あの頃の、まだ幼さが残る騎士は優しく笑いかけてくれた。今槍を振っている腕は、今でも自分を抱き上げてくれた事を憶えてくれているだろうか。

 槍の柄が激しくぶつかり合う。その音が、この騎士の答えのような気がしてならない。

  
 鳩尾に強い衝撃を受けたかと思うと、アルテナの身体は後ろへ飛んだ。背中を強く打ちつけ、苦痛に息が漏れる。

「大丈夫ですか、アルテナ様」

 何とか半身を起こすと、大股でゆっくりと歩み寄るフィンの姿が見えた。
「大、丈夫よ……」

 痛みはアルテナの腹部の奥底にまで残っている。だが、「王女」だと言う理由で手加減されるくらいなら、この痛みを味わった方が格段に良い。

 目の前に、フィンの大きな手が差し出された。二十年近く経っても、その手は変わらないように見えた。その喜びと、また「レンスターの騎士」に戻ってしまったのだという落胆が同時にアルテナの胸中を覆い始め、戸惑いながらその手を取った。

「やはり、あなたには敵いませんね」

 アルテナもまた、王女然としてフィンに微笑む。軽く下げられた青い髪が、西の太陽の色に染まり、その影で彼の顔は見えなかった。

08/02/27戻る

-Powered by HTML DWARF-