6 あなたのために
全てを捨てると言うのはこの事だった。
あなたさえいれば他には何もいらない、などと今さらどこの物語にもない。
騎士としての地位。
候女としての立場。
それらをかなぐり捨てて、私達は草原へ行く。向かい風が気持ちいい。
見送ってくれた友は終始笑っていた。
「お前さんがこれ程までに行動派だったとは意外だったなー」
一言余計だが。
「お前の好きに生きなさい」
主君であるハウゼン候が眠りにつく前、後継者に遺した最期の言葉。だが、候にはわかっていた。この方がこの地に留まらない事を。風はいつしか草原へ戻る事を。
喪が明けてから、密かに候がオスティア領に合併する手続きを取っていた事を知った。将来に揺れる孫娘の背中を押したのだ。
草原へ帰る決心をしたリンディス様を、私は引き止める事はしなかった。「好きに生きろ」という遺言に反する理由があろうか。だから私は申し出た。キアランはやがてオスティアになる。キアラン侯爵家に仕えていた者は厚く遇するとヘクトル候はおっしゃっていたが、私が仕えるのはキアラン家のみ。キアランの血筋は、もうこの方しかいないのだ。
「素直じゃないねぇ」
と揶揄する友人の声など無視して。この男は、本当に一言多いのだ。
だが、リンディス様は私の申し出に首を横に振った。
「草原はね、『今』を生きて行くのが大変なの。だから家族や一族があるの。手を取り合って生きて行かなければならないのに、誰かに仕えるなんて、そんなんじゃ草原では生きて行けないわ」
そう答えるリンディス様の顔は赤かった。恐らく、私も同様であっただろう。
差し出された手を私は握った。騎士として高貴な女性に対する様な扱いではなく、一人の男として。強く、もう離すまいと。
「ケーンートー」
リンディス様は、恨めしそうな声で私を睨んでいた。
「わたしが言った事わかっていないじゃない。どうしてわたしだけ馬に乗らなきゃいけないのよ?」
それは、私の貯えではこれからの生活も考慮すると、馬一頭だけしか買えなかったからです。
「だからっ、一緒に乗ればいいじゃない。これは命令よ!」
矛盾していますが。
「誰のせいなのよっ。さ、文句言わない!」
結局大人しく従うしかないのだ。「対等だ」と言われてもしばらくはそうなる事はないだろう。リンディス様の後ろに飛び乗ると、ふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。それだけで、身体が熱くなる。触れる度に、血が沸騰しそうだ。
そんな私の苦悩を知ってか知らずか、リンディス様は楽しそうに草原の事を話す。その声は本当に生き生きとしていて、これが本当の彼女なのだと改めて思った。
心地よい風が頬を撫でる。「これが草原の風よ」と教えてくれた。
「あ、それからね」
不意に、リンディス様は私の身体に背中を預けた。
「風と草原の匂いも好きだけど、ケントの匂いも好きよ」
私はもう何も言えなかった。