2 悪いのは絶対そっち!

 兄とミストに見据えられ、ボーレはやはり言ったのはまずかったか、と奥歯を噛む。
 こういうのってもうしばらく、外見からでもわかるくらいになってから言うのだと、どこかで聞いた覚えがあった。
 
 ミストは顔を赤くさせ、震えていた。その様子で、ボーレは危惧を確信に変える。
「す、すまん。ミ……」
「ボーレの馬鹿っ!」
 これ以上ないほどの大声が、ボーレの鼓膜を打った。不意の大声に怯んだ隙に、ミストは踵を返す。
 止める間もなく、ミストは食堂から姿を消す。兄弟と雨音だけが残った。


 ふう、と小さな溜息が沈黙の間を縫った。
「何だよ、兄貴」
「別に」
「軽蔑しているのか、おれを」
 不貞腐れ、ボーレは荒々しく椅子に座り、机に肘をつく。
「お前もミストももう子供じゃない」
 背だけが伸びているだけかと思いきや、小さな弟たちは自分の手を離れて生きていけるまでになったのだ。ボーレが仲間の娘とどういう関係になろうと、もうオスカーに干渉する権利はない。元々する気などないのだが。 結婚と聞くと亡父の体たらくが思い出すのが実のところだが、ボーレにはその血は継がれていないと信じるしかない。
 
 オスカーの言葉に幾分か心が軽くなったのだろうか。ボーレは憮然とした顔が少し緩み、椅子に背を預ける。
「できればちゃんとした段階を踏んで欲しいとは思ったが、まあ仕方がないだろう。ところで、アイクには言ってるのかい?」
 そこで、弟は押し黙った。どうも、口外したのは今回が初めてのようだ。
「妹に手を出して怒るような男じゃないと思うんだけどな」
 むしろ、あいつに嫁の貰い手があったと喜ぶんじゃないか、とオスカーは笑って見せる。ボーレも引きつった笑いを見せた。
「取りあえず、現状を悔むより、皆にちゃんと話す方が先だと思うな。きっとみんな祝ってくれるさ」
 励ましの手がボーレの逞しい背中を叩いた。
「ありがとうな、兄貴」
 照れくさそうに鼻の下を擦りながらボーレは立ちあがる。
 ひらひらと手を振ってオスカーは食堂を去る弟を見送った。



 それほど広くはない建物だが、皆の私室が並ぶ一角までの道のりは長く感じた。その間、これからどうするかを考えていたからだろうか。
 肚の底に鉛が沈んでいる感覚がしていた。無論、嬉しくないはずはない。だが、そうと知っても実感が湧かないのも事実だ。だが、それを理由に逃げてはいけない。将来ミストとはそうなる事を夢見ていたではないか。それが思いがけず今やって来ただけではないか。
 それとも、ミストは望んではいなかったのだろうか。子を成す行為も、ただの快楽の交歓とみなしていたのか。
 嬉しさと戸惑いと、ミストの態度がぐるぐると頭を巡り、彼女の部屋を訪ねる事を躊躇わせた。
 だが、現実から逃げてはいけない。こういう事はきちんと話合わなければと奮い立たせ、ミストの部屋を叩く。

「ミスト、おれだ」
 ノックとボーレの声の余韻がしばらく続く。
 扉の向こうに重く沈んだ空気感じる。人の気配はするが、動きそうもない。諦めて引き返そうとした時、蝶番が鳴った。小さく開いた扉の影で、ミストは渋面を隠さないでいた。
「さっきは、すまん」
「どうしてあんな事言ったの?」
 素直に頭を下げるも、ミストの返事は冷たい。普段なら、その態度に思わず熱くなり噛みつき返すところだが、今回ばかりはそんな気も起きない。やはり、言ったのはまずかったかと、唇を堅く結ぶ。
「けどな、早めにみんなには言っておいた方が……兄貴もわかって」
「だから、何で子どもがいるなんて言ったのよ!」
「いや、だから、悪かったって」
「わたしのどこに子供がいるってのよ!」
「ミスト……?」
 ボーレはミストの怒りがどこ指しているのか理解できなかった。怒りに顔を赤くするミストを前に、二の句が告げない。
「できてるはずないじゃない!ボーレの馬鹿っ!」
 強い風に煽られたかと身を引いた瞬間、派手な音を立てて扉が閉まる。
「おい、ちょっと待て、ミスト、ミスト」
 慌てて扉にかじりつき、拳で叩くが反応はない。何度もミストの名を呼び、扉を叩くも、状況は変わらなかった。やがて諦め、手を離す。
 離した手は、なぜか自分の下腹部へと置かれた。
 わたしのどこに子供がいるってのよ!
「もしかして、できてないのか……」
 ようやくその疑念に辿り着く。
 本人から言われた事ではなく、ましてやその兆候を目の当たりにした訳でもなく、ボーレの判断でそう確信した事だった。
 勢いとは言え、兄の前で言ってしまった事をミストは責めているのではなく、妊娠そのものを否定しての怒りだったとすれば。
 腕を組み、唸る。
「いやいや、絶対にできてる!そうだぞ、ミスト」
 扉を挟んだ恋人に向かってそう断言する。
 思い込みの激しさと、融通の利かなさは誰に似たのか。オスカーの常々首を捻るところだった。
「だからきちんとこれからの事を……」
 何か固い物が扉にぶつかる音が、最後の言葉を遮った。杖か本か。わからないが、それがミストの返事なのは確かだった。
10/06/17   next Back