明日。明日こそはと決めた日取りはとっくに来訪していた。
だが、心に決めたはずなのだが、ボーレはいまだぶつぶつと呟いていた。昨晩はミストの部屋の前でだが、今は訓練場も兼ねた庭で。訓練用の斧の柄に体重を掛け、偉丈夫が暗い顔で何かを呟いている姿は、傍から見れは不気味な事この上ないのだが、その原因とボーレの気質を熟知している仲間は関知せずにいる。雨は昨晩よりも勢いは弱まったが、未だ降り続いている中を推して彼を慰めようとする者もいない。
ごめん。おれの勘違いでした。
こんなにも短い言葉を、なぜ言い出せないのだろうか。
錘を着けた斧を力いっぱい振り下ろしては、砦へ首を向ける。そして溜息をついた。
この動作ももうすっかり慣れたものだ。何年繰り返してきだだろう。
嫌な事―――決まって喧嘩、しかも特定の相手との場合に―――があれば、大抵斧を振ってわだかまりを砕いて来た。だが、今は何度斧を振ろうとも、心に纏わりつくものは消え去るどころか、次第に重くなって行くのがわかる。それが余計に苛立たせ、基礎も忘れて荒々しい振り方となる。
こんな振り方をティアマトに見られてしまえば、厳しい注意が飛んでくるだろう。それは本人もわかっているのだが、今は鍛錬の為に斧を振ってる訳ではないのだと、また力の限り斧を奮う。
ボーレの濡れた手のひらから、ずるりと柄が抜け、湿った土に突き刺さる。思く溜息をつき、柄に手をかけた。長らくこうしていた為か、腕だけではなく、身体全体が寒さを訴え始めていた。だが、ボーレは構わずに斧を地面から抜いた。
「部屋で考えたら?」
「別にどこで考え事しててもいいだろ。誰にも迷惑かけてねえ」
蒸し暑い部屋で考えていたら、思いあまって壁を壊しかねなかった。
「でも朝早くからここにいるじゃない。風邪ひくよ」
「そんなにやわじゃ……」
背後からの声にぶっきらぼうに答えていたが、その声は妄想から生まれたものではなく、本物がいる事にようやく気付く。ぎこちなく首を動かすと、素っ頓狂な声を上げて後ずさった。ぬかるんだ土で派手に滑り、危うく尻もちを付くところだった。
「なななななんで、おまっえが、いるんだよ!」
派手な後ずさりと、息を詰まらせた声に、ミストは眉根を寄せる。
「いちゃ悪いの?」
平然とした顔で言い返され、口をつぐむも、すぐに食いつくように口を開いた。
「おれはともかく、お前が濡れるのは良くないぞ」
「わたし一人の体ですから」
平然とした調子でまた口を封じられる。
いちいち嫌み言うなよ!
憮然として泥で汚れた足元に顔を向けると、ふわりとした物が頭を覆った。乾いていた布であろうが、この雨で湿り気を含み始めていた。それでも充分に暖かく、何としてでも追い返そうと考えいた言葉を押し込めた。
「あ、ありがと、な……」
巾を被ったまま、呟くように言った。
「うん」
「それと……」
ようやく口に出せた言葉の方は、雨が地面を打つ音にかき消された。
巾の間からミストを見遣ると、じっとボーレを見つめ、頷いていた。すぐに視線を反らした。被っていた大布をミストにかけ直す。雨空に長くさらしたせいで雨水を吸い、もう雨避けの意味を成さないが、ミストはそれをすんなりと受け取る。
「もう一枚、取って来ようか?」
「……そうだな」
砦へ二人して戻るという選択はボーレの頭にはなかった。冷たい雨の中だが、そんな環境だからこそ、素直でいられるような気がしたのだ。
意外とあっさり仲直りできた事に、ボーレは安心していた事もあるが。
思い返せば、ちゃんと謝って(とは言い難いのだが)仲直りしたのはこれが初めてかもしれない。
「あのね、ボーレ」
中庭から室内へと繋がる入り口の前で、ミストはぴたりと立ち止まる。
「誰から聞いたの?」
「は?」
「だから、その、できるって、事……」
ミストは口ごもりながら説明する。
どうやら、誤解した知識を誰が入れたかと訊いているらしい。
「お前の兄貴に」
正直に答える。すると、ほんのりと赤みが差していたミストの顔が、みるみるうちに青ざめて行った。
「いつだったかな、酒を飲ん」
それ以上の言葉を聞かず、驚くべき速さでミストはボーレの傍を通り過ぎ、ひとり砦内へと入って行った。
雨の中残されたボーレはそれを唖然と見ているだけだった。
END?