01 膝に乗っかって




 その部屋に入った途端、特有の気配を背中に感じた。
 ―――来たか。
 しかし、素早く気配を察知したものの、がばっと大仰なまでに空を切る音が気配とは違う方角から聞こえ、次の瞬間には強い締め付けと息苦しさに襲われた。
 武芸を極める事に関しては、誰にも引けを取らぬと自負していたのだが―――だが、足元まで来られてしまえば話は変わる。視界に入らない身長差、元より予測のつかぬ言動。要するに、避けきれなかった。首から肩が急に重くなり、ロンクーの動きは止まる。

「ぐぬ……」
 まともに首を絞められ、己の情けない声を苦く思うのと、息苦しさが心境を塗り固める。当の本人のえへへと呑気な笑い声が肩越しに聞こえ、ロンクーは奥歯を強く噛んだ。
 
 だいすきだよ。
 と、耳元でささやかれても、長い髪からする匂いが鼻孔をくすぐっても、息苦しさが全身を支配し、それどころではない。何とか身をよじって背中に腕を回し、全体重がロンクーの首に掛けられていたが、それを軽減する。苦しみから解放されると、ほう、と大きく息を吐いた。

「えへへ、おんぶ」
「ああ……」
 脚を支えている腕を離そうとしたが、ぷらぷらと宙を掻いていた脚が急にロンクーの胴をに絡み付いた。ロンクーは眼光鋭く周囲を見回し、誰もいないと確信する。そこでようやく安堵が広がる。誰も見ていない状況ならば、おんぶであろうが抱っこであろうがどうでもいい。部屋の隅に椅子に、この体勢のまま歩いて行く事だって厭わない。
 降ろそうとしても聞かなかったのだ。この椅子へ座れ、と言っても同じだろう。
 器用に背中の身体を身体の前へとずらす。本人もその意図に気付いたのか、嬉々として移動を手伝った。その様子はまるで竜ではなく、樹の上で遊ぶ猿のようだ。ロンクーはいつもそう思う。
 

「ノノの勝ち!」
 椅子に腰かけると、あどけない歓声が細い両腕と共に上がった。
「……ああ、そうだな」
 重々しい口調でノノに同調する。悔しいが、認めざるを得ない。竜の娘が、日々腕を磨く剣士の為にしてやれる事―――大きな竜となって挑まれるより、小さな身体と素早い動きで死角を狙う方法を、ロンクー自ら望んだ。彼女に任せておいた無邪気な攻撃方法はともかく、動きまでは、フェリアでも名の知れた剣士と言えど読み切れずにいる。今まで彼女の"攻撃"を止めたのは、訓練を始めてより三度もあっただろうか。
 
 だが、彼の渋面の理由は敗北そのものではなかった。背後を取られるのは己が未熟であるがゆえ。しかも、武術には明るくない少女の技に。失敗したら成功するまで身を研ぎ澄ます訓練を積めばいい。幸いな事に、この竜の娘はこの鍛錬に喜んで協力してくれている。こそまでは問題ないのだ。問題があるのは、この先。

「ロンクー、ごほうび」
 我が物顔で膝にまたがっている竜の娘は、くい、と顎を突き出した。そう、問題があるのは、この先。
「うむ……それでだな、今日は飴を……」
 全てをうやむやにさせてしまおうと、ロンクーは懐に手を遣った。
「駄目」
 やはり誤魔化しは効かない。眉根を寄せ、頬が膨らむ。そのかんばせが愛らしくないと言えば嘘にはなるが、この時ばかりは彼女の前でも緊張と戸惑いが走る。幼い姿と言動に完全に安心ていたが、妙に大人びた―――正確に言えばロンクーが―――が困る要求を知っていた。
「約束は約束だよ」
 固まり続けるロンクーに痺れを切らしたのか、竜の娘は懐から拳大の玉を出した。
「待て、脅すな、脅すな……!わかったから!」
 慌てて身を乗り出すと、竜の娘は満足げにんまりと笑う。そして、姿勢を正すと、再び瞼を閉じた。


 
12/05/25   Back