3 離れてから照れるふたり



「我が息子ながら、情けねえべ」
 彼もまだ十代半ばの若者なのだが、遠くにいる同じ年頃の息子に向けて、溜息と共にそう吐き出した。

 そこに居るのは未来から来た彼の"息子"と、恋仲―――であるらしい―――の少女。野営地の天幕の群れから離れた草原にて、向かい合って何かを言い合っていた。この距離では会話は仔細は聞こえないが、若い男女の仲睦まじい逢瀬の場面には到底見えない。
 
 息子の性格は軍内でも有名で、ドニも彼には呆れている。粗方またいつもの"習慣"にルキナに苦言を言われているのだろう。毎度繰り返される光景に、当人でなくともため息が出るものだ。ドニは文字通り、草葉の影で泣いていた。

「おらより女の子には慣れているはずだろうになあ」
 ルキナに謝り倒すアズールを、軍内で見た事がない者はいない。今も身振り手振りで弁明しているように見えるが、ルキナの怒りは収まりそうにない。
 アズールは、暇を見つけては街へ繰り出している。若い娘に声をかける為に。そこで知り合った娘と遊んでいるはずなのだが(それはドニの勘違いではあるのだが)、今は近しい仲の娘の機嫌を戻すのに四苦八苦していた。
 
 ルキナは一国の王女であるにもかかわらず、誰にも等しく礼儀正しい。その彼女が声を荒げはしないものの、アズールを糾弾しているのは見て取れる。

「ドニさん」
「いい加減にしねえと見限られるべ……」
「何がですか?」
 ドニは視線と同じ方角を指差した。
 相手が王女だから言うのではない。身分を差し引いても、ドニの目にはルキナは魅力的な少女に映る。(勿論ドニは妻が一番なのだが)
「あら……アズールには参りますね。あんな事を繰り返していては、いつかは愛想を尽かされちゃいまいすよ」
「んだ」
 ドニは深く頷く。あのような軟派でいい加減な性格の息子には、ルキナが不憫でならないと言うべきか―――


「―――ひぃっ」
 目先の男女のやり取りにやきもきしいたせいで、背後の人の気配には全く気付いていなかった。幸いにもドニの声は向こうにいる二人には届いていないようだ。振り返ると、妻―――オリヴィエが目を丸くしていた。
 ドニは慌てて人差し指を口に立てる。声を荒げたのはドニの方だというのに。
 
「ドニさん―――」
 困ったように首をかしげ、オリヴィエは夫の名を呼んだ。なぜ彼がこのような体勢で息子たちのやり取りを眺めているのかは分からない。
 しかし、ふと視線を上げたオリヴィエの大きな薄い灰色の瞳が、さらに大きく開かれた。
 アズールが、息子が、強引に恋人の腕を取り、自らの胸に華奢な身体を引き寄せている。そして、ルキナの顎に指がかかり―――

「―――!あっ」
 オリヴィエの声は鍛えられている。踊りとは違い、歌は完全に個人的な趣味ではあるのだが。おまけにオリヴィエは、この手の世界の人間とは思えないほど純朴だった。男女の秘め事など幾多も見ているはずなのだが、目の当たりにして一向に慣れる気配はないようだ。バジーリオ曰く白鷺を思わせる声は、大きくはないが遠くまで響いた。アズールとルキナの二人の耳に届くほどに。
 
 二人はびくりと動きを止めたかと思うと、声の方向へ顔を向ける。整った顔ばせは汗ばみ、片方は強ばらせ、また片方は赤くさせながら、気まずそうに、ゆっくりと二人の身体は離れる。

「父さん、母さん、何してるの……?」
「い、いや、おらはたまたま居ただけで……っ!」
 ドニは頭の鍋を小刻みに揺らすも、周囲の者たちはオリヴィエも含めて、誰も彼を信じてはいない。
「わざわざ鍋に枝を付けて?」
「……!それは……!」
 息を呑むドニに、アズールは大きく溜息を吐いた。
「まったく、実の親に覗き見られるとはね。父さんも母さんも趣味が悪いよ。行こう、ルキナ」
 そう言い放ち、アズールは野営地に足を向ける。ルキナも固まった顔のまま二人に一礼してアズールに従った。
「あー、あの、すまねえだ」
 ドニの小さな声は、アズールとルキナの背中にも届く事はなかった。
 



 歩みを進めるたび、ルキナの肩の震えが大きくなって行く。
「そんなにおかしいかな」
 呆れた声をアズールが出すと、ルキナは盛大に吹き出した。「すいません」と言いたいのだが、むせてしまって上手く言葉が出ない。

「……見られたんだよ?」
 ふとした事で始まってしまった痴話喧嘩から、意を決した行動まで。全てとは限らないがアズールの二親に見られてしまった。息子としてはやるせないではないか。頭を抱えずにはいられない。
「ああ、もしかすると、軍内で噂になっていたりして……」
「いつもの事で済まされますよ、きっと」
 アズールは口を噤んだ。"いつもの事"。きっと娘漁りだとか言われているに違いない。恋仲の娘が出来ても、その癖は一向に治らぬと日頃から視線が痛い(自業自得ではあるが)。ルキナの父に至っては、顔を合わせる度にファルシオンの柄に手を掛けるのだ(そして軍師どのから、せめて青銅の剣にしておいた方が、と抑制にならない抑制がなされる)。

 しかし、今回ばかりは違った。アズールの不貞が理由ではない。ちょっとした意見の食い違いとも言うべきか、どちらかと言えばルキナに非があるとアズールは思っているのだが。

 
 事の発端は、野営地から少し離れた場所に林があり、そこへ一人偵察に出ていたルキナをアズールが見かけて追い掛けたのが始まりだった。
「子供の探検じゃないんだからさ……」
 呆れた顔をするも、ルキナは嬉しそうに顔を緩めるだけだ。
「ふふ。すいません。でも、そう自覚すると余計に楽し……っ」
「ルキナ、どうしたの?」
 ルキナの視線の先には、か細い鳴き声を上げている狼の子供がいた。ルキナが駆け寄ったが、逃げる様子もない。いや、逃げられなかったのだ。子狼の足には木枠のような罠が食い込み、血が滲んでいる。傍から見ても痛々しい。

「酷い……」
 ルキナは眉を歪め、腰の剣に手をかけた。それを、アズールはじっと見下ろしている。
「ルキナ、助けるの?」
 アズールの言葉に疑いの目で振り仰ぐ。無論だ、とばかりにルキナは頷いた。
「でもこれ、誰かが仕掛けたんだよ」
「そうです。誰がこんな酷い事を……!」
「その"誰か"は、ただ悪戯に獣を傷つける為に罠を置いた訳じゃないと思うよ。ルキナ」
 ルキナだって想像がつかない訳ではないはずだ。この罠は、きっと誰かが、糧を得る為にした事なのだろう。ルキナ達のいた世界は、屍兵が跋扈し、人々はギムレーの下僕の来襲に逃げ回るように生きている。農耕や狩猟すらままならない状況に比べたら、こんな光景は逆に羨ましいと言えるのに。
 ルキナが柄にかけていた手を離したのは、アズールの目と彼女の目が合ってからだ。アズールの目は、いつもの彼とは思えない、どこか冷たい光りを宿していた。甘いのだと、王女としての自分を責めているのかもしれない。

「……行きましょうか」
 腰を上げると、アズールはすぐにいつもの恋人の顔に戻った―――と思ったのも束の間、すぐに険しい顔になる。今度はあからさまに。すぐ近くで、殺気立った気配と獣の低い唸り声が聞こえたからだ。
 樹の影から現れたのは、大柄な狼だった。罠に掛かった子狼は、その狼を目に捕らえると、訴えるように懸命に鳴き始めた。きっと母親なのだろう。

「犬、じゃなかったのですね―――」
「え?犬と思ってたの?」
 驚きの声を上げるも、アズールもすぐに剣を抜いて構える。子狼はともかく、大人の、しかも危害を加える虞のある獣ならば、抵抗しなければこちらの命が危ない。アズールの隣で、もうひと振りの剣が抜き出る音がする。

「アズール」
「うん?」
「こんな事を言うとまた呆れてしまうかもしまれませんが……できれば、その、傷付けたくはないのです」
 目の前にいる狼は、この二人が我が子を罠に掛けたと思っているだろう。歯をむき出しにし、その間から低い唸り声を放っている。敵意があるのは確かだ。
 走って逃げるのは、この環境下では現実的ではない。魔法であれば威嚇にはなろうが、残念ながら二人とも相棒は剣だ。

「わかったよ。できればだよね」
「はい。ごめんなさい」
 アズールはこめかみの辺りを掻いた。
「じゃあさ、もし無事に傷つけずに収められたらさ……」
 剣を構えたまま、ゆっくりと狼を刺激しないよう真横のルキナに近付く。できるだけ小声で告げると、ルキナの眉間に皺が寄った。こんな時に、とでも思っているのだろう。だが、躊躇しているいとまはないと思ったのか、案外すぐに頷いた。

「よしきた」
 アズールは構えを解かずに、足元をちらと見る。ちょうどいい所に、手頃な石を見つけた。アズールは素早く屈み込むと、それを掴んで投げた。ルキナも、野生の獣ですら目に追えない速さだった。
 石は子狼の足に食らいついていた罠に当たった。あれだけ子狼を苦しめていた罠は、簡単に口を開き、狼の足を離した。木製のそれは頑丈に見えるが、外からの衝撃に弱い。この母狼のような大きな獣では、簡単に破られてしまうのが難点だった。それゆえに兎などの小動物に使うのだと、父から教えられていた。

 罠が急に解け、狼の親も驚いて子を見る。子狼は転がるように母親の許へ歩いて行った。その隙に、アズールはルキナの手を引いて走り出した。


 振り返っても、狼は追いかけて来る様子はなかった。林を出たところで、二人の息も切れる。林とは違い、遮るもののない空の下、陽の光がやけに眩しい。息を切らせながら、二人は笑い合った。

「アズール、凄いです……!」
「父さんが作っていたのに良く似ていたから。まさかこの時にはもう実用化していたとはね」
 最初に見た時すぐにわかった。父の作った罠だと。父は罠の名人だった。その場にある物で罠や仕掛けを作り、獣の個々の種の習性を熟知し、効率良く収穫を得ていた。慢性的な食糧難だった未来にて、アズールは比較的食糧にありつけていた。

「それでさ、ルキナ」
 息が落ち着いた頃を見計らって、アズールが切り出すと、ルキナは驚いたように顔を上げた。
「あ、あの、それはですね……」
 妙に慌て出して、アズールは怪訝な顔でルキナを覗き込んだ。目を合わせてくれない。
「ルキナ……約束だよ」
「あの状況で付け入るような真似するから……!」
 その言葉が、口論の口火となった。






「ルキナ、誤魔化そうと思っているでしょ」
 不埒な出歯亀らから離れ、数十歩歩いたところでアズールはぽつりと呟いた。
「そんな事は……」
「ずるいよね。あの状況じゃ誰が見てもぼくが悪者だよ」
「……それは……」
 今度はルキナが口を閉じた。約束だったのに、それが王女のやる事かな、とアズールは非難の言葉を続けざまに口にする。すると突然、ルキナの足がぴたりと止まった。
「アズール」
「は、はい」
 言い過ぎたかと、恐る恐るルキナを見遣る。陰っているせいで、青い瞳は髪よりも深かった。しかし、左目に刻まれている聖痕は存在感を示していた。それはそれはとても。

 聖痕が離れた途端、アズールは顔が燃えるように熱くなるのを感じた。それはルキナも同じようで、伏せた顔は赤い。わかっていて背伸びをしたはずなのに、やはり彼女も恥ずかしいらしい。
「急に、すいません……」
「い、いやあ……約、束、だったからね」
 常々の想像より暖かくて柔らかい。いや、それにしてもいきなりなんて、言い出したのは自分なのだが、こっちにも心の準備が―――焦りと嬉しさと困惑が混ざった、要するに浮ついた感覚から無理やり我に帰ろうとして、懸命に絞り出した声がこれだ。もう少し気の利いた言葉があったのではないかと自己嫌悪になる。日々の行いに全く成果がない証拠だ。更には、
「べつに、約束、だからしたわけでは……」
 などと言われてしまっては、ルキナよりも赤い顔をして突っ立っているしか出来ないではないか。



 余談だが。
「ああ、行っちまっただ……」
「ドニさん」
 呆然と息子とその恋人の背中を見ていたドニに、オリヴィエが困ったと言わんばかりの声をかける。二人に横槍を入れてしまい、良い雰囲気を壊してしまった張本人も、ばつの悪さを胸に残しているのだが。

「いけませんよ、のぞき見なんて」
「オリヴィエさんまで言うだか……!言っておくが、決して覗こうと思ってやった訳じゃねえ。おらは、あそこに仕掛けた罠の様子を見ようとしたんだべ」
 ドニは遠くに見える木々が生い茂った林を指差す。
「ああ、こうしちゃいられねえだ。じゃあな、オリヴィエさん」
「あっ……ドニさん……」
 早口にまくし立て、ドニは一目散に林へと目指して行く。オリヴィエも付いて行こうとしたが、思いの外ドニの足が早く、ついて行けそうにない。
 仕方なく、野営地で収穫物と夫を待つ事にした。ほどなくすれば、罠を壊されたと愕然とするドニを励ます運命を知るはずもなく。
 
13/01/25   Back