04 口うつし



 薄暗い部屋。昼間だと言うのに、窓も全て遮光巾が引かれ、わずかな光しか差し込まない。ヘンリーも、呪術師の例外に漏れず、暗い部屋を好むようだ。部屋に入ったティアモが目にしたのは、研究に没頭している薄暗いローブの背中だった。以前、暗い部屋の所以を尋ねた事があるが、雰囲気が出て集中しやすいのだと返って来た。一応は納得はするも、ティアモには理解の範囲外だ。そんな所にずっと籠って本を開いているなんて、目を悪くしはしないか。研究の効率も悪そうだ。陽の下で活動している事が多いからか、呪術や魔術を修める姿を見る度にそう思う。  ヘンリーの肩越しに、もくもくと湯気が、ぼんやりと灯している明かりに映し出されていた。妙に甘い匂いも漂っているのに気付く。 「ああ、ティアモ」  あまりの没頭ぶりに声をかけ難かったのだが、ヘンリーの方がティアモの気配に気付く。儀式なのか実験なのかは分からないが、突然の来訪に気分を悪くしている様子もないようで、普段の明るい笑顔をティアモに見せた。もっとも、その笑みの向こうは計り知れないが。  最初、ペレジアの呪術には驚かされてばかりいたが、だが、慣れとは恐ろしいもので、今ではその現場を目撃しても心臓は平常を保っている。それに、一概に呪いと言っても、他愛のない―――例えば、咳とくしゃみが三度同時に発生するなど―――ものから聞くにも堪えない恐ろしいものまで様々だ。そして、ヘンリーがよく見せているのは、前者の部類に入るとティアモは思っている―――サーリャに比べれば。 「今日は何の呪いるのかしら」 「惚れ薬」 「え?」  ティアモは思わず聞き返した。 「惚れ薬だよ。君がぼくなしではいられなくなるように」  いつもの他愛のない物と思い、軽く尋ねたつもりだったのだが。人の情を操るようなまじないとは、耳にいいものではない。   困惑した表情になった途端、ヘンリーは悪戯っぽくにんまりと笑う。甘い匂いのする杓を、彼女の目の前で小鍋から上げて見せた。どろりとした液体は鍋の中や部屋の背景を歪めて映している。 「ヘンリー、あの―――」 「……なんてね。嘘。ぼくのじゃあないよ。ちょっと頼まれ物でさ」  その言葉と薬を前に安堵の息が漏れる。それにしても、随分と甘い匂いがする。糖蜜に似たような、そんな甘ったるい匂いが火にかけられている小鍋からもうもうと立ち上っていた。 「うん、これはいいね。いい出来だ」  惚れ薬を頼んだと言う仲間を不審がるティアモをよそに、ヘンリーは満足そうに頷きながら小鍋をかき回し続けていた。甘い匂いが一層強く湯気となったように思える。  空の瓶の一本を手に取ると、器用に流し入れる。粘り気を含んだ透明な液体は、口の狭い瓶にゆっくりと収まって小さな気泡を内包していた。 「ねえ」  ティアモは、机の上に並べられた大量の小瓶にちらと目を遣った。暗がりで、部屋に入ったばかりの時は机の上は良く見えなかったが、どうやら、彼に依頼した人物は一人ではないらしい。 「みんな欲しがるのね……惚れ薬なんて」 「うーん、どうかなあ。恋愛必勝法とどっちが効果あるんだろうね?」  ティアモは顔を強ばらせてヘンリーを見た。あの本の事を知られていた衝撃もあるが、自分の呪いに効力がないような彼の口ぶりも引っかかる。 「君も試しに使ってみるかい?ちょっと多めにできちゃったし」 「……!何を言ってるの?」  ヘンリーはティアモの反応を見ては、心底楽しそうに笑みを浮かべて液体の入った小瓶を振る。 「簡単だよー。怪しまれにくい味だからね。ただ、相手が甘い物苦手だった……」 「ヘンリー、止めて!」  大声ではないが、明らかに批難した声色で言葉の続きを打ち切った。ヘンリーの言葉と脳裏に浮かんでしまった影を打ち消す。なぜ、何で今更。もうふっ切れているはずなのに、彼もそれを知っているはずなのに。なぜ悪戯に呼び起こそうとするのか。  呪術師の所以か、言動に意図が読めない時がある。単なる好奇心か、嫌がらせなのか。どちらにせよ、気持ちの良いものでは決してない。  しかし、それを顕に強い口調をかけても、ヘンリーはのんびりとした、朗らかな空気を纏い続けていた。なぜ咎められているのか分かっていない様子でもない。おまけに、ティアモの言葉などなかったかのように、突如関係のない質問を投げかける。 「ねえ、甘いもの好きだったっけ?」  急に訊かれて、戸惑いながらもええ、と答えた。おかしいと思えどもつい応えてしまうのはティアモの律義さゆえだ。  戸惑ってしまい返答は小さい声だったが、確かに答えたはずだった。突然甘い物が口に押し込まれたのだから、多分彼にちゃんと届いたのだろう。いや、論点はそこではなく、どうやってそれが口に流し込まれているか、だ。  ねっとりとした甘い薬に混ざって、温かいものまで口の中で感じ、ますます混乱していた。それに息苦しく、薬は喉に焼け付くようで、顔が熱くなっているのがわかる。力任せに暗いローブの肩を押した。   「あのね―――」  大きく息を吐くように言う。線の細い身体はあっさりと離れた。にもかかわらず、ヘンリーは満足そうに口の両端を上げていた。悪戯に成功したとばかりの、少年のような屈託のない笑み。 「どう?」 「どうって言われても……」  無意識に手の甲を口に当てていた。顔はまだ熱い。視界の隅でローブの裾がふわりと動いたかと思うと、そのローブが接近して口に当てていた手を取られた。暗い影が、再びティアモに重なる。先刻ほどに甘さはないが、その名残は生温さと共に感じた。  こんな薬などなくても、もう自分の心にはヘンリーがいる。そう言いたかったのだが、これでは言えないではないか。

 
12/06/08   Back