気持ちよくてぼんやり



「ねぇ、リヒト」
 女の声が、しっとりと部屋に響いた。
 だが、名を呼んでも、リヒトの身体はベルベットの身体から離れずにいる。野山を吹き廻る風にも負けず、良く通る声だと自負している。彼の柔らかな頬は、小柄な身体ごとベルベットの腰の辺りにうずもれている。だからと言って耳まで兎の体毛で塞がってはいないはずだ。
 
 もう一度、はっきりと少年の名を呼んだ。
 眠っている訳ではないようだ。呼吸は規則的だが、夢の世界へは行ってはいないのは気配でわかる。時折頬で体毛を撫でるような仕草もしている。

「戻ってもいいかしら」
「だめ」
 ベルベットは小さくため息をついた。ほら、ちゃんと聞こえているではないか。
 これは毎夜の儀式のようなものだった。言うなれば、恋人や夫婦の夜伽が、この今の状況に当たる。想いを通じ合った男女、しかも指輪まで贈り合った仲なれば、就寝時に身を寄せ合っても不思議ではないのだが、気持ち良いのは一方だけのようで(ベルベットとしても決して不快という訳ではないのだが)、ベルベットは床の上で大きな四肢を横たわらせ、じっとリヒトの身体を受け止めている体勢で過ごさなければならなかった。時には夜を明かす事もある。まるで少年の寝台代わりだった。

 神が一部の種に与えたと言われる獣化の力。それは人間などよりも強大な力を持つのだが、精神の消耗が著しいという欠点もある。だからダグエルの祖先は、竜族に倣い、むやみに力を使わぬよう石に力を封じ込めた。そう夫となる少年に告げたが、理解されていないようだ。
 戦いならいざ知らず、部屋にじっとしている状態なら、心身共に充分なベルベットの体にはそれ程影響はない。だが、それがひと晩、それも毎夜続けば休息が休息と言えなくなる。子供扱いされるのを極端に嫌がるが、他人の負担を考えない所は充分子供だと、ベルベットは常々思っていた。強く言えないのはらしくないとは自身も呆れている。"何とか"の弱みとでも言うのだろうか。

 普段なら、リヒトが寝入ると化身を解き、そっと小さな身体を寝台に運ぶのだが、今晩はその時刻になってもなかなか眠る気配がない。夜もすっかり深い。大人でも眠っている者もいるだろう。
 明日を考えると、さすがにこの姿でいるのは憚られた。リヒトの許可を得るのを諦め、ベルベットは兎の姿を解いた。
 頬を当てていた場所が急激に変化し、リヒトは身体を跳ねさせる。少年の抗議めいた声も無視し、ベルベットは平然と人の姿で横たわった。

「もう遅いわ。寝なさい」
 とは自ら言ったものの、ベルベットは意外だと言わんばかりの顔で背後を振り返った。母親のような口調なのを知ってか知らずか、自身も疲労を覚えたのか、リヒトは素直にその声に従ったからだ。
 行軍、時には屍兵との戦闘は昼夜を問わず、それが終われば野営の準備に追われ、更には訓練―――大人でも効率の良い休息を求められる日々だった。にもかかわらず、リヒトは文句ひとつ言わずに、時には魔道書を深夜まで読み耽ている。
 
 早く大人になりたい。
 それがリヒトの口癖だった。無理に背を伸ばさずとも、年など自然に取って行く。外見も大人のそれへと変貌する。知識や知恵も経験が培ってくれる。けれど、今は悠長な事を言ってはいられない。ベルベットはリヒトがそこまで切望する理由を直接聞いてはいない。察していた。痛いほどに。本当は誰も傷つけたくはないはずなのに。

「ベルベットさん、おやすみ」
 今夜は兎の柔らかな体毛に満足しきったのか、高位の魔道書を枕の下に置いて毛布の下にうずまった。そうすると、夢の中でも魔道の勉強が出来る―――らしい。本人も本気で信じている訳ではなく、ある種のまじないのようなものだと言っていた。

 ベルベットの手が、少年の赤い髪をそっと撫でた。そこから額がちらと見えると、身を屈める。独りで生きて来たダグエルには、馴染みのないものだったが、彼と接している内に自然に触れるようになっていた。
 不意に毛布に下がごそごそと動く。細い指が伸びて、ベルベットの頬を捕えた。額に当てていたそれと、同じくらいの柔らかさを知った。額や頬に触れ合った事は幾度もあるが、じかにそこに触れたのは初めてだった。
 毛布の下からへへ、と悪戯っぽく笑う顔はやはり幼い。ベルベットは無言で毛布を被った。

 こういう事だけは、要領を得ているんだから―――
 外見はともかく、内面は子供なのかもう大人なのか、わからない時がしばしば見られた。軽く触れただけなのに、ひどく息が詰まる。  
12/07/23   Back