02 雑踏の中で

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 クリミア軍が駐留している砦から馬を約一刻ほど走らせた所に、その市場はあった。デイン王都の東にあるそこは、現在国を治める機関を他国が担っている状態であるにも関わらず、いつもと変わらない空気の中せわしなく人々は動いていた。ここはデイン国内の市場ではあるが、その運営の大半はベグニオン人が握っているというのが、その大きな理由であろう。所狭しと並んでいるテント式の店鋪の間にちらほらとベグニオンの兵隊の姿が見えた。

 「お兄ちゃん、あれ見て!」

 弟の指の向こうに奇妙な馬のような動物がいた。砂漠の砂のような色をした毛並み、鼻は短く、背中に大きな起伏があった。

 「ああ、あれは駱駝と言う動物だよ。あの背中のコブに栄養を溜めて長い旅をするんだ」

 「変なのー」

 初めて見るものに目を輝かせながらヨファは笑った。見るもの全てが好奇心を刺激するようで、せわしなく首を左右に振っているように見える。その両腕には幼い少年には重そうな袋がぶら下がっている。砦にいるすぐ上の兄や仲の良い少女、彼の弓の師への土産がたっぷりと揺れていた。オスカーに止められ、これでもかなり減らした方だった。かというオスカーの方も、留守番の憂き目にあった仲間たちから頼まれた品を抱えていた。これからもう2、3人の頼まれ物も買わないといけないのに。

 「オスカーではないか?」

 喧噪の中、通りの良い声にオスカーは振り向いた。

 「タニス殿ではありませんか」

 現在の上官に当る女性に向き直り、オスカーは軽く頭を下げた。タニスは帯剣はしているが軽装だった。私的な用で来ているのだろう。

 「こ、こんにちは。タニス殿」

 そんな兄を見てヨファも緊張した面持ちで頭を下げる。兄とは親しい様だが、周りにぴんと張り詰めた、傭兵団の者にはない空気を纏うこの将軍がヨファは少し苦手だった。

 「持とう」

 タニスはヨファの荷物に手をかけた。

 「タニス殿にお手を煩わせる訳には・・・」

 「いい。さあ、重かっただろう」

 素直に手渡された重い感触の中身にタニスは苦笑した。

 「大分買い込んだな」

 「ええ。少々頼まれ過ぎました。ヨファ、私はもう少し回る所があるからお前はタニス殿を厩舎までご案内するんだ」

 「まだあるのか?」

 「ええ、まあ・・・」

 ベオクの酒の中で一番強いやつを頼むぜ、と笑ったタカの民を思い出す。

 「その様子では持てないだろう。わたしもついて行く」

 「ですが、タニス殿のご用事は・・・」

 「ない。暇を持て余してここまで来ていたのだ。付き合わせてもらおう」

 いささか強引な言い方にオスカーは肩を落とした。ちらりと弟の方を見ると「まだ市場にいたい」という表情を自分に向けていた。

 「タニス殿に荷物持ちをさせるなど恐縮ですが、お言葉に甘える事にします」

 タニスが頷くのと、ヨファが明るい表情になったのは同時だった。

 オスカーに酒を注文した者たちは強いものを好んだ。付き合い程度にしか飲まないオスカーは余り酒の種類には詳しくないが、この市場でならあの酒豪たちも満足するような酒が揃っているだろう。足を運んだ先の酒屋に並ぶ樽や瓶の種類は数える事は出来なかった。どういう経路でやってくるのか、ガリアやフェニキスといった国交がないはずの国の酒まであった。

 「いらっしゃいませ、どのような物をお探しで」

 テントの奥の方から過剰な程に謙った中年男がやって来た。彼が店主らしい。オスカーは手荷物の中から数本の空の瓶を取り出した。強めの酒と新たに瓶入りの酒を注文する。

 「坊やにはこれをあげよう」

 注文どおりの酒をあつらえると、店主はヨファの手のひらにブドウの砂糖漬を乗せた。

 「わあ、ありがとうおじさん」

 砂糖漬けなどの甘い嗜好食品は貴重品だった。傭兵団ではもちろん、クリミア王国軍となった今でも手に入れるのは難しい。

 「凄い人込みだからな、お父さんとお母さんから離れるんじゃないぞ」

 今、何と____

 ヨファの背後に立っていた大人二人は固まった。

 「ありがとうございました。今後ともごひいきに」

 そんな空気に全く気付かずに店主は深々と頭を下げて「一家」を見送った。

 

 オスカーの馬を繋いである公共の厩舎へ向かう一向の空気は重たかった。その気まずさを紛らわすようにヨファは店主からもらった砂糖漬を味わうのに集中していた。陽は大分傾き、辺りを赤く染めている。

 お父さん、オスカーがそう呼ばれた事は何度かあった。年の離れた兄弟ではある。ヨファが生まれたと知らせを受けたのは、オスカーが正式にクリミア王宮騎士に入隊した年だった。それから三年ほどで除隊し、亡き父の代わりに二人の弟を育ててきた。幼いヨファを背負って町へ行くと必ず「若い父親」という目で見られていた。誰も兄弟だとは見てくれなかったのである。そんなに老けて見えるのか、と初めは落ち込んだものだが、今はそれ程気にならなくなっていた。

 だが・・・・・オスカーはタニスの方を見やった。相変わらず眉間の皺を更に深めて俯き加減で歩いていた。やはり、こんな大きな子どもがいる年に見えたのがショックだったのか。一度だけならまだ笑って過ごせたかもしれない。しかし、あれから立ち寄った店の店員全てに「お母さん」と呼ばれたのはさすがに堪えたのだろう。

 簡素な馬小屋が見えて来た。先に行ってる、とヨファが走り出した。余程この空気が苦しかったのだろう。入り口に差し掛かるとオスカーは立ち止まった。

 「タニス殿、もうここまでで結構です。助かりました」

 「あ、ああ」

 「先ほどの事を気にしていらっしゃるのですか?」

 「別にそんな事はない。あれ位の年頃の子どもがいても、まあ、可笑しくはない年だ」

 タニスの片頬が上がったが、どう見てもぎこちないものだった。誰が悪い、という問題ではない。それがオスカーの口を噤ませる原因だった。

 「ただ、な。わたし達が、その・・・夫婦に見られてたんだな・・・と思って・・・」

 消え入りそうな声を紡ぐタニスの表情が逆光に当てられ、オスカーは目を細めた。

 「あ、いや、あれはヨファが居たから家族に見えただけなんだなっ!今のは忘れてくれ!では失礼するぞっ」

 早口でまくし立てると、タニスは彼女の天馬の元へ走って行った。

 「あ、タニス殿・・・」

 オスカーが声を発する事ができたのは、赤い空へ滑るように消えて行く天馬の姿が現われた後だった。

 

 すっかり冷たくなった風を全身で受けながら、兄弟を乗せた馬は駆けていた。砦への長い道のりの中、オスカーは夕刻のタニスの言葉が頭から離れなかった。

 私たちが夫婦か・・・・・

 まさか、とオスカーは首を振った。

 「お兄ちゃん、何だか嬉しそうだね」

 「そうかな?」

 クリミア軍の砦が見えたのは、月が兄弟の頭上に輝いた時だった。
2006/01/19 戻る