初恋

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 引き裂いてやろうか。
 そんな意向がなかったと言えば嘘になる。茜に染まる土を滑るように飛び、見下ろした。
 三年前の戦で見たのは、アイクの陰に隠れていた、弱々しいベオクの姫君のばずだった。天馬にまたがっても、彼の目には無力な小鳥にしか見えなかった。行軍中にクリミアという国名が出るまでは脳裏にすら残っていなかった。そんな存在。

   剣を捨てた行動を見た瞬間、彼の身体は咄嗟に動いた。天馬に乗っていた女の身は、意外と小さいと近付いた瞬間に感じた。
 女王は怯えの色を隠せぬまま、自分を睨んできた。それが数秒続いたのが、なぜかおかしい。捨てた剣を拾い、むき出しの腹を刺せばよいものを。身体が竦んで動かないといった様子でもない。じっと目を捕らえていた。
 ベオクは、知れば知るほど面白い。誰の言葉だったかと、記憶の枝葉を巡らせてもみた。それを諦めると、おかしさがより一層込み上げてきた。笑い声を赤い空に放つと、目の前の強張っていた身体はびくり跳ねた。

「アイクよ、予想のつかん行動はおまえ個人の特性かと思ってたがそうでもないみたいだな?いい度胸してるじゃないか!クリミアの女王もよぉ」
 言葉尻に気に入った、と残し、後方に佇んでいる連合軍の総大将に、退く旨を問う。スクリミルも彼と心中を同じくしているらしく、「当然だ」と彼にも負ける事のない声を夕暮れに響かせた。
 
 あの瞳の強い光に充てられたのか、無力な小鳥はあの一瞬で竜にも劣らぬ王となり、鷹王の胸中で逞しく羽ばたいた。


 デインで再び出会った時は、あの輝きはすっかりと陰を潜め、ただの深窓の姫君のような立ち振る舞いのように見えた。彼は肩を落とした。あれは、おれが抱いただだの妄想だったのか。
 だがそれは、早合点に過ぎなかった。剣を振るう姿を目の当たりにするのは、これが初めてなのに気付く。天馬を半身のように操り、短い刀身を繰る姿に短く息を吐いた。鷹の身体でなかったら、口笛が出ていたかもしれない。
 相対しているのは心を奪われたような女神の使い達だが、その身体には暖かい血が流れている事を、クリミア女王は証明していた。金色に近い黄の鎧を纏った兵士が痛みに狂い、土を赤く染めても、天馬はその上を通り過ぎて行く。その形相に耐えかねて留めを刺そうとした者を、彼女は止めた。

「戦は―――命を奪い合うのは嫌なのです」
 彼の問いを、クリミア女王はそう答えた。
 三年前に狂王と呼ばれた男に国を滅ぼされ、復興の間もなく内乱。ベグニオンとラグズ達の戦争。そして、今は女神へ挑もうとしている。立て続けの争いは、力が物を言うラグズ社会に生きる彼でも、辟易するものだった。それには同情する。
「だがな、だからと言って、苦しむ者を増やす事はあるまい」
 あれは殺すより残酷な行為だと、はっきりと告げた。クリミア女王はその言葉に一瞬顔を青ざめさせるも、首を真横に振る。
「それでも、生きている限りは、きっと……。あの方たちにも、家族がいるかもしれません」
 一度は石となったが、女神に選ばれ、手駒となった者。
 リュシオンを通して、負の女神ユンヌからそう説明を受けていた。突如姿を現し、一心不乱に駆けてくる姿は、操り人形そのものに思えた。だが、元を正せば、彼らもれっきとした人であり、自分たち同様の生を歩んでいたのだ。クリミア女王は、最初から、彼らを「人」として見ていたのだ。やがて人々が石から解放されれば、彼らも心を取り戻すだろうと。
「っく……ははっ、あははははははっ!」
 急に喉を鳴らしたかと思うと、思い切り頭を上げ、透き通るような空に大声を響かせた。緑がかった翼も揺れ、かさかさと鳴る。突然の事に、クリミア女王は驚愕を隠させずにいた。その立ち竦む肩を大きな手がつかむ。覗き込むように、顔を近付けた。
「今ここで、引き裂いてやろうか?」
 凶暴な言葉に、びくりと身体が強張るのが掴んでいる肩を通してわかった。
「あんたのやっている事は、思いやりでも何でもない。おれがあいつらを切り裂くよりも、あいつらが数に物を言わせて攻めてくるよりも残酷だ」
 眼ねつけた青ざめた顔に、既視感を感じていた。やはりフェニキスの大鷹は恐ろしいのか、細い身体は震えている。それでも、彼女は彼の目をじっと見据えていた。
「例え綺麗事と言われようと、自己満足と言われようと、わたしは殺しはしません」
「おれは奪う。目的の為に、邪魔なものを排除するだけだ。あんたはそれを咎めるのか」
 どんなに睨み付けても、決して逸らす事はしなかった。真っ直ぐな瞳は、揺らぐ事はないのだろう。
「あなたの戦い方を否定はしません。ですが、あなたがわたしを咎めるならば」
 そう言い終えたと同時に、クリミア女王は瞼を閉じた。穏やかな空気は、一変して揺ぎない意志に支配された。覚悟。その気を充分に感じ、ひと時だけ呼吸を忘れた。しかし、次の瞬間には、肚の底から笑いが込み上げてきた。
 先刻のそれとは違う陽気さを湛えた笑い声に、クリミア女王は瞼を開け、拍子抜けしたような表情を見せる。
「そこまでか。そこまで思っていたのか……!いや、おもしれえ!」 
 怪訝に眉をひそめるクリミア女王に気付くも、彼は腹を抱えるのを止めずにいた。
「もう、あんたの戦い方にもとやかく言わん。これから遠慮なくぶちのめして行けばいいさ」
「からかわないでください!」
 非難の叫びにも構わず、彼は口の端を上げたまま、目尻から滲む涙を拭う。
 よくよく考えれば、この女王は己の身の危険よりも、相手の未来を思っているのだ。なんと奇妙な事であろう。
「からかってなんかないさ。むしろ感心する位だ。これからも、あんたは自分の意志を貫いていけばいい」
 張りつめていた空気が、ふいに柔らいだかに思えた。どうやら、彼女の気も鎮まったようだ。長い髪を結い上げた頭が下げられる。
「ティバーン様、ありがとうございます……」
 淡く色付く唇から奏でるような声がすると、咄嗟に踵を返して片手を挙げた。名前を呼ばれたのがこれで初めてなのだと気付く。

 ベオクというのは、知れば知るほど面白い。いや、面白いのは彼女なのだと胸中が波打った。
 そんな彼女と、同じ空を飛ぶ事を楽しみにする自分がいた。このような事、誰が予想しようか。
 


08/06/10戻る

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