8 未来



 
 風が、夜の森を揺らした。
 森を過ぎ去ると、それはルキノの首元をひんやりと撫ぜる。髪が短くなって間もなくは、その感触に驚いたが、今ではすっかり慣れてしまった。少し酒精が入っているせいか、冷たい風に心地良さも感じていた。
 バルコニーから臨むクリミア本城の中庭は、夜の藍に染まっていた。その中で、松明の明かりが点在しているのがわかる。
 酒精に浮ついた身体をバルコニーの手摺りに預ける。酒に弱いつもりはないが、いささか中てられたようだ。
 熱っぽい瞼を細めて風の中に身を任せるも、下方から聞こえた声に、勢い良く起き上がる。混濁気味だった意識が、瞬く間に鮮明になる。白石の手摺りに身を乗り出して視線をさまよわせ、声の主を探した。

「おうい。ここ、ここ」
 聞き間違いではなかった。バルコニーより下方の楡の木―――声の主が、居てはいけない場所から大きく手を振り、自分を呼んでいた。
「ヤナフ殿?」
 中庭を照らす松明の火は、ヤナフがいる場所まで届いてはいない。この暗がりで、鳥翼族の彼がどうやって木に登ったのか不思議だった。だが、その謎を考えるより先に、ヤナフの安全の確保が優先だと、ルキノは声を張り上げる。
「そこで待ってて下さい。今助けに上がりますから……!」
 混乱と酒精で声が通らない。だが、ヤナフの耳にはしっかりと届いたようで、ルキノがいるバルコニーへ顔を向け、少年のような顔立ちを更に明るくさせた。
「そこにいるのか?」
 その言葉で、やはり彼は見えていない事に気付く。ルキノがいるバルコニーからは見下ろしているが、中庭のこの楡の木はかなりの高さがある。ヤナフの身体を支えている枝が、大きくしなると、ルキノは息を飲む。
「ヤナフ殿!」
「ああ、やっぱりそこだな」
 ルキノの心配を他所に、宵闇の樹冠の上でも臆するでもない様子だった。今度は自ら枝を揺らし、背中の翼を広げる。数度羽ばたいて、難なくバルコニーの手摺りへ身を乗り出した。平然と夜の中を飛んでいたが、燭台の明かりの世界に辿り着くと、安堵したような表情を見せた。

「危険な事はお止め下さい」
 やはり、夜は怖いのだ。それなのに、ルキノの進言にヤナフは肩をすくめるだけだった。
「しかも、あんなに飲んでいたではありませんか」
 ヤナフのその態度に、ルキノの眉間に皺が寄る。ガリアへ寄るついでにと、フェニキス王一行がクリミア城へ舞い降りたのが今日の昼間。突然の訪問にもエリンシアは笑顔で彼らを迎え入れ、ささやかながら歓迎の宴を催いた。ガリアへの道中に障らぬ様、つい先刻部屋を案内したと言うのに。
「そんな堅い事言うなって」
 咎める響きを含む声にも気にせずに、ヤナフは手摺りを乗り越え、軽々とバルコニーに降り立つ。その顔には、罪悪感の影はない。
「あんたに渡したい物があったんだよ」
「わたしに?」
 首をかしげるルキノの前で、ヤナフは腰に下げていた小物入れの口を開ける。燭台の灯りに反射して、ヤナフの指、正確には彼の手中にある物に鈍い光が点った。眼前にそれが差し出され、その姿がはっきりと見えた。
「指輪、ですか……?」
 照れたようなヤナフの顔と、それを交互に見る。だが、ルキノはすぐに渋面を表した。
「盗品は受け取りません」
「ひでぇな。これは違うぞ」
 盗品だと言い放つルキノに、ヤナフは閉口する。しかし、その言は前科があった故だ。ベオクへの抗議の証として、海賊行為を行っていた時代の名残を。その時は、悪びれずに指輪の出所を語るヤナフに怒りすら覚えたものだ。しかし、今のヤナフは「心外だ」と言わんばかりの顔をしている。盗品ではないという言葉は事実らしい。ルキノは渋面はそのままに、幼さが残る面立ちをちらりと見る。
「本当に、違うのですか」
「ああ。ちゃんとベオクの金で、ベオクの店で買った!」
 ヤナフはわざわざ「ベオクの」と強調する。ヤナフが貴金属店で指輪を購入する風景を想像し、ルキノは思わず噴き出した。ベオクとラグズの確執は近年解けつつあるが、それでもベオクの街で買い物をする鳥翼族は、さぞかし目立っただろう。
「何だよ……」
「すいません」
 ベグニオンの船から奪った物を贈られた時、ルキノはそれを拒絶し、咎めた。その時に、ヤナフは謝罪の意味を込めて約束した。今後略奪行為はしない事。次は盗品ではない物を贈る事。だが、ベオクの軍に入り金銭を使う事を覚えたヤナフは、ルキノの認識している範囲ではそれは全て酒に換えられていた。だから、こうして約束を憶えていてくれた事が嬉しくもあった。
「いらねぇのかよ」
「……すいません。要ります、受け取らせていただきます」
 上ずった心を隠すように、軽く頭を下げる。肩で髪が揺れ、頬にかかる。そのくすぐったさを感じた時と、強く抱きしめられた瞬間は同時だった。顔を上げれば、ヤナフの顔がすぐ近くにあった。驚きで息が詰まる。
 
 しばらく間が開き、ヤナフの唇が動く。
「フェニキスへ来い」
「できません」
 少年の面影はすっかり消えていた。時折見せるこの顔が、ルキノは苦手だった。飄々と冗談を交わす合間に、こうして見据えられると、どうしてもヤナフを一人の男として見てしまう。こうして毎回否と言うも、心中は波打っていた。自分がベオクだという事も、彼にとってほんのひと時しか生きられないという事も、全て忘れてしまいそうになる。
「わかってるよ」 
 ふう、と息を吐く。拒絶の後の、この言葉も何度繰り返されただろうか。それでも、諦めないとばかりにルキノの身体を包む腕が強くなる。その拍子にヤナフの背中の翼が揺れ、ふわりと潮の匂いが鼻腔に届いた。フェニキスの南の海が染み込んだ薄茶色の翼。この翼にずっと包まれていたいという切望が迫上がって来る。自分の存在は、すべては主君の為。物心ついた時から、そう誓い続けてきたはずなのに。それが揺らぐ自分に、揺らすこの男に心中で恨み言を呟く。
「だから、こうして逢いに来てるんだろうが」
 ルキノの空色の髪を、ヤナフの指が通る。以前までは、河のように流れていたそれが、あっけない程の時間でヤナフの指を離れる。そのせいか、何度もそれが繰り返される。ヤナフの手のひらが頭に触れるたび、眩暈を覚えた。
 
 自分が歩む道は、彼にとってはほんのひと時だろう。だが、一瞬に等しい時間でも、共に在った事を幸福に思う。
 ヤナフの肩に頬を預け、眼を閉じる。またふわりと、潮の匂いがした。南の海とヤナフの熱に意識が溶け込みそうになるも、すべて溶け切る前に誰かの声が聞こえる。これからも、この先もずっと主君の為に生きるのだと。
 意識を戻せば、ルキノの頭にはずっとヤナフの手のひらがあった。
「待ってていいか?」
 抱き合っていた身体を、どちらからともなく離す。目が合うと、自然に笑みがこぼれた。
「約束ですよ。ずっと、何十年かかっても」
 ヤナフの返事を聞き届けると、ずっと撫でてくれた手に唇を落とした。
 


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