それもひとつの愛の形



「ですから、ラグズ連合、帝国軍の両陣営に――この国より立ち去ることを希望いたします」
 エリンシア様はよく通る声で、はっきりとそう告げた。ぴんと背を伸ばし、ベグニオン帝国の軍隊、そしてわたしのいるラグズ連合、それぞれの司令官を見据えながら。
 クリミアは今回の戦争について、中立を貫くと。けれど、ラグズとベオクの戦いに、胸を痛めいているのがひしひしと感じられた。それでも、どちらかについて早期の終結を図るより、クリミアの民がまた血に染まるのを回避する道を選んだのだ。

 わたし、いや、わたし達グレイル傭兵団は軍の最後尾から、両軍の間に降り立つエリンシア様を見ていた。エリンシア様がいた小高い丘にはクリミア騎士団がいて、主君の行く末をじっと見守っている。エリンシア様はひとり、毅然としていて、白い装束と天馬を夕日に染めていた。とんでもなく恐ろしくて勇気のいる事をしているのに、ともすれば命を落としかねないのに。その心配も同時に、そんなエリンシア様がただきれいだと思った。
 わたしの周囲は少し騒がしかった。獣牙族の人たちは明らかに困惑していたし、ティアマトさんなんて、今すぐにでも助け出さんとばかりに、馬上でしきりに体勢を整えている。
「どうなるんだよ……」
 思わずボーレが漏らした声に、「どうなろうと覚悟の上でしょう。我々は、雇い主の命令に従うだけです」とセネリオが冷たく言い放った。ここでラグズ連合がクリミアへの攻撃を決めたなら、エリンシア様とクリミア騎士団と戦わなければならない。三年前のクリミアの復興から、ガリアとは本格的に友好関係を築いているのを見ている。ラグズの人たちを信じている。だけど、セネリオの言葉でもしもを考えてしまい、背筋が凍った。どうか、それだけはならないように。わたしは手にしていた杖を強く握り直した。
 ちらりと傍にいたお兄ちゃんを見れば、相変わらず無愛想な面立ちでエリンシア様を見ていた。お兄ちゃんは、今何を思っているのだろうか。もし、ラグズ連合が攻撃の意思を出せば、お兄ちゃんはエリンシア様に剣を向けるのだろうか。
 
 
 鷹王さまが飛び出した瞬間、わたしは息を飲んだ。けれど、エリンシア様は大柄なティバーン様に見下ろされても一歩も退かず、まっすぐに睨み返すようにティバーン様の目を見ていた。
 そんなエリンシア様の行動は、ラグズ連合の将達にひどく気に入られたらしい。スクリミルさんも、ティバーン様も、大きな身体を揺らして豪快に笑っていた。ラグズ達は驚いていたけれども、エリンシア様を攻撃しようという気配はすっかり消えてしまっていた。
 それは帝国側も同じだった。帝国軍の司令官ゼルギウス将軍が、一番に背中を向けたのがその証拠だった。しばらく副官らしき騎士と会話を交わすと撤退の号令が響いた。わたしは小さく安堵の息を吐く。スクリミルさん率いるラグズ達は信じていたけれど、帝国軍はエリンシア様の行動を一蹴してしまうのではないかと案じていた。でもそれは杞憂だった。
 一時的とは言え、戦闘が回避された。わたし達は雇われた身だけれども、争いなどない方がいい。周りでも、胸を撫で下ろすような溜息が聞こえた。
「良かった。ね、お兄ちゃん」
「ああ」
 隣にいたお兄ちゃんは、相変わらず無愛想のままぶっきらぼうに答えた。でも、少しそれが緩んでいたような気がした。わたしもその「気のせい」につられて、少し笑った。


 それぞれの拠点へ引き返す頃には、太陽もかなり深くまで水平線に潜り、夜になるのも時間の問題だった。
 わたしは安心しきったまま、引き返す帝国軍を見向きもせずに伸びをする。ラグズ連合側も、最後尾にいたグレイル傭兵団と、エリンシア様に縁のあるラグズが残っているだけだった。せっかくだから、エリンシア様にご挨拶して行こうとティアマトさんが言ったからだった。
「やばいぞ……」
 ライさんが、急に耳をぴんと立てたかと思うと、鋭い目付きになって振り返る。その視線を追うと、わたしも目を疑った。赤い陽光よりも深い赤の鎧が、こちら―――正確にはエリンシア様目掛けて向かっていたからだった。
「出撃っ!陛下をお守りしろ!」
 恐らくジョフレさんらしき叫び声が聞こえ、丘の上から騎士団が一斉に下りて来る。エリンシア様がいる位置からクリミア騎士団、ベグニオン帝国軍はほぼ同じ距離だった。エリンシア様は急いで天馬に飛び乗るが、剣は地面に置いたままだった。拾う間もなかったのだろう。動いた帝国軍は大勢の中の一部だったけれど、その中には竜騎士もいた。クリミア騎士団よりも早くエリンシア様の許へ辿り着いてしまうかもしれない。
「くそ、何て事だ……!」
 ライさんが背を低くし、青い猫へと姿を変える。
「行きましょう、わたし達も―――」
 そうティアマトさんが言うや否や、モウディもレテも、他のラグズ達も化身し始める。けれど、ラグズ達よりも早く動いた影があった。他でもない、お兄ちゃんだった。
 皆も一人で飛び出したお兄ちゃんに驚いていたが、すぐに後を追って走り出した。わたしも、更にその後から走り出す。エリンシア様のいた場所がまたたく間に赤と白の鎧で埋め尽くされた。天馬の行方を見失い、わたしの呼吸は浅くなる。
 わたしが追い着いた時には、すでにクリミア軍とベグニオン軍が衝突していた。砂埃とクリミア騎士の壁の中にいるエリンシア様を見つけ、ほっとする。クリミア騎士団は少数だったが、相手もごく一部の部隊だけらしく、お兄ちゃん達も手伝って決して不利にはならなかった。一番の不安要素だった竜騎士も、クリミアの魔道士の雷魔法―――後でわかったが、カリルさんだった―――がセネリオの到着を待たずとも撃ち落していた。
 わたしは怪我している人がいないか辺りを見回した。茜色がすっかり濃くなった土に、より鮮明な水溜りを見つけ、身体が強張る。それはベグニオンの騎士のものだった。同じく倒れた馬や散らばった武器の先にはお兄ちゃんの背中が見えた。お兄ちゃんはむき出しの腕に無数の傷があったが、どれも軽いもので本人も気にしていないようだ。
「半獣の軍にベオクか……」
 風に乗って低い声がした。同時に馬の蹄が二三度鳴る。半獣の軍になぜベオクが。その言葉を何度聞いただろうか。グレイル傭兵団の誰も、その言葉を気にする者はいないのだけれど。
 声の主はお兄ちゃんから離れた場所にいた。他の騎士たちよりも派手な章をマントに着けている。どうやら、この人が部隊を指揮しているらしかった。お兄ちゃんに近付かないのは、彼の手中の弓で理解した。この弓騎士は、お兄ちゃんに矢を向ける事はせずに、自分の名を叫んだ。騎士の礼と言うものなのだろうか。だったら、丸腰のエリンシア様になぜ向かったのか。
「我は元老院議員バルテロメ様の命を受けている!貴様、傭兵だな?利に聡い貴様なら分かるな?神の代理に等しい元老い」
「口上はそこまでだ……」
 お兄ちゃんは帝国軍の隊長の言葉を遮るように踏み込んだ。剣が真横に弧を描き、とっさに構えた相手の弓はお兄ちゃんの剣を受け止めきれずにぽきりと折れる。それだけではない。首を斬られた馬は血を振り撒きながら暴れ、主を地面に叩きつけた。
「貴様……!」
 顔に土と血をべったりと付けた隊長は、半身を起こした体勢でお兄ちゃんを睨んだ。落馬して強く打ったか骨まで折ってしまったか、彼はこの体勢から動けないでいた。お兄ちゃんは構わずに大股で歩み寄り、彼の喉元へ剣の先を向けた。
「次は外さん」
 淡々とした言葉通り、お兄ちゃんは右腕を振り上げた。


 エリンシア様へご挨拶するつもりが、とんでもない事が起きたせいで、クリミア騎士団長と近衛兵長とも挨拶ができた。ジョフレさんも、ルキノさんもお元気そうで安心したのだけれど。
 お兄ちゃんはジョフレさんと二言三言話し、エリンシア様の元へ大股で向かう。それが先刻の敵の将を倒す時と同じに見えたのが不思議だった。遠くのせいで会話は聞こえないけど、多分とても短いものなんだろう。ほんの数回口を動かしているのはわかる。そして、腰のベルトに無造作に差していた短剣を抜き取り、エリンシア様の手に押し付けてすぐさま踵を返そうとしていた。
 お兄ちゃんがクリミア王宮を去って半年が経つ。ユリシーズさんの話では、宮廷内でもほとんど顔を合わす事はなかったらしい。クリミアの内乱を止めた直後は、エリンシア様も事後処理で忙しく、会えたのはほんの短い時間だけだった。クリミアが復興してから、あんなに近くにいたはずのエリンシア様が遠くになってしまった。それはエリンシア様も同じ気持ちなのだろう。お兄ちゃんは元より口数は多くはないけれど、もう少し言葉を交わしてもいいんじゃないかと思う。ほら、エリンシア様寂しそう。
「ねえ……」
 お兄ちゃんに、まだ時間もあるから、クリミアの人たちと話でもしたらと伝えようとした。けれどそれは適わなかった。
「女王陛下にご報告します。ベグニオン帝国神使サナキ様が亡命の要請をして来られました!」
 クリミアの伝令の叫びで穏やかな空気は一度に凍りついた。無愛想なお兄ちゃんはともかく、柔らかな笑みを見せていたエリンシア様の顔が難しくなる。
 スクリミル将軍にもこの報は届いているはずだ、とお兄ちゃんはエリンシア様への挨拶はそこそこに、ライさんの所へ駆けていく。その背中とエリンシア様を交互に見れば、会えた喜びの風は消え失せていた。お兄ちゃんは相変わらず無愛想だけど、エリンシア様は凛としたクリミア女王の顔になっていた。二人の間には、穏やかな時間など存在しないのかもしれない。その考えにたどり着いた時、わたしはお兄ちゃんが真っ先にエリンシア様の下へ駆け出した事を思い出した。けれど直接エリンシア様を守る事はせずに、ただひたすら敵を切り捨て、敵将を討った。まるで、エリンシア様に対する自分の役目を知っているかのように。
 
 わたしはエリンシア様へ一度頭を下げると、広い歩幅に揺れる赤いマントを追いかけた。

 
 


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