確かなこと

back



 中立を貫くと決めてから、奔馬のように時が過ぎていた。
 クリミア王城から離れにある館は、大陸を割拠する怱々たる王たちに宿を貸している。屈強なラグズの王たちに、ベオクの部屋は小さすぎやしないか。正直にそう胸中の心配を尋ねると、巨躯の王らは大口を空けて高らかに笑って見せた。「客人の身でこれ以上何を申そうか」と。
 また、彼らより半分ほどのなりではあるが、彼らに押されぬ大きな存在感を示すベオクの皇帝も同じ答えをエリンシアに告げた。

「エリンシア殿。中立であるそなたを巻き込んでしまって本当に申し訳ない」
 充てた部屋にて、また十三の皇帝は、いつになく弱々しい声を出した。傍には彼女の腹心中の腹心である二人の天馬騎士が控えているが、祖国から遠い土地での心細さは言葉に代え難いものが汲み取れた。
 ラグズの王たち、ベグニオンの皇帝、そしてクリミアの女王がこうして一ヶ所に集まり、新たな連合を結成したのは、彼女の亡命によるものだった。家臣たちの奸計により国を追われてしまった彼女の辛さは、三年前、相手は隣国の侵略によるが、同じく国を追われたエリンシアにとって対岸の火事と思えない。ましてや、神使でもあるサナキは三年前にエリンシアの後ろ盾となり、クリミア再興の荷を背負ってくれたのだ。ここでその恩を返さなくて何となろう。

「お気になさらぬよう。早期の戦乱の収束がわたくしの望みであります」
 そう返すと、サナキは少しだけ固い表情を緩めた。年の頃より少し幼い顔立ちが、窓から差し込む茜の光に照らし出される。たった五つで、ベオクの宗主国を継いだ身体が、恐ろしく小さく見えた。だが、それでも彼女はベグニオンの皇帝として経ち続けなければならない。その重みはどれほどのものだろう。そう考えながら、エリンシアは黙礼して部屋を出た。扉を開けると、部屋の外で待っていたルキノが後に続く。

 サナキを照らした赤い光で、すでに太陽が西に沈みかけていると気付く。客人用の館は実用性よりも装飾に傾くきらいがあり、窓は大きく縁取られていた。クリミアの丘陵地も赤く染まっているも、多種族の兵でにぎわっていた。一昨夜のガリアとの国境近くでの戦闘。それが終結した矢先にサナキ亡命の報。そして、昨夜のラグズ連合軍との会談。その流れが、新たな連合軍の結成へと繋がった。

「ジョフレには突然大きな仕事を負わせてしまいましたね」
「陛下の決めた事です。弟も喜んでクリミア軍の編成に勤しんでいますわ」
 ラグズ連合軍の兵はもちろん、サナキを擁した聖天馬騎士団、それにクリミアの宮廷騎士団。ベオクとラグズが混ざり合った大軍が結成されるのだ。軍を指揮する者たちの慌しさは容易に想像できた。
 乳兄弟の仲ではあり、二人しかいないこの場でも、女王と従者の口調は変わらなかった。それは、突如国に舞い込ませてしまった戦への負い目がある。恩義がある者の困窮とは言え、内乱がひとまずの終息を終えたばかりのクリミアが再び戦に関わるのは心が痛む。しかし、もはや大陸全土までを覆った戦争の影を一刻も早く払わなければ、来たる災いはより大きなものになるだろう。

「そう言えば」
 ラグズ連合軍には、唯一のベオクの部隊が存在した。エリンシアにも馴染みが深いグレイル傭兵団。窓に寄り、目下黒い影のような人だかりを探すが、長い影を揺らす尻尾や翼、物々しい鎧は多くあるが、彼ららしき姿は見えなかった。
 エリンシアが今まさに剣を交えんとする軍の前に立ち、中立であるクリミア領内からの退去を願い出たのも、こんな茜の最中だった。独り戦場の中に立つエリンシアを助けてくれたのは、紛れもないグレイル傭兵団だった。その後、簡単な礼しか述べていないのを思い出す。だが、この様子では、一国の王ですら彼らに近付く事も容易ではなさそうだった。実力豊かな彼らである。恐らくは重要な任を任されるであろうと、名残惜しく窓から離れた。
「あ……」
 しかし、惜しむ念が呼び寄せたのかと思うほどに、思い描いていた影が目前に現れた。取り分け呼び立てていたわけでもないのに、何故か罪悪感が胸のうちに生まれていた。顔が少し熱い。
「これは、アイク殿」
 背後のルキノが肩までの髪を揺らす。その礼にアイクは「ああ」と短く答えるだけだった。
「グレイル傭兵団の方々のご配属はお決まりですか?」
「いや」
 アイクは太い首を振る。アイクの青い髪も、マントも一様に朱に染まっていた。ただ、濃い影だけがその青さを残している。
「ベグニオン軍の連中がなぜか悪気を起こしているみたいでな。神使の命令だから明日まで控えているようにと言われたんだ。それで、神使に苦情を言いにきた所だ」
「まあ」
 エリンシアは笑みを見せた。
 亡命という屈辱を味わい、食客の身となり、エリンシアにはすっかり弱気を見せていたサナキだが、アイクにはしっかり普段の神使の心持で接しているようだった。まだ子供と言っても良い頃だが、さすがは神使サナキだ。芯の強さに安堵する。
「神使さまも、傭兵団の方々に期待して今日はゆっくり休むよう仰せだと思います。それに、そろそろ晩餐の時間ですから」
「終わるまで待ってられん」
 いかにも不服そうなアイクの顔があった。
 傭兵ではあるが、一度は爵位を享け、ベグニオンでも賓客として迎え入れられた経験を持つ。貴族の風習がいかに冗長で無駄が多い事を、彼は経験から知り得ていた。その顔では、亡命先のクリミアでも、その貴族然とした衣食住は変わらないのだろうと苦々しく感じているはずだ。
 夕餉が話題に上がるや否や、長い廊下の遥か先から胃を刺激する匂いが漂ってきた。この客用の館にも、使用人専用の隠し通路が施されている。壁を隔てても、料理の香りは遮る事はできない。
 さすがに一国の皇帝が密かに摂る食事にまで乱入する気はないらしい。重々しく落とされた肩は、諦めを示していた。
「どうですか。これからわたしと」
 苦い顔は、ちらりとエリンシアを見ると大股で廊下を歩き出した。長い影は黒に近く、夕日に染まった絨毯に伸びていた。エリンシアはそれを小走りに追う。
「……しかし、あんたには色々と難をかけるな」
 ぽつりとアイクが呟くが、エリンシアの面は絨毯を踏むつま先に置いたままだった。
「戦争を早く終わらせるのが、わたしの一番の望みですから」
 サナキに言った答えと同じものを彼にも返した。
「あんたらしいな。だが、今回の敵はベグニオンだ。率いているのは元老院とは言え、恩のある帝国と戦うのは辛いだろう」
 デインの手からクリミアを取り戻したのは、間違いなくアイクだった。そして、先までの内乱収束の大きな橋となったのも、彼らの功だった。だからこそ、守りってきたクリミアが再び戦火に巻き込まれるのが痛ましい。アイクはそう言っているようにも思えた。
「恩義はサナキ様にあります。あの方を廃して国を奪わんとした元老院ならば、喜んで兵を向けましょう。それに……」
 エリンシアの口元は綻んでいた。
「あなたがいるなら、難だとは思いません」
 何か妙な事を言っただろうか。赤い光に縁取られたアイクの身体がぴたりと歩みを止め、憮然とエリンシアを凝視している。しばらくそれが続き、やがて彼の視線が逸れて鼻が鳴った。
「また、あんたもおれに無茶を強いる訳か」
「ええ」
 エリンシアの所見では、サナキの心中は、彼を新たな連合軍の将にしようと考えているのであろう。恐らく彼もそれを薄々と感じているに違いなかった。
「まあいいさ。それがあんたの望みならば」
 あんたが望むなら。
 三年前、その言葉を、何度聞いてきただろう。また言ってくれるとは思わなかった。もうアイクはエリンシアが雇っている訳ではないのだ。ましてや家臣でもない。詰まる胸を抱え、エリンシアは笑った。
「そう言って下さると、嬉しいです」
「そうか。だがな……」
「……っ!」
 突如、エリンシアの手首が捩じ上げられた。痛みはないが、突然の力に驚くしかなかった。そのまま強引に窓際に身体を寄せられる。息を飲んで肩越しを見たが、ルキノの姿はなかった。気を利かせたのか、隠し通路にでも身を寄せたのだろう。
「あんたが危険な目に遭うのは歓迎としない。たとえあんたが望んだとしても、だ」
 硬直する耳元にそう囁きかける。身体が熱を吹き込まれたようだ。頭と心が平静さを失いつつあるが、アイクが何かに対してそう言っているのだけはわかる。しかし、それが何なのかまでは悟り切れなかったが、
「もうあんな無茶はするな。おれもさすがに肝が冷えた」
 数回の深呼吸ののち、その言葉が先日のラグズ連合軍とベグニオン帝国軍との間に立った事を指しているのに気付いた。身を賭した停戦と撤退の願いは無事に聞き入れられたが、帝国軍の一部が大将の命に背き、エリンシアに攻撃を仕掛けてきたのだ。
「あの時は、本当にありがとうございました。もうしません、あのような事は」
 あなたが望むなら。
 そう告げようとしたが、喉元でそれを止めた。エリンシアは王だった。国を救うためならば、この先どんな危機にも飛び込むだろう。アイクもきっと、それを悟っているはずだ。だが、言わずにはいられなかったのだろう。
 もし、今後再びエリンシアの身に危機が訪れれば、彼はきっと助けに来るはずだろう。
「あんたが望むなら」
 ひと振りの剣と、その言葉を携えて。
 一国を率いる者として、そんな希望と確信は愚かしい事この上ない。だが、エリンシアの額の冠を無遠慮に剥がす力も持つのがこの男だった。もし、あんたが望むならと言われれば、エリンシアも手放しで頷くだろう。嬉しさも同時に、悔しさも生まれてしまうのだ。
 


09/06/15back

-Powered by HTML DWARF-