18 帰り道




 懸念していた黒雲は、案の定厚みを増し、辺りの空気を一編に冷やす。
「来るぞ」
 心配そうに空を仰いでいたミストの手を引き、手ごろな軒下を目指した。しかし、その努力も及ばず、二人の頭上は冷たい衝撃を受けた。それが次第に頻度を増して行くのがわかる。
 急激な雨足に慌てる声の中、ボーレは荷物で頭を守るように、ミストはそれ自体を守るように、自然と半身を屈める。濡れた石床に足を取られないようにしながら、小走りに足を繰り出した。

「あーあ、濡れちゃった」
 ようやく避難場所へ辿り着いた時には、髪も服も重みを増していた。肌に張り付く髪に眉をひそめながらも、荷物の無事に安堵する。
「この雨だったらじきに止むだろ」
 だからしばらく待ってようぜ、と下を向いて雨水をたっぷり含んだ服を絞った。雨粒の応酬を受けたのは、ボーレも同じだった。ミストとは反対に、買い出しの品を傘代わりにしていたが、ほとんど意味をなさなかった。それをミストに咎められるも、ボーレは大丈夫だと笑ってみせる。ボーレが持っていた麻袋の中は、ほとんどが酒瓶だった。頼んだ面々も、中身が無事ならば良しと言う者たちばかりでもある。

 だから気にすんな、とミストへ首を向けた途端、ボーレの顔が凍りついた。雨ですっかりと濡れたミストの服は、例外なく重そうにミストの肌に吸着している。とっさに視線を黒に近い灰色の雲へ向ける。雨粒がゆっくりと額を撫でた。
 
 ―――こんな時に、そんな事考えるなっ
 そう自分を叱咤するも、一度意識してしまえば蟻地獄のように引き込まれて行く。横目でちらりと見やれば、体温で温まった水と服が不快なのだろう。胸元の布を摘んでその感触から逃れようとしていた。
 止めろ。いや、見るこっちが悪いのだ。
 呼吸を整えながら、ボーレはこの雨で人気が薄らいだ通りを眺めた。二人の身長差が災いして、ボーレの新天地が臨めそうだった。先刻のあわやの場面を思い出し、首を振った。
「きゃ―――」
 未だ水を多く含むボーレの髪は、池に落ちた犬よろしく水しぶきを振りまく結果になってしまった。我に返り、慌てて周囲を見回す。隣にいたミストはもちろんの事、近くにいた老人も露骨に怪訝な顔をしていた。
「あ、すいません」
 引きつった愛想笑いで老人に謝るも、「迷惑な若者」を見る目は変わらなかった。
「もう、ボーレいきなり何するのよ」
 一番の被害者が非難の声を上げる。悪かったよとミストを振り返ったのが、運の尽きだった。水が滴るスカートから伸びる脚に釘付けになった。普段より惜し気もなく見せているはずなのに、気にも留めていなかったはずなのに、水滴が白いそれを伝うだけでボーレは頭が沸騰しそうになる。
 
 ―――駄目だ駄目だ駄目だ……っ!
 ミストに訝しがられる前に、その呪縛から解き放つ事ができた。大きく息を吐いて煉瓦の壁に背を預ける。
 もう、黙って雨が止むのを待つしかなかった。


「折角買ったのに、みんなに悪いんじゃないの?」
 雨に降られ、頼まれ物が入っている麻袋を傘としたボーレに咎める響きを含ませた。
「平気だって、これ酒瓶だし。瓶は濡れても酒が無事なら問題ねぇよ」
 と白い歯を見せたボーレが一瞬だけ強張った。それを不審に思うも、雨音と喧騒だけを聞く事になる。
 わたし、何か変なのかな―――
 雨に濡れて変な格好になったとか。ミストはずぶ濡れになった己の身体を見回す。確かに、服は重そうに水を含んでしまっている。この服は、明るい色と軽さが気に入っていた。
 水びたしなのはボーレも同じではないかと思うも、ミストは無意識に襟元を指で摘みあげた。冷たい空気が胸元に入り込んで心地良かった。
 やっぱりどこか変なのかな。
 ちらりと隣のボーレを見る。相変わらず、難しそうな顔で空を睨んでいた。乾きとは程遠い髪からは、時折雨水が横顔を流れていた。それが筋張った喉を伝い、厚みのある胸を覆う布に吸い込まれる。
 また逞しくなったかもしれない、と感想とともにミストの胸が一度鳴った。剥き出しの腕を見れば、冷えた空気で粟立ってはいるものの、普段の鍛錬の土壌を主張している。脂など欠片も想像つかない皮膚の張りと、隆起。兄も、重騎士のガトリーもこうであるだろうが、ボーレの成長具合につい目が行ってしまうのだ。そのボーレが、急に頭を振り乱し始めた。
「きゃ―――」
 雨粒だった水滴が一帯に飛び散る。ミストはもとより、他の宿り客までもがそれを被ってしまった。ボーレが周囲の人たちに謝っている声が聞こえる。
 すでに充分水を吸っていたのだが、ボーレから飛び散った水をスカートに受けたのを気にしてしまう。飽和点を超えて久しいスカートから、小さな川が生まれた。それがミストの脚に伸び、新たな不快感を生成する。先刻のボーレのように絞りたかったが、短いスカートではさすがに憚られた。
 ボーレのため息が聞こえる。先刻の失態もあるが、すぐに止みそうだと踏んでいたが、意外と続く雨に辟易したのだろう。
 ミストも軒を借りているパン屋の煉瓦の壁に背を預ける事にした。
 
 
 激しい戦闘と、厳しい道のりの行軍が続く中、今はほんのひと時の休息なのだと小さく息を吐いた。目を閉じれば、雨の音とボーレの気配をじっと感じる。
 これが平穏と呼べるならば、この雨も悪くはない。


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